第3話

ホテルに着くと、「零!」と呼ばれた。


「灯。待ってたの?」


灯は耳を私の口元に近づけて、

”聞こえないもう一回”と手話をしながら言った。


「灯、待ってたの?」

「あ、うん」

「わざわざごめんね」

「一人だとなんか心配だったから」


「逃げないよ」と笑った。


「それは分かってるけど……」


手話が途切れる。でも顔を見て分かった。

物凄く心配そうな顔をしていた。


「大丈夫だよ。結婚式の間はどうにかするから」


私は灯の肩を叩いた。


「会場、奥だよね?いこ?」


立ちすくんでいる灯の肩を抱き、強引に進んだ。

高鳴る鼓動に打ち負かされないために、私は口数を増やした。

今日どんな料理出るかな。っていうかこのホテル綺麗だよね、私も式あげたいなあ、あ、てか相手いないや。あはは。

だなんて笑ったあと、私はぼそっと本音を呟いた。


「……楓どんなウェディングドレスだろうね」

「楓はどんなのでも似合うよ」

「知ってるよ」


笑って。心の底から微笑んで、重い扉を開けた。開けると、綺麗な照明が会場を明るく照らし、ガヤガヤと聞こえる声も明るい洋楽で不快のないSEになっていた。

私は遠くを見つめ、新郎新婦が座る席を見て、立ち止まった。


それに気づいた灯が「どうしたの?」と聞く。

私達が座る場所よりも一段高い世界。

それはもう手に届かない存在だと知らしめるような、そんな感じがした。


「なんでもないよ」


そんなこと言いながら、私は何かの記憶に縋った。

何か分からない思い出の湯船につかり、麻酔を打たれたように意識が解けていく感覚がするまま、指定された席へと座った。

灯が何か話しかけてくれたけど、私の頭には入る3秒間の間で曖昧に返事を返し、そのあとはふわーっと蒸気のように消えていくのが繰り返された。


このまま、これから起きることも記憶できずに、早送りのように進みそうで、それだけは避けたくて、私は席を立ち、煙草を吸いに行こうとした。

その時、会場が暗くなり、先ほどの音楽が消え、新しい音楽が流れ始めた。

立っている私の腕を掴み、灯は座らせた。

扉の方を見ると、白いウェディングドレスを着た楓が真っ白な照明で照らされ、横の男性と腕を組んでいた。

whooooと盛り上がる若い男性たち。きっと新郎の友人だろう。新郎はまんざらでもない顔をしていた。

新婦である楓も高い声で手を振る女性たちに応えていた。視線がこちらに向きそうになり、私は背中を向けた。空いた手を灯が握った。


「大丈夫?」


私は何とも言い難くて、無理して頬を上げて見せた。灯は私の手を握りながら、片方の空いた手で手を振っているようだった。

私は楓の方とは逆に首を傾け、逃げた。

視線を感じたけれど、勘違いだと言い聞かせて、灯から「座ったよ」と言われるまで、私は俯いたままだった。

耐え切れなくなっていた。私は足を震わせていた。今すぐお酒におぼれたい。今すぐどうにかなりたい。

あの子にとっては幸せな時間が私には地獄の時間で、欠けていたあの子との思い出が今になって鮮明に映り、私のこめかみに一発放たれた。

ゆっくりと流れていく、体力ゲージ。酸素を奪われていく。息が苦しい。

頭を振っても消えない。強制的に脳に直接映し出される何もかも。

一緒に煙草を吸った記憶も。貴方のメンソールの煙草を初めて吸って、むせたこと。

私の行きつけの喫茶店で美味しいと珈琲をおかわりしていたこと。居酒屋で長時間家族についてや耳が聞こえないことについて話したこと。

当時は手話も全く分からなかったから、ゆっくり話しながら、ぽいジャスチャーで全て伝えた。

合ってるかどうかわからないけれど、必死に話す私を見るその優しい目も好きだった。

あゝ私、貴方の嫌いなところ一つもない。好きなところしか思い浮かばない。

蒸気と私の身体の冷たさで生まれた結露から、零れ落ちた雫。落ちた膝の上。魔法にかけられたように、足の震えが止まった。

引っ張られるように、貴方を見てしまう。

貴方の横顔。見えないけど、頬が上がってるのを見て、涙が何度も伝った。


貴方に近づくと、あのヘアスプレーの匂いがした。フリーライトブルーの香りがした。

貴方は初めて会った時、香水みたいな香りがしたから、つけてる?って聞いたら、ヘアスプレーだよ。頭触ってみっていうから、恐る恐る触ったら、カッチカチでさ、私がきょとんとしたら、貴方は大笑いした。


