第2話 記憶喪失の転生者

「みなさんご存じの通り、魔法は4つのエレメントに大別されます。炎、水、風、土の4つですね。人間も、それからモンスターも誰もがそれぞれ、得意なエレメントを持っていますが、将来的にはみなさんは、それ以外のエレメントも扱えるようになっていただきたい。一流の演奏家の多くは複数のエレメントを自在に操ることができるものです。ですから──」


 座学中もずっとどうしてこうなったのかを考えていた。隣に座るマリーは熱心に分厚いノートに羽ペンで黒板の字を書き写している。


 マリーから真っ白な自分のノートに視線を移す。


 きっかけはわからない。何も思い出せないからだ。いわゆる記憶喪失──それも自身の生活史を丸ごと忘れてしまう全生活史健忘ぜんさいかつしけんぼうと呼ばれる症状に類似している。かろうじて思い出せたのは「ハルト」という自分の下の名前くらいで、とにかく気づいたらこの世界に来ていたんだ。


 宮廷の庭園で目が覚めたところですぐにマリーに見つけられ、慌ててマリーが連れてきたカロリナに保護された。


 最初は、言葉も全くわからなかったから、丁重に保護されたのは助かった。3食食事は出るし、城の一室を提供してくれるし、言語も指導してくれた。


 救いだったのは記憶がないのが自分自身のことに関するものだけで、ここへ来る前の世界の一般的な知識や常識は持ち合わせていたということだ。


 だからすぐにこの世界に異世界と呼ばれる概念を当てはめることができたし、おそらくは何らかの事情でその異世界へ転生したのであろうことが理解できた。


 元の世界へ戻れるのか戻れないのかはわからないし、こうなった原因もつかめないままだが、ここが異世界で自分が転生してきたのであろうことがわかれば、とにかくやることはこの世界に順応することだった。


 問題は──だ。まだ世界の構造がよくわからないままに、カロリーナ第一王女専属執事兼スコラノラ魔術学校生徒に任命いや、命令されたことだ。


 思い返せばあれは明らかに脅しだよな。


 突然カロリナが自分の部屋に呼び出して「あなたをこれ以上保護することはできない。ここにいたければ、私の執事になって魔術学校に通いなさい」なんて……。


 マリーの顔をちらりと見る。視線に気づいたのか不思議そうに僕を見るマリーは、実に可愛らしい外見をしていた。一本一本手入れが行き届いた艶のあるブロンドヘアに涼しげな波の音が聞こえてきそうな透き通ったブルーの瞳は大きく瞬き、幼さの残るベビーフェイスが愛らしさを強調する。


 長く見つめていたせいか、怪訝そうに首を傾げたマリーは二人の間に置いたノートにアルファベットに似た文字を素早く書き連ねた。


〈なに?〉、と。


 僕もペンを持ってその下に〈なんでもない。ただ、ここに来たときのことを思い出して〉と書いた。


 あてもない僕はもちろん命令に従わざるをえなかった。そんなわけで魔術学校に入学し、今に至るわけだが、周りの生徒の風当たりは当然というべきか強かった。


 任命された当初は、自分がどういう立ち位置にいるのかうまくわかっていなかったが、なにせ、カールステッド家とはこの国の王家の家系なわけで、カロリナは正統な王女。そして魔術学校はこの国に一つしかなく、貴族階級か、そうでなければ相当魔法の才能に秀でた者しか入学することができない。


 そんなところに魔法の才もなく出自も不明な者がいきなり入学し、しかもみんなの憧れアイドル的なカロリナの執事になったもんだから妬まれるのは当然と言える。僕もきっと逆の立場だったらそう思うだろう。


〈やっぱり、大変だよね〉


 マリーは少し迷ってから、そう書いた。僕を見る瞳がほんの少し揺れたように見える。


〈マリーといるのは楽しいよ。カロリナといるのは疲れるけど〉


 そう心持ち丁寧に文字を連ねると、微笑んでみせる。


 マリーも微笑んで〈ありがとう〉と書き、続けてその下に〈カロリナ姉さんには内緒にしとく〉と綴った。


「いいですか!」


 魔術基礎理論のヒルダ先生が急に大声を上げた。髪がチリチリパーマのような「おばさん」という言葉がピッタリな先生だ。


「魔法はとにかくイメージが重要なんです! ある現象、たとえばカロリーナ様のように火のドラゴンを創り出そうと思ったら、正確なドラゴンのイメージが必要不可欠なんです。なおかつ、火のエレメントの配分を調整するためには、音程だけでなく、音の強弱、リズムも一分の狂いもなく正確に完璧に演奏しなければなりません。これは並大抵の努力ではできませんよ!」


 全員に教えている──ようでいてヒルダ先生の視線はじっとこちらを見つめていた。つまりはそう、僕の努力が足りないと言っているのだ。


 先生の視線が外れて別の話題に移ったところで、マリーがさらさらとノートに何かを書いた。


〈ねえ、今日中庭でランチ食べない?〉


 嬉しい申し出だった。僕は〈もちろん〉と書いて、いい加減名指しで注意される前に講義に集中することにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る