第五章 暖炉宝石
5−1 掴みそこねたものと手の中にあるもの
リヴェレークにとっての長い夜がようやく明けた。
眠りにつこうとしては、何度も水中にいることを錯覚し、夢と現を行ったり来たりしていた。
(もう、見ることはないと思っていたのに)
そう思えていたことこそが、幸せへ近づいている証なのだと、わかっていた。
ふらりと居間に入れば、いつも朝食の用意がされているテーブルにはお気に入りのマグカップがひとつ。そこへ珈琲牛乳がたぷりと注がれる。
「あ……りがとうございます」
反射的に礼を告げてから、自分が、なにも食べたくないと思っていることに気づく。
それでもマグカップに触れれば、冷えた指先に温かい。口に含むと、砂糖の入っていない牛乳の素朴な甘さは染みわたり、珈琲のふくよかな苦みが思考を少しだけ晴れさせた。
このままではいけないことは、理解している。
*
「どうしたのよ」
まだ昼食よりもずっと早い時間。リヴェレークはクァッレのレストランを訪れていた。いつもの影渡りではなく、魔女の箒を本来の使いかたでもって空を飛んできた彼女を、クァッレと、さっそく働いているルファイは驚きつつも受け入れる。
「ひどい顔色だわ。ルフカレドは?」
「なにもありません。ルフカレドはいません」
クァッレの表情がぴきりと固まったが、当然リヴェレークは気づかない。
「とりあえず食事をなさい」
席に案内されたリヴェレークは、カウンター越しではなく、横から出されたグラスに口をつける。そのままクァッレが隣に座るのを横目で見ながら、ごくりと飲み干したが、それはいつもの空透かしの酒ではなかった。
「酒を切らしたのですか?」
「あのね、今のあなたがあれを飲めば、溺れるに決まっているでしょう」
「……溺れても、いいです」
ため息とともに言葉をこぼせば、最近では綺麗に結われることが常の、しかし本日は少しも手入れのされていない髪がそわりと揺れる。
その影の色に呼応するように、隣でこちらを見る深黄色の瞳が、ひどく傷ついたように黄金の輝きを潜めた。
あまり、見たくはない色だ。
「あ……いまのは」
「まったく、あなたがそんなことを言うなんて、よっぽどね」
クァッレにそのような目をさせてしまったのは自棄を起こした自分だ。自分だってルフカレドが言うはずもないことを言われて傷ついたのに、なぜ同じことをしてしまったのだろうか。
(いや、ルフカレドは……)
同じではない。昨晩の異常を、リヴェレークの自棄と同じにしてはいけない。そのような被害妄想で彼は戻ってこない。
渦巻く水の中で、後悔が肥大化していく。
たとえばあの夜に交わっていれば。あのとき怖がらなければ。
(わたしは、間違えたのだ)
互いの要素が強固に結びついていたなら、彼を奪われることはなかったかもしれない。
ルファイには、戦火の聖人は繋ぎが必要なほど簡単には失われないと言ったが、人ではない、強大な力を持つ者でさえ、簡単に失われることはあった。
「ねぇ」
酒を飲まずとも溺れそうなリヴェレークを、クァッレの声が繋ぎとめる。
「影渡りをしたら影に沈んでしまうと、そう考えて空を飛んできたのでしょう? 影に沈めば誰の手にも負えないけれど、酒に溺れても私たちに迷惑がかかるだけだと、考えたのでしょう? そんな分別のあるあなたは、ねぇ、ここへなにをしにきたのかしら」
秋の明星黒竜は、静謐の魔女を古くから知る友だ。
まっすぐな髪を慈しむように梳く手が、友の思考を理解する言葉がそのまま、リヴェレークという生き物の輪郭をなぞっていた。
(……わたしは、無意識でもここへきた。ここには、トーン・クァッレがいるから)
ゆっくりと、影にすら潜んでいた静謐の気配が浮かんでくる。その瞳に、ぞっとするような青色がちらつく。
「繋がりが……ないのです。影を伝っても、気配を掴めません。ルフカレドが、いないのです」
切実な言葉がそのまま自分へ返ってきて、身を切られるようだった。ルフカレドがいない。そのことがここまで苦しいことだとは、知らなかった。
「助けてください、トーン・クァッレ。わたしを……わたしは、ルフカレドを助けにいきたいのです」
髪を撫でていたクァッレの手が、最後にそっと頬に触れ、そして離れていく。
「よく言えました」
秋の明星黒竜がその言葉に含めたのは、目指すべきものを見つけた者に対する、深い満足感。