「めっちゃ固めた。だから匂い結構するかも」

「こんなんじゃパリパリじゃん。海苔じゃん」

「茶色い海苔ね」


目を見つめ合って笑った。

柑橘系でもなく、ちょっと色っぽい香り。

本当に気持ちがブルーになる香り。ちょっと後追いしてくるけど、さっぱり消える香り。

でも嗅ぐと、一瞬して心を持っていかれる香り。


「零」


灯に肩を叩かれる。どうやら、灯はもう話し終わったようだ。

私は楓をまじまじと見た。本当に変わらないなあ。変わったなあ。いやどっちだろう。どっちもだなあ。

言いたいこと、この8年でたくさんあった。聞きたいこともたくさんあったのに。私は声に出して言った。

でも彼女には聞こえず、手話で”聞こえない。もう一回”と言った。

私は、深呼吸をした。喉が細くなっていくのを感じた。震える身体。また伝ってきそうな予感。


”今、幸せ?”


ゆっくり手話をすると、「うん」と頷かれる。私がボーっと見つめていると、彼女は、手を使って会話をした。


”幸せだよ。ありがとう”


私は”わかったよ”と胸を叩いた。

いつもなら帰り際、「またね」って手話したのに。しなかった。手を降ろした。頬を上げて見せたけど、もう楓の顔は見えなかった。万華鏡の中にいるみたいに見えなかった。

振り返ると、涙が流れ出そうで、上を見た。

照明が私の涙を照らし、反射し、眩しくて痛くて、涙が耳に到達した。なんかその感覚が気持ち悪くて、ああ、夢じゃないんだって思った。それでまた涙が出て。

灯が私の首に肩を回し、泣いている姿を見せないようにしてくれた。

そのまま私たちは、会場を出た。扉が閉まった瞬間、私はその場から崩れ落ちて泣いた。

けれど、私は立ち上がり、喫煙所まで向かった。扉を開けた。中には誰も居なかった。

ポケットから煙草を取り出した。煙草を口に咥え、火を点けようとしても、中々点かず、

追いつかなかった。私は泣き崩れた。

灯は私を追いかけていたようで、後ろから抱きしめられた。

その胸の中で声を押し殺すように叫んだ。

こんなに傍にいるのに、灯も消えてしまいそうで、その証拠を掴むように、肌をぐっと掴んだり、身体中を探った。


「このジッポ。まだ使ってたんだね」


007と刻まれたジッポ。私が好きなダニエルボンドが引退した年だった。

別れる前にプレゼントだと、楓から渡された。私がたまたまストーリーにかっこいい、と上げた。本当に欲しくて、もしかしてくれるかな、なんて淡い期待もあって。

そしたら、本当に買ってくれた。嬉しかったけど、別れてからそれを見る度に思い出した。

煙草を吸わなくても、常に持ち歩いて、蓋を開いたり、閉じたりを繰り返した。

今日、やっとわかった。

私が8年前でずっと止まっていた間、彼女は進んでいた。確実に進んでいた。

いつもそうだった。涙や感情の波で現実が見えなくなって、ふと横を見たとき、独りぼっちだったこと。

一緒に後悔の念に堕ちてほしかっただなんて、最低だろう。エゴだろう。酷すぎる強要で願いだろう。だと言われても、どんな形であれ、一緒に居たかった。

離れた理由が私の過去にまつわり、その過去は家族と結びつき、どうしようもないこの現実を誰にどう嘆けば変わるんだろう。

どうしたって変わらない。ただ私が意見を曲げ、口を閉ざす他ないだろう。

どこにもぶつけようのない感情を、叫ぶことで解消しようとした。


「零、偉いよ。偉い」


耳元で囁いてくれる優しい言葉が涙を促進するものになり、もっと止まらなくなった。


「私の言葉ちゃんと伝わったかな」


不安でいっぱいになっていた。私の手話は間違ってなかったか、ちゃんと伝わったか。


「伝わったと思うよ。楓、笑ってた。そしてね、零と同じ目をしてたよ」


私は灯を見た。その優しい瞳にもっと涙が落ちて、心の中にあった大きな異物が少しずつとけていく感覚が上がった。

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愛、そして愛 海京(うみきょう) @umikyou03

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