第15話 音の高さと粒とタイミング
音を聴けと言われても身の丈の3倍ほどの獅子を避けるには全力で逃げなければいけない。全力疾走している間に音に注意を向けることなんてできなかった。獅子と十分に距離をとったところで一瞬ホッとしていたら──。
「熱っ!!」
後ろから攻撃を受けた。熱さと痛みを感じた範囲はそんなに広くないが、髪の毛に火がつき燃え出す。慌てて手で払おうとするも、今度は前方から水をかけられ消火された。
「わかってると思うけど、現象の出現位置もタイミングも自由自在よ。もちろん今のように複数のエレメントで攻撃することもできるし」
苦手だって言っておきながら水のエレメントも使えるのかよ。
両手で顔についた水をぬぐいながら、カロリナの講義を聞く。頭ではわかるんだが、体が全然ついていかない。
「やっぱり、しっかり音に集中して行動を予測することが基本ね」
「カロリナ、その音なんだけど、いったいどうやって聴いてるんだ? 音を覚えておこうと思っても、目の前のことに集中してしまってどうしても途切れてしまうんだが」
カロリナは腕を組んで首をかしげ、上空を見上げ、地面を見つめ、そして「わからないわね」とボソッとつぶやいた。
「わからないって」
カロリナがわからなければ誰がわかるんだよ?
「そう言えば、音を聴き取るのに苦労した記憶がないのよ。ほら、生まれたときからそういう環境にいたじゃない」
自慢話にしか聞こえない台詞を無視して、どういう感覚なのかどういう状態になるのか詳しく聞いてみる。
「どういうって……常に音楽が流れている感じかしら。どんな現象が起きても、どんな状況になっても音は途切れず、ずっと続くのよ。そう! ほら、ハルトが暴走した火柱を静めたときもそうだったんじゃない?」
確かにあのときは、マリーとカロリナの音楽を頭の中で常に奏でていた。
「でも、あれは火柱が大きく動くものでもなかったし、音に集中することができたからで、今の状況とは全然違う」
「だったらまず目を閉じてみたら?」
「目を閉じるだって?」
人間は五感のうち、どれかがダメになれば残った感覚が活性化して補うと聞いたことがある。だけど、熱い火の玉が飛んでくる状況のなか、目を閉じるなんてただの的になるようなものなんじゃないのか。
カロリナはふっと柔らかく微笑んだ。
「目を閉じなさい」
「それは……命令でしょうか?」
「命令よ」
「わかりました」
仕方がない。カロリナを信じよう。
僕は潔くぎゅっと目を瞑った。
すぐに高音が弾かれる。続いて低音、高音。
風圧から何かが向かってくるのは感じ取れた。だが、それはどんな形状をして、どの程度の大きさなのかまではわからない。とにかく走って距離を取らないと。
駆けようとしたそのとき、微かに音が鳴った気がした。
これまで2回のカロリナの攻撃を考えると、あれはおそらく逃げたところへタイミング合わせて襲ってくる。獲物を仕留める確実な一撃だ。だったら。
僕は前方に右手を突き出した。最初に弾かれた3音は、わかりやすいスタッカートだったから、たぶん単発の火球が3つ。大きさは計れないが、最大でも僕の体程度の大きさのはず。だから。
指に沸騰したやかんに触れたような熱さが伝わる。瞬間、僕は体一個分横に移動した。すぐ隣を轟音と熱風が通り過ぎていく。ギリギリで火球をかわしたんだ。
残り2つも同じように回避すると、そのまま音が鳴った方へトップスピードで駆け抜けていく。
「えぇええ!? ちょっと!!!!!!」
離れたところで地面に何かが衝突する音と悲鳴が同時に聞こえた。
「ん!」
何かにつまずき勢い余って地面に突っ伏すーーと思ったら何か柔らかいものがクッションとなってくれた。
その感触と状況から、それが何かはもちろんすぐにわかったが。恐ろしくて目を開けることができない。
ひとまずゆっくりと立ち上がってから恐る恐る目を開けてみる。そこには、ところどころに茶黒い土が着いた赤いドレスを纏ったカロリナが、目を潤めて地面に転がっていた。正確に言うと僕が体当たりをして転ばせたんだが。
