5−2 死闇の王都と歪な信仰心

 ここはどこだろう、と、リヴェレークはゆっくり周囲の様子を観察した。

 ひどい腐臭がする。灰褐色に沈んだ街は多くの建物が退廃と崩れ、吹き荒ぶ風がその塵をさあざあと運んでいた。生き物の気配はない。ただ風にかさつく音が、重く心に圧をかける。

 ――死闇の王都だ。そう認識した瞬間、彼女は装いを変える。

 光が生まれた。

 それは羽だ。死闇の暗がりに仄かな光を湛え、リヴェレークの背中から悠々と、どこまでも清廉な真白が広げられる。

 ばっと裾を払えば、同じ羽根でできたドレスもまた闇の中に浮かびあがった。羽根の一枚一枚は計算され尽くした角度で隙なく重ねられているものの、産まれたばかりの赤子を包む産着のようにやわらかく、ただ純朴に生命を表している。頭や腕を包むレースは、雲の、陽光に当たった部分だけを丁寧に剥がしたような、繊細なきらめきがあしらわれた。

 そして左手の指には、先ほどクァッレの上で紡いだ不思議な宝石の指輪を。

 はらん、ひらんと、ドレスからは時おり羽根が舞い散る。

 それらを伏し目がちに追う瞳には聖なるものの凄絶な輝きが宿っていることに、本人は気づいていない。

 とある山国の信仰対象である羽人の装いをした静謐の魔女は、ひたすらに無垢。


 まずは自分が置かれている状況を把握しようと、リヴェレークは王都を歩く。

 死者の間にしても死闇の領域にしても、世界の縁に存在しているものだ。虚構――物語として認識したことはない。しかしルファイが言っていたように、死闇の魔女がこの領域を提示しリヴェレークの訪れを待っていたのだとすれば、そこには物語に近い紐づけがなされていると考えてよいのだろう。

 普段ならばこういった場所では紛れることを重要視するところであるが、それよりも今は、死闇とは異なる要素であることを強調しておきたい。

 そんな思惑があっての、この装いだ。

 やはり生者は見かけないが、死闇の領域らしく、魔女自らが調達したのであろう、あちらへ渡った曖昧な存在が多くいる。

 彼らは羽人の来訪に驚き、そして喜んだ。

「ああ、神よ……!」

 こちらを見て懺悔するように涙を流している、皮膚の爛れた死者。痩せぎすの子どもの死者はリヴェレークのドレスから舞い落ちた羽根を広い、母と思しき死者に見せてははしゃいでいる。萎びた食物の入った籠を持って近づいてくるのは骨をむき出しにした死者で、腕を失くした血まみれの死者に厳しく排された。

 誰も彼も、見た目にはさして変わりのない、死者たちだ。

(やはり、物語のかたちをとっているのか)

 どうやら死闇の王都では役割が与えられるらしい。

 それは決められた結末を迎える物語になぞらえた手法で、過程に自由は効かないものの、いちど物語を始めてしまえば終わるまでは崩れにくいという利点がある。

 望む結末にもならないであろうリヴェレークにとってはただ身動きが取りにくいものでしかなく、死闇の魔女もそれを狙うために、気づかれる危険を冒してまでわざわざ接触してきたに違いない。

「私たちにも羽を、いただけませんか」

「毟らないのであれば、ご自由に」

 自分の役割は聖職者のようなものなのだろうと、魔女は死者たちに羽を与えてやりながら考える。

「ご慈悲に感謝いたします!」

「これで俺たちも光の島へ渡れるぞ!」

 羽を手にした者たちの深い感謝と安堵の気持ちが、流れ込んでくるようだ。それはリヴェレークの糧となり、また彼らに施しを与えてやらねばという気になる。

 しかしその感情は、静謐の魔女が持つものではない。

(……侵食が、早い)

 羽人の羽は、救済へ導く光。星に連なるものだ。

 水底に棲む静謐とは、違う。

 なにもかも、自分とは交わらない。混ざらない。

 溺れるほどの水を飲むようにして、リヴェレークは己の心を沈め、鎮めた。この装いが示す羽人と静謐の魔女たる自分は別なのだと。せめて意識の中だけでもしっかり線を引いておかなければ、簡単に物語の一部にされてしまう。