ああ、まだ間違い尽くしてはいないと、リヴェレークは安堵した。
今は信頼できる友に助けを求めることが、最善策だった。それを選ぶことができた。
(ひとりでできることは多い。けれど、ひとりでなくてはいけない理由はない)
物語ではよく、周囲に心配や迷惑をかけまいとひとりで突っ走る主人公が出てくる。けれどもそれが原因で、どうしようもない危機に陥るのだ。
リヴェレークなら、そうはならないかもしれない。けれど、少しでも可能性があるならば、避けるべきだろう。
そもそもクァッレとの絆は、迷惑をかけたところで揺らぐようなものではないのだとリヴェレークは思う。それが、今までふたりが積み重ねてきた、かけがえのないものなのだ。
だからこそリヴェレークはここへきた。
「さあ、作戦を練るわよ」
クァッレはそんな友人の瞳に溜まった、今にも溢れそうな涙を掬ってやる。
豊穣のやわらかな視線で包みながら。
静かな、静かな涙を。
「静謐さん。これ、食べられます?」
カウンターの奥にいたルファイが粥の入った器を持ってきた。
「食べたいです。その……ありがとうございます」
まだ喉の奥の詰まった感覚はあるが、ルフカレドを助けに行くならば、食事は必要だろう。そのことも考慮して用意された粥が、身にも心にも温かい。
そうして少しずついつもの調子を取り戻してきたリヴェレークは、ルフカレドの身に起こったことを、ふたりに話した。
要は死闇の魔女が戦火の聖人を欲しがり、影から連れ去ったのだと。
「かなり厄介そうなのに捕まっちゃったわねぇ、彼らしいというかなんというか……」
「あれ、でも魔女と聖人の婚姻って、特別なんじゃありませんでしたっけ」
「はい。わたしがルフカレドに名を刻んで、それから彼もわたしに……――あ」
(そうだ。いないわけがないのだ)
ルフカレドに万が一のことがあれば、静謐の魔女に刻まれた戦火の聖人の要素も、無事ではない。
――否。そもそも結ばれた婚姻が剥がされるようなことがあれば、リヴェレークがなにかしらの損傷を受けているはずだ。
「まだ無事のようね」
まだ間違い尽くしていない。まだ無事でいる。
まだ、という淡いはずの希望が、リヴェレークに道を示していた。
カウンターの向こうでは、ルファイも一緒に考えてくれているようだ。人間には荷が重い出来事が続いているが、魔術師としての視点や感情はありがたい。
「聖人というのは、正味どれくらいもつんです?」
「ルフカレドなら、補給なく、かつ死闇の魔女に削られることを考慮しても、ひと月は大丈夫なはずです」
「……思ったより頑丈だったわ。むしろよく死闇ごときに捕まえられたわね」
「戦火と死闇はそういう関係なのだと言っていました」
やはり女性関係はどうにかするべきだと頭の隅で呆れながら考えつつ、とはいえ気を抜けない懸念点はまだあった。
いち早く気づいたのはやはり優秀な魔術師であるルファイだ。
「死闇の魔女は……人間からすると、崇拝の対象でもあるんです。その……死は、安らぎにもなり得るから……」
「彼女のことはよく知らないけれど、そういう傲慢さはありそうね」
「そうですね。ルフカレドを欲しがっていても、生かすことは重要視していないでしょう」
ふたりが濁した最悪の可能性を淡々と口にしたリヴェレークに、ルファイはほんの少し身構える。
けれどもこれは彼女が伴侶を蔑ろにしているわけではなく、確実に救いだす方法を探っているだけなのだ。現に友人の気質を知っているクァッレは、本調子になってきたと頷いている。
「あまり時間はかけられない、ということね」
なんにせよ、リヴェレークにはできるだけ早く助けるという気持ちしかない。
(切り捨てたいと、そう願う相手に陥れられたのだ)
「ふたりで幸せになると決めているのに、長いあいだ嫌な思いをさせるつもりなんてありません」
「そもそもなんだけど、死闇って静謐に連なるものじゃなかったかしら」
「系統としてはそうですが、性質上、直接でないとわたしにもどうにもできないようです」
先ほどから「死闇、死闇ねぇ……」と呟いているクァッレは、なにか見落としているものがあるような気がしているそうだ。
「ねぇ、他にルフカレドはなにか言っていなかった?」
「見た目は清楚な少女らしくて、性格は生贄を使う手法を好むと」
「うわ……」
「生贄……」
これはさすがに恐ろしかったかと人間を見やれば、なにか思い当たる節があるのか、ルファイは宙を睨んでいた。
