4−5 戦火の執着と死闇の影
ぎまむ、と家が鳴る。
相変わらず無言を貫く魔女の家であるが、聖人が住むようになってからというもの、段々と主張が激しくなってきた。とくに冬の明星黒竜の不在による大惨事の夜を越えてからはその傾向が顕著だ。
(わたしがもう、受け入れているから)
ほのかに照明の灯る寝室には甘やかな空気が流れており、それが意味するところを家も感じ取っているのだろう。せめてもの反抗を主張する家に、ルフカレドは口の端を持ち上げる。
「はは、必死だな――いっ」
なにかの破片がルフカレドの頭に落ちてきた。
ようやくリヴェレークの髪飾りに戦火の要素を込めることになった今夜。
実際に戦場で使ったという剣の刃を、ルフカレドは魔法で平たく伸ばしてから器のかたちへ変えた。内側には細かな凹凸ができており、それは小さな国を模しているのだという。
彼が指示する通りに小さな髪飾りたちを器に配置したリヴェレークは、部屋の中央に置いたそれらから離れて窓際へ寄る。
「お願いします」
そうしてルフカレドが浮かべるのは、手にした細身の剣と同じ、鋭利な笑み。
どこからか火の気配がして、濃紺のケープマントが揺れる。
剣舞と見紛うひと振りは、一瞬。
轟々と、戦は再現された。
器となった剣は、どれほどの悲劇を生み出したのだろう。準備をしたいと言った聖人が、髪飾りへ要素を込めるためにどこかの――この器が示す国を落としてきたことは想像に難くない。
ルフカレドが創りあげた誰かの思惑のなか、いっそ虚しいほどに抵抗は拙く、街並みは次々と崩れていく。
そこで暮らしている人々の生活も、火の中へ消えてしまう。
無作為に選んだわけでなく、もとより必要な国落としであったのだとしても。
(わたしが滅ぼしたも同然だ)
いつか滅びるなら、それは今であっても変わらないとは思わない。今を生きる者にとっては、現実に起こった災いでしかないのだから。
それでもリヴェレークは、自身の行いを正当化しないままに積み重ねていく。
戦火の聖人が、そうしてきたように。
器の上で揺らめく火は、凹凸を均し、ひとつの国が辿った道を集約する。明星の欠片へと帰結する。
「星に戦火に、苛烈な要素ばかりだな。嫌ではないか?」
滲むような青い光を放っていた髪飾りは、戦火の要素を含んで火の色と合わさり、より鮮やかに揺らめくようになった。
ルフカレドの髪みたいだ、とリヴェレークは微かに口もとを緩める。
「髪飾りの仕掛けがさらにわかりにくくなってよいと思いますよ。自分でさえ、ここから静謐が取り出せるということが信じられないくらいです」
「……そうか」
続いて、髪飾りを髪に着けた状態で馴染ませながら、細かな調整を行うという。
ルフカレドはリヴェレークをベッドの縁に腰掛けさせ、自分はその後ろにゆったりと座った。
また、家が歯ぎしりのような音を立てる。
今度はリヴェレークがすぐ傍にいるからか、なにかが落とされることはない。
昼間のようにしっかりと結うわけではないため、いつもよりやわらかな手つきだ。その緩みの隙間に、言葉を選ぶような逡巡があった。
「雨の城の夜会で、不思議な灰色の女に会ったと言っていたな」
「……はい」
ルフカレドのほうからその話題を出してきたことに、少し驚く。以前ははぐらかされた話だ。
(今のわたしならば話すに値すると判断されたのか、あるいは、それほどの脅威か)
手を止めたルフカレドを振り返り、凪いだ表情で問いかける。
「その女性はどのようなひとなのですか」
「なんだか悋気を起こしてくれているみたいでいいな」
リヴェレークはすっと目を細めた。
「冗談だ。……それは、死闇の魔女の駒だろう」
「死闇の魔女」
「昔から俺の気を引こうと厄介事を起こしてばかりで、面倒なんだ。戦に属するわけじゃないが、関連のある要素だからな。商会に所属させてくれともうるさい」
おどけるように肩をすくめたルフカレドの、しかし、瞳は冷え切っている。
自覚があるのか、その視線から隠すようにリヴェレークを前へ向けさせ、彼はまた髪飾りを着けながら話を続けた。
「君と婚姻を結んだのだから、そろそろどうにかしなければと思ってるんだが……」
死をもたらす戦火のほうから死闇を剥がすことは、世界の理が許さない。ゆえに今までこれといった対応ができずにいたのだという。
「わたしが剥がしましょう」
今日のしがらみはもう落としたはずだが、まだ残っているのかもしれない。それとも、昔からということはもっと深いところで凝っているものか。
わずかな痕跡も見逃すまいと夫を煩わせる事象の気配を探るがしかし、これといったものは見つからない。
そうしているあいだに髪は結えたようだ。
「直接でなければ無理だろうな……よし、リヴェレーク。こっちにきてくれ」
横向きに座り直したルフカレドが、ぽんぽんとその向かいを叩いて示す。
わざわざ座り直したということは向かい合わせになるのだろうが、リヴェレークがどちら向きで座るか迷う素振りを見せれば、ふっと息をこぼしたルフカレドによって腕を引かれてしまう。けっきょく、座らされたのは彼女が想定していたより近い距離。
わかりやすい正面位置に、どうしても戸惑う。
熱を高めるような触れあいが、本当に調整なのか、リヴェレークには判断がつかなかった。
彼がこれまでに見せてきた不満や嫉妬。ただ、そうして少しずつもたらされた戦火の気配に、静謐が包まれている。
不思議だ。死闇のほうが気質にはあっているはずなのに。
(わたしは今、戦火を守ろうとしている)