 以前はもっと自然にできていたはずの線引きを、リヴェレークは意識的に行った。

 そうして今いちど気を引き締め直してから、彼女は口の軽そうな者を探し、近寄る。ドレスの周りで減ることなく舞い続ける羽を適当に掴み、その露天商を営む死者に手渡した。

「この街には衛兵が多いですね。なにか問題でもあるのですか」

「もうすぐ聖羽の儀が始まるでしょう。それの準備でさア、お偉いさんたちはピリピリしてんですよ」

「あんた、羽人さまに向かってなに言ってんだい! ……申し訳ないねぇ、羽人さま。あたしらみたいな根無し草はなにかと煙たがられるもんだからさ」

 隣の女店主の死者にばしんと背中を叩かれた男の死者は、やれやれと痛むところをさすった。「辛気臭い顔してんじゃないよまったく。あと七日の辛抱だろうに」と言われても懲りずに「耐えたところで俺らになんの益があるんだよ、あんな儀式」と返すので、「だからあんたは羽人さまの前で……っ!」と再び叩かれている。

 とうに生きる時間を失った彼らが営む日常はあまりにありきたりで、だからこそリヴェレークの目には歪に映った。

(それにしても……)

 聖羽の儀か、と心の中で死者の言葉を反芻する。

 羽人信仰は山国のものだ。都会――それも死闇の領域で興るはずのないものである。

 であればこれは、リヴェレークの装いに影響を受けた流れなのだろう。決められた物語の中であるとしても、自ら設定した属性によって、細かな部分は調整が効くらしい。そこから流れを崩していくこともリヴェレークは視野に入れる。

 なんにせよ、彼女を救いの手と崇めてくる死者たちは、その聖羽の儀とやらを心待ちにしており、おそらく七日後、なんらかの儀式を行うことが死闇の魔女による筋書きなのだ。


 陽が落ちきる前、リヴェレークは王都の中程にある、広場だったと思われる場所に到着した。

 瓦礫と化した街並みを背景に張られた、場違いなほど美麗な天幕。それは聖羽の儀を行う羽人が滞在するためのもので、中に入れば、まるで彼女自身が用意してきたかのように衣服や食材が置いてあった。

 食材にいたっては、ひとり七日間で消費できるような量ではない。そもそも一緒に置かれた調理器具の大きさからして、おかしい。

 かあんと、天幕の外で薪の割られる音がした。


 野菜は少し大きめ、肉の腸詰めは適当にちぎっていく。クァッレの調理姿は数えきれないほど見てきたし、料理についての書物を読んだこともあるので、やりかたはわかる。

 魔法で水を入れた寸胴の大きな鍋を、死者たちが熾した火にかける。

 そこへ野菜を入れながら、リヴェレークは小さくため息をついた。

(この物語はどこへ向かっているのだろう)

 死闇の魔女がルフカレドを得るにしても、やりかたはさまざまだ。リヴェレークには考えもつかない方法だってあるだろう。

 それでも、これまでに蓄えてきた物語を参考に、考えられる可能性を挙げていかねばならない。

 鍋の中は透明感のある琥珀色。ぐらぐら野菜が踊っている。これだけ多いと量もよくわからないため、適当に塩と胡椒で味を整える振りをする。先ほどからふわりと野菜の甘い香りがたっているが、どうせ味はしないのだ。

 周囲で期待の声をあげている死者たち。羽人に盲目的な崇拝を向ける彼らも、静謐の料理を口にすれば我に返るだろうか。

 雑な思考をしながら肉の腸詰めを放り込みもうひと煮立ちさせる。

 見た目だけは非の打ち所がない、スープの完成だ。


 いつの間にか死者たちは器を持って並んでおり、リヴェレークは一人ひとりに鍋からよそってやらねばならなかった。

 感謝をされ、涙ぐまれ、また祈りを捧げられ。

 並んでいた全員へ行き渡ったその残りは、ひとりぶん。やはり自分も同じものを口にするのだと、そこにあった器に移した。

 ありがたいとばかり繰り返す死者たちは味に関してなにも言及しない。それでもリヴェレークはなんの期待もせず、くたくたになった野菜を掬い、口へ運んだ。

 あるのは、舌の上で食材が溶ける食感のみ。

 味がしなければそれはぐちゃりとした異物でしかなく、ただでさえ消沈している彼女に、この食事は苦行であった。

(それでも、食べなければ)

