第3話 緘黙の少女
教室を抜け、階段を降り、そのまま鈍い光を放つプレートアーマーやロングソード、盾などが置かれた突き当たりの廊下を出ると、色とりどりの花に囲まれた中庭に出る。
最近、ニスが塗られたばかりの小鳥の模様が丁寧に彫られた木製のベンチに腰掛けると、少し間を空けてちょこんとマリーが座った。
中庭には、すでに何組かの集団が来ており、制服である純白のシルクのローブに、金や銀のブレスレットを身に着けた見るからに上流階級といった装いの一組がこちらに気づき、会釈した。マリーと僕も会釈をするが、何がおかしいのか口元に手を当ててクスクスと笑うと、視線を戻してまた話し始めた。
マリーは小さく息を吐くと、僕とマリーの間に置いたノートを開き、何事かを書き始めた。
マリーは、カロリナのいとこにあたるカールステッド家の一員だ。カールステッド家は、カロリナに代表されるように代々優秀な魔法使いの家系で、カールステッドの名を冠する者は誰もが強力な魔法を使え、誰もが将来を約束された身。
しかし、そんななかでマリーは僕と同じように魔法を使えないでいた。
より正確に言えば、今は使えないと言った方が正しい。なぜならマリーはあるときから全く言葉を話すことができないからだ。
カロリナ曰く、「声を発せないために自分と外との間に心の壁が生まれ、その壁があるために魔法を出現させるために必要な豊かなイメージ生成が阻害されているのでは」ということらしい。
ヒルダ先生が興奮した大きな声で話していた魔法のコントロールに必要なのはイメージ、というあの理屈だ。
なぜ、マリーが言葉を話せなくなったのかは誰にもわからない。ただ、これまで全く正常であったことから、知能の問題でも発達の問題でもないことはわかっているらしい。それならばこれは「心の問題」ということになる。
話だけを聞いていると、マリーの症状はそれに近いものを感じるが、残念ながらこちらの世界は精神医学やら心理学がまだそこまで発達していないらしくどんな名医であろうがお手上げなんだそうだ。
カロリナから生活を保障する上で出された条件には、執事になること、学院になることの他にもう一つ、重要かつ難題な条件があった。
それが「マリーの声を取り戻しなさい」だ。
無理難題だ。どんな名医が見てもわからなかった言葉が出せない原因を探り、しかも取り戻せなどと。もし仮に転生前の記憶を失う前の僕が精神科医やらカウンセラーだとしても、記憶を失った僕では何の役にも立ちはしない。
まあ、おそらくはきっと学院の中でマリーの側にいてくれる人間が必要だったのだろう。カロリナでは学院まで来ることはできない。ただの執事を送り込めばマリーが浮いてしまうだけ。
カールステッド家は伝統ある魔法使いの家系。だからこそカールステッド家なのに魔法が使えないとあれば、どれだけ他が秀でていても周囲から嘲笑の対象で見られてしまう。学院に入学してすぐにわかったが、さすがに直接面と向かって無礼を働くものはほとんどいないとしても、今のように陰でコソコソと言い合うものは多かった。
マリーももうそういう状況に慣れて久しいようだが、時折疲れてしまったときや話を聞いてほしいときには、こうやって比較的人の少ない中庭に来て会話をするのが僕とマリーの間でのなんとなくのルールだった。
〈授業の方はどう?〉
マリーの優しい字が綴られる。
〈座学はまあまあ、実技はダメダメってとこかな〉
マリーの可愛らしい小さな口元が緩む。
〈私も〉
〈マリーは座学は完璧でしょ。実技だって誰よりも真面目にやってるし。僕なんてまだ専門課程にすら進めていないんだから〉
微かに首を横に振って否定の意を表したマリーは、ペンを握り直して乱暴に次の言葉を書いた。
〈一流のピアニストにならなれるかもね〉
すかさず僕はその下に言葉を書き殴った。
〈誰がそんなことを?〉
〈わからない。席を外しているうちに譜面に書かれていたから。でも、きっと〉
〈ルイス・バルバロッサ?〉
マリーからペンを半ば強引に奪って、心当たりの人物の名前を書いた。
マリーは躊躇いがちに俯きながらもゆっくりと頷いた。
僕は少し考えて〈相変わらず子どもみたいなやつだな〉と記した後に、何行か前の〈ピアニスト〉を黒く塗り潰して、〈魔法使い〉と大きく書いた。
〈じゃあ、ハルトは?〉
〈僕は一流の執事かな〉
それを見たマリーは陽だまりのような笑顔を見せてくれた。その表情を見て、いつか同時に笑い声も聞いてみたいとぼんやりと思う。だが、それよりもまずは──。
〈マリーご飯にしよう〉
僕は赤い布を縫い合わせただけの簡素な袋から、宮殿の料理長が直々に作ってくれた二人分のサンドイッチを取り出すと、ナプキンとともにマリーに1つ手渡した。
マリーはやはり小動物みたいに小さな口で少しずつパンを食していく。
「美味しい?」と聞くと、マリーは嬉しそうに頷いた。
不意に涼しげな風が吹く。その風は、草花を揺らし、何か考え事をしているように宙を見つめるマリーの髪の毛をそっと撫でていった。
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