「あの、カロリナ様、大丈夫、でございますか?」
腕を引いて上体を起こしながら、最大限に申し訳なさそうな声を出して聞く。
「だ、大丈夫よ」
カロリナはそう言うものの、気が気でならない。
「ごめん! どこかケガはないか?」
ケガをしていないか確認しようと伸ばした手はカロリナの手で払い除けられてしまった。ヤバい、キレられる。
「だ、大丈夫だから。……あの、自分で立ちます。ちょっとあっち向いててくれる?」
「えっと、あ、ええ、はい」
怒る様子もなくなぜか口ごもるカロリナは、立ち上がってからもなぜかそっぽを向いたまま話を続けた。
「そ、そんな感じよ。い、今の感覚。忘れないで」
返事をするよりも早くカロリナが慌てた様子で言葉を続けた。
「あっ、ちが! 今の感覚ってそういう意味じゃないわよ! 音が常に流れる感覚よ!」
「? もちろん、わかってるよ」
「そ、そう。そうよね」
いったい何を言ってるんだ? カロリナは何度か咳払いをすると、ドレスに着いた砂を払って、深呼吸して、いつものように腰を手に当ててしゃべり始めた。
「そしたら、今の感じを忘れないように体に叩き込むわよ」
「りょーかい」
その日、部屋に着いたのはもう夕暮れ時だった。執事長が運んでくれたご飯を食べる時間以外は全て訓練に費やされ、あちこちにかすり傷やら切り傷やら火傷ができた。間違いなく明日は筋肉痛だ。
なにせしばらく運動した記憶がないのだ。過度な運動は身体への負担がかかりすぎて意味がないどころか悪影響を及ぼす。明日、朝ベッドから起き上がれるのかすら不安だった。
ベルが鳴らされ、後ろのドアが急に開けられる。
「さあ、休憩終了! 次のレッスンよ! ……って、なにそんなとこで寝てるのよ」
カロリナの思いはわかる。ドアを開けてすぐの床にうつ伏せで横たわっている人間がいたら誰でも疑問に思うだろう。
「いや、なんとかベッドまで行こうとしたんだけど、体が痛くて重くてダルくて……というか、まだレッスンするの?」
これ以上は危険だと身体全体が言っている。いや、もうすでに自力で立ち上がることすらできなかった。
カロリナは呆れたようにため息をついた。
「何言ってるの。試験はあさって、つまりあと一日しか特訓する時間はないのよ。守りの基礎はできたかもしれないけど、まだ攻め方が全然わかってないじゃない。剣の扱い方もリベラメンテの使い方も知らないのに、試験で勝てると思ってるの?」
いや、それは勝てないだろうけど、今は体が……。
動かない僕に呆れたのかもう一度ため息が上から降ってきた。
「仕方ないわね。じゃあ、もう少し休憩させてあげるわ」
カロリナは僕という障害物を乗り越えて、寝室に置いたピアノの前に座った。
「あまりこの曲は好きじゃないんだけど、弾いてあげる。アーベル『涼水のカノン』」
音楽魔法は、基本即興演奏だと聞いている。それはカロリナが言っていたように、戦いには臨機応変さが求められるためだとわかった。
しかし、既存の曲がないわけではない。純粋に音楽として作られた曲もあるが、魔法としても誰が演奏しても一定の効果を及ぼす安定性から使われている。
「この曲は?」
静かに柔らかいタッチで始まったその曲は、穏やかなメロディを二重、三重に繰り返しながら次第にそのボリュームを大きくしていく。
「……前にね。ある人がずっと弾いていた曲なの。その人のお気に入りの曲で、もう目を瞑ってでも弾けるわ」
「ふーん、元恋人とかか?」
「バカ! そんなわけないでしょう! 第一、そうだとしたらハルトの前でこんな曲……」
カロリナが何かを言っていたが、僕には聞き取れなかった。
優しい響きに導かれるように現れた水色が僕の体を包み込み、そのひんやりとした心地よさに自然と身体の緊張がほどかれ瞼が重くなる。
ただ、その曲は不思議とある人の顔を思い出させた。カロリナと瓜二つの妹ーー名は確か。
「相変わらず素敵な曲。曲は好きなんだけどね……」
極上の音楽に身を任せ、意識が遠のいていった。
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