 魔女や聖人は、補給を絶たれたとしても――たとえば食事をしなくとも多少は生きていけるものだ。とはいえそれは、自身の要素を取り出せるのであればという状況に限る。

 ルフカレドがどこにいるかわからない今、静謐を司ることで死闇の魔女が用意した物語を崩してしまうのは避けたかった。

 食事を得られなかった死者たちが、遠巻きに「明日こそは」とこちらを覗っている。

 今はただ、聖職者として彼らを掬いあげていくしかない。


       *


 死闇の王都には夜がなかった。

 正確には、一日は朝食から始まり、夕食で終わる。リヴェレークが夕食を終えればすぐ、次の日の朝食が始まる。それがもう三日も繰り返されている。

 時の魔女の領域を侵しているわけではないのだろう。

 あくまでも死闇の魔女が紡ぐことのできる範囲で、物語の場面として切り取られた時だった。

 頭の回る魔女だ。時間をかけることでリヴェレークへの侵食をたしかなものにし、しかし余分な時間は与えないことで対抗する手段を選ばせない。

 リヴェレークは食事の時間をずらすことで余分を作れないかいろいろと試してみたが、すべて徒労に終わった。然るべき時間に食事を与えてやらねば信者たちが絶望するのだ。

 ないはずの罪悪感に苛まれ、また意識が混濁する。

「食事は今ここにいる皆のぶん、あります」

 無味な料理はあまり蓄えにはならないが、ないよりはましだった。そうして自分を保つあいだにも、救いを求める死者たちが――物語の贄が集まってくる。

(……贄、なのだろう)

 聖職者の料理すなわち、施し。それを受ける死者。

 羽人の装いによって紛れずにいることを選んでよかったと、リヴェレークは心底そう思う。そうでなければ、彼女自身に贄としての役割が紐づいてしまうことも、聖職者となった誰かの料理を口にすることも、避けられなかっただろう。

 今でさえ、聖職者としての役割を振られてしまったリヴェレークは、料理をしないという選択肢を選べないのだ。

 なぜか増え続ける食材に、それならば出来上がった状態で欲しいものだと思いはすれど。ただ、自分の生み出した味のない固形物に心身の消耗を進めるだけ。


       *


 ずっと、ルフカレドの気配がはっきりとしない。

 ここにいることはたしかだが、物語のうえではまだ出会う段階にないのだろう。おそらくそれは、聖羽の儀になるはずだ。

 だんだんと役に意識を侵食されていくのを感じ、リヴェレークは焦りを感じていた。彼女の中には今、静謐の魔女とそうではないものの意識があって、ふたつは乖離したまま勢力図を塗り替えていく。

 おお、おおと咽び泣く死者がまた増える。もう広場跡地には入りきらないほどの贄が、リヴェレークのもとに集まっていた。

「わたしが、あなたたちを導きましょう」

 これは救済ではないと心の奥底ではわかっているのに、膜のかかったようにリヴェレーク自身の意識は内側に留まり続け、言動に表れない。

「羽人さまに感謝を!」

「感謝を!」

「はい、あと三日の辛抱ですよ」

 穏やかな笑みを浮かべた彼女は、青い瞳に聖なるものの輝きを増やし、真白の羽根をばらまいた。

(わたしは善人ではない。彼らを救うつもりもない)

 人間の、なにかを崇め奉ろうとする力は強い。

 ゆえにしっかり意思を保っていなければと、そう思うのに。


       *


(――指輪が邪魔だ)

 小さいとはいえ、指輪にしては存在感のある石が、調理をする際にあちこち当たるのだ。

 縋ってくる彼らのためにも、丁寧に料理を作らなければ。着飾っている場合ではない。そうして外そうとして視界に入れた、静謐と戦火の色。

 ぞわりと背筋に冷たいものが走る。

「……しっかりなさい、わたし」

 死闇がここまで深く入り込んでいるとは思わなかった。けれどもまだ物語は続くのだ。

(儀式まではあと二日。おそらくそのとき、わたしの意識は完全に飲まれる)

 そうなってしまえば、今みたいに指輪の宝石を目にしただけできちんと意識を取り戻せるか、怪しい。

(これは羽人が力を使う際に必要な指輪だ。大事な大事な、信仰の塊だ。……そういうふうに、物語を編んでおこう)

 現実にいないとき、リヴェレークは自分の心を信用しない。

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