lunatic
来てほしくない日程ほど早く感じるのは何故なんだろう。深夜4時、解体工事開始まで残り5時間。私は作業着とキャップに身を包み、懐中電灯の光を頼りに例のアパート屋上にいた。
規制用のテープを跨ぎ、乱雑に積まれた解体機材を無視して走り抜ける。水道業者のフリをしているので、監視カメラも欺けるだろう。
固まり切っていないセメントの香りが鼻を貫く。見上げれば、空に大きな影を作るかのように巨大な球形の影が視界に映った。乳白色の外表は、写真で見る以上に綺麗だ。
「会いに来たよ、瑠奈ちゃん」
近づいて、肌を重ねる。全身を使って触れれば、夜風に晒された金属の冷たさが伝わってくる。近くで見ると表面には細かな凹凸があり、そのざらつきを撫でれば塗料と錆びが指に残る。化粧を落としても可愛いよ、瑠奈ちゃん。
舌先で塗料の味まで味わい尽くし、彼女のすべてを堪能した気になる。でも、作戦はまだ半分も終わっていない。私は壁面のハシゴに手を掛け、一気に登る。本来なら点検を行うために設置されたハシゴは、長らく登る人が居なかったのか妙に汚れている。それさえも愛おしい。
貯水タンクは構造的に天井が吹き抜け構造になっている。底に水を溜め、水道用水として利用するための設備だ。つまり、内部にある空洞に潜ることができるはず!
懐中電灯が灯していた壁面が途切れ、足元で風が蠢く音がする。この建物で一番高い場所に立ち、静かに吹き抜ける風を浴びた。作業着とキャップ、下着を脱ぎ捨て、私は生まれたままの姿になった。
今から、瑠奈ちゃんの胎内に還る。
夏の終わりの夜だ。日中に温まった水は腰のあたりまでを濡らし、私は妙に満たされた気分になる。お母さんのお腹の中にいた時のような安心感だ。瑠奈ちゃんの中は薄暗く、空いた天井から見える空は真円の形に切り取られている。
「一緒になってるよ、私たち」
反響するのは低い声だ。ごうん、という残響が耳に届き、それが私には瑠奈ちゃんの力強い返答のようにも感じられた。このまま瑠奈ちゃんの中に居続けてもいいくらい、心地いい世界だった。
「ねぇ、許してくれるよね」
ごうん。
「ふふっ、ありがと」
今からここを永遠にする。私は持っていた小瓶を開き、中の粉末を半分ほど瑠奈ちゃんの中に流し込んだ。ヒ素がネットで買えるなんて、いい時代になったものだ。
明日になると、どんな事が起こるのだろう。水道から毒入りの水が流れて、住んでいた人は皆死んでしまうのだろうか。そうなると解体工事どころではなくなって、このアパートはやがて廃墟になるのかもしれない。この場所には誰も近寄れなくなって、噂や伝聞の形で色々な人の記憶に残り続ける。最高だ。
そして、その伝聞が流れる世界に私はいない。貯水タンクの底に死体が眠っているとすれば、もっと大きな噂になる。私は永遠に瑠奈ちゃんの世界を揺蕩って、水底で貴女の冷たい肌にずっと触れていられる。その後の世界で、私も忘れられる事はないのだろう。
残りの毒を眺める。それを夜空に掲げて口に含もうとした瞬間——天井の穴から強い光が差して、喧騒が響く。
一瞬の動揺と迷いで、毒はデコルテを伝って瑠奈ちゃんの中に希釈されていく。それを飲み干そうとしゃがみ込んだ瞬間、耳に残ったのは天井からの声だ。代わりに瑠奈ちゃんの返事は、もう聞こえなくなった。
「おい、何やってんだ!!」
あーあ、間に合っちゃった。
* * *
住居侵入と公然猥褻、毒物及び劇物取締法違反。取調室で刑事さんに突きつけられた罪状は、頭の奥で右から左に流れていった。
既にあのアパートの水は止まっていて、もう誰も住んでいないらしい。たとえ毒入りの水が流れたとしても、あの量のヒ素だと貯水タンクの水で希釈されて健康被害は限りなく薄いらしい。なんだ。私の計画は最初から破綻していたのか。
きっと、この事件はメディアやインターネットで少しだけセンセーショナルに取り上げられて、その後すぐに忘れられるのだろう。私がやったことも、瑠奈ちゃんがあの場所にいたことも。一瞬だけ消費されて、きっと忘れられていく。
連れて行かれた警察署はアパートのすぐ近くで、取調室の窓からは外の景色が見える。ある程度の自供が終わった後に、私は刑事さんに今の時間を尋ねた。
捜査の間に時間はかなり経っていたようで、あの日から数日後の夜だ。私は視線を窓に遣り、大きく息を吐いた。
もっと大きな罪なら、捜査が難航して瑠奈ちゃんはもっと生きていれたのだろうか? 既に規制線を剥がされたアパートは、工事の手が既に回りつつある。
日常は平凡で、人々は慌ただしく自分たちの人生を過ごして回っている。人間が星の数だけいるように、誰かにとっての恋はその人の数だけあるのかもしれない。
それでも。
私の視界に乳白色の満月は、もう映らない。
ありふれたロマンティック・ウォーリアーの平凡な恋 狐 @fox_0829
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