にっこりとそのようすを見つめるクァッレを見つめ返し、それから、リヴェレークに目を向けた。
「これは魔術的な考えなのですが……」
「教えてください。判断材料は多いほうが望ましいです」
「静謐さんの目を欺けるほどの影を動かせたということは、魔術的な条件を達成した、という考えかたもできるんです」
「条件……あ、そういえば」
あの雨の城で出会った、死闇の魔女の駒だという灰色の女性は、不思議な真実を話していた。
死者の間という場所は、どこにでもあって、どこにもないのだと。
扉の向こうにあるという話は、偽りなのだと。
「たったそれだけの話でしたが、繋ぎになりますか?」
「魔女の領域を提示したのだと思います。一方的な繋ぎの押しつけかたが魔女らしいですが、あえて証跡を残したのであれば、静謐さんという格上の相手にも繋がりやすくしたのでしょう」
「……仕掛ける気満々でした」
わずかに眉をひそめたリヴェレークの隣で、くすりと、クァッレが笑みをこぼした。
「トーン・クァッレ?」
「どこにでもあって、どこにもない、ねぇ。ふ、ふふ……死闇の魔女はお馬鹿さんね」
エプロンを外しながら立ち上がったクァッレ。手を引かれたリヴェレークもいっしょに立たされる。
「リヴェレークには、こんなにも頼もしい友がいるというのに」
「わ……」
突然浮き上がる身体。なにが起こったかもわからぬまま、気づけば魔女は友人に背負われていた。そのまま店の外へ運び出される。
「さあ行くわよ。ルファイ、留守番は頼んだわ!」
「はいはい、お気をつけて」
身長差を考えても、同じ女性とは思えない力強さで、クァッレはたんと地面を蹴った。そうして高く飛び上がった途端、やわらかな人型の乗り物は硬い鱗を持つ漆黒の竜へと変わる。
店の扉が閉まる直前。
「あっ、静謐さん! ふたりで幸せになるって話、ルフカレドにもちゃんと伝えてあげてくださ――」
*
秋の明星黒竜が空を駆る。背中には静謐の魔女がしがみついている。
雲なき冬空の中、黄金の瞳が溢れさせた光は長く尾を引き、陽の軌跡のように烈々ときらめいた。
「飛ぶ前にルファイが叫んでたの、聞こえた?」
「聞こえました。耳が赤いままだと困るので、少し風を浴びさせてください」
淡く笑む気配とともに、調整された風がふわりと顔にあたる。
(もう、髪飾りの音がしないことすら、物足りなく感じる)
両耳のうしろにある髪をそれぞれ適当に丸く結び、そこにいつもの髪飾りを着ける。しゃらしゃらと火を宿した星の欠片が風に鳴る。
クァッレが飛ぶのは星の道。
昼間の星たちがふたりのために道をあけ、旅路は青空にさざめく。
世界の影はうまく未だうまく繋がらず、影渡りでしか行けない場所もあれば、影渡りでは行けない場所もある。そんなところに、死闇はあるという。
(それでも、わたしはそこへ行ける)
どこにあろうが、どこになかろうが。明星黒竜の行く先に、目指すべき場所はあるのだ。
リヴェレークはふと、左手に指先ほどの大きさのなにかを握っていることに気づいた。
開いてみれば、手のひらの上には不思議な石がある。
いつの間にか紡いでいたらしい、とろりとした質感の透明な宝石。その内側で静謐の影と戦火の熱が揺れている。まるであの水の中に溶けあうみたいで、心底美しいと思う。
(これはわたしの意思だ。目指すべき幸せなのだ)
胸の前で、石をぎゅっと握りしめる。
もう絶対に、見失いはしない。
誰もが辿りつく終焉――死者の間のひとつ。死闇の領域。闇はうごめき、おぞましく
どこにでもあって、どこにもない場所。
ああやはり、死闇と静謐は似ている。リヴェレークは同類の気配に引き寄せられるようにしてその闇の穴を覗いた。
「私が送れるのはここまでよ」
「はい。ありがとうございます。……あとは、ルファイと美味しいご飯を作って待っていてくれたら、嬉しいです」
ここから先はひとりだ。しかし無策のひとりではない。後ろで、支えてくれる存在がある。待っていてくれるひとがいる。
「必ず、ルフカレドと一緒に戻ってきます」
鮮烈にクァッレの瞳は光り、その大きな口がリヴェレークの額に触れた。
秋を冠する明星黒竜が贈るのは、特等の祝福。
「ええ、必ず。あなたの願いが――幸せが、実りますように」
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