それは夫婦としての繋がりがあるからでもあるが、違う理由だって持ち合わせているのだ。
それを伝えても、よいのだろうか。
静謐を示す、水底の影を切り取ったような青色の髪。そこへ、戦火の要素が絡みつく。ある意味では傲慢なほど、あくまで自然に、そこにあるのが当然だというふうに。
ひとつだけわかるのは、この執着を心地よいと思っている自分がいるということ。
「その魔女のことをもっと教えてください」
「ああ……君も、備えてくれるんだな」
「当然です」
名を聞いたことはある。それから死闇という事象そのものも、リヴェレークの影のそのまた影にて感じたことはあった。
だが、その姿を見たことは一度もない。
知らなければ、備えようもないのだ。
「そうか、あれは男好きだからな。リヴェレークの前には現れないか」
「ルフカレドはそういった女性を引き寄せすぎなのでは」
「返す言葉がないな……まぁ、改めよう」
今度は素直に言葉を受け入れた彼は、言葉の端に諦念を滲ませた。
「死闇は世界のおぞましい一面を受け持っているが、外見や口調は清楚で明るい少女といったところか」
「……ずいぶん歪んでいるのですね」
「それでいて死闇らしく生贄を使った手法を好むからな。この前は先に気づいて壊せたからよかったが、契約妖精を乗っ取っていたのもそのつもりだったんだろう」
ルフカレドの剣に貫かれた天真爛漫な契約妖精。そこから抜け出した、不思議な灰色をした少女の声。やはりあのとき聞こえたのは幻聴ではなかったのだ。
そう考えてから、リヴェレークはぞっとした。
あのとき聞いたものを、彼女はルフカレドに報告していない。
「ルフカレド。わたし……」
「ああ、話してなかったな。それが死闇の恐ろしいところだ。いつかは必ず辿るものだから、違和感があっても、そういうものだと受け入れてしまう」
「どうやって対処すればよいのでしょう」
「俺たちは長く生きるから、まだ不要なものとしておけば、ある程度は避けることができる。根本的な解決にはならないけどな」
「ひとまずはそのやりかたで退けつつ、うまく侵食を切り分けられないか、考えてみます」
調整を終えてもなお、髪に触れる手の感触はやはり、やわらかい。
死闇の魔女について切り捨てるような口調で語りながらも、こちらを向く瞳には甘い熱が揺れていて、リヴェレークは思わずルフカレドの袖を掴んだ。
(これ以上、待たせてはいけない)
驚いたように目を開いたルフカレド。それから喜びを浮かべた目を細める。近い距離にあった顔がさらに近づいてくる。
やわらかで、しかし迷いのない口づけとともに、ゆっくりとベッドに沈められて。
つう――と魔法の音が鳴った。
「……はっ、間が悪いな」
リヴェレークに覆い被さったばかりのルフカレドが、緩慢な動作で起き上がる。惜しむように手を離せば、彼は自嘲気味にふっと笑った。
この家に作ったルフカレドの執務室へ、カスィヂワ商会からの連絡が入ったのだ。
「冬の崩壊危機で漏れてた対応か……」
あんまりな間の悪さに、魔女の胸も早鐘を打つようだった。その音が聞こえてしまわぬように、ふう、と大きく息を吐いてから「手伝いますか?」と訊ねれば、聖人は首を横に振る。
「いや、俺の確認が必要なだけだろうから、すぐ終わる。ここで少し待っていてくれるか?」
*
(……遅い、気がする)
なにをすることもできず、ベッドの上でぼんやりしていたリヴェレークは、ふと静謐らしくかすかな異変を感じ取った。
それはルフカレドの「すぐ」がいつもより長いことと、執務室のあるほうから漂ってくる妙な気配。
(違和感をそのままにしては、いけない)
まだどこかふわりとした心地ではあったが、彼女は夫のようすを見にいくことにした。
「ルフカレド、入りますよ」
たしかに戦火の聖人のものである返事を待ってから、リヴェレークは執務室に入る。魔法具を提供するため、彼女も何度か入ったことのある部屋だ。これといった変化はない。しかし違和感は確信に変わる。
静謐の家に、静謐とは異なる影が潜むなど、できるはずがないというのに。
「どうですか?」
なにもないふうを装ってかけた声に、ルフカレドは顔を上げる。その表情も、雰囲気も、先ほどとなんら変わらないように見えた。しかし瞳に映る熱はどこか浮かされたような不安定さで、それでいて作られた美しさを湛えながら嫣然と笑む。
リヴェレークは眉ひとつ動かさないまま、心のなかでため息をついた。
(短いあいだかもしれない。けれど、どれほどの熱を含んだ瞳を向けられてきたと思っているのだ)
静謐すら縫い留める、そんな熱なのだ。戦火の熱というものは。
美しい――ただそれだけの、差し出された手をリヴェレークは見つめる。舐められたものだと思う。
それでも、油断はしていなかったはずだ。
「リヴェレーク。俺といっしょに、どこまでも深い闇へ堕ちないか?」
自分でも予想できない感情だった。
この苛烈な聖人を受け入れたと自覚したばかりだからこそ、魔女の思考は鈍り、伸ばされた手を掴むことは叶わない。
(いっしょに、闇へ……? ふたりで、幸せへ向かって歩いていくのではなかったのか)
どうしてそのようなことを。裏切りのような言葉を、問いただす間もなく。
不思議にうごめく灰色の薫りが広がった。
床にぱかりと開いた闇。
ひとりぶんのその穴に、微笑んだままのルフカレドが落ちていく。
闇の穴はすぐに閉じられ、あとには、伴侶の気配を見失って呆然と立ち尽くすリヴェレークだけが残された。
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