5:それぞれのピンチ

 何の変哲もない平日。もうそろそろで夏休みに入る前の夕方。

 部屋の片隅に本を作るための資料が雪崩を発生させており、PCに覆いかぶさっていた。

 さすがに夏休みのイベントに向けて本の原稿締め切りがまずいので慌てて机を片付け始める。

 梅雨の季節から原稿作成をしようと考えては雪崩の発生現場を見て、片づける意欲をなくしていた。そのツケである。

 雪崩のきっかけは簡単である。平積みをしていたしばらく使わないと教授から言われた大学の教科書類の上に原稿作成用の資料類を乗せていたのだが、教授が急に、持ってくるように言われ、横着してダルマ落としの要領で原稿を取ろうとしたのが原因である。

 結果としては雪崩の発生となり、同時にやる気をそがれてしまうこととなったのである。

 まずは片付けることから始める。雪崩の上から大学関係と原稿関係、その他で分けていく。

 幸いなことに、一か月ないくらいでの雪崩処理のため、ほこりが舞うこともなく進められそうである。


 昼休憩時に職場のトイレで鏡を前に、男性は「まずい」とつぶやいた。

 目の下にある涙袋部分が輝いているのである。

 昨日、一日中、女装を楽しんで風呂に入ったがちゃんと化粧が落ちていなかったのだと思われる。

 朝も顔を洗ったが、水で洗ったためにウォータプルーフの化粧品では落ちていなかったと思われる。

 少なくとも課長には目が光ってる旨を言われて目本体の輝きだと思い、仕事のやる気があると答えた。

 しかし、おそらくこの様子だと、瞳が輝いているのではなく目の周りが輝いているということに対しての指摘だったのだろう。

 特に、そのあとに何か言われたりしたわけではないのでおそらく問題ないと考えたいところである。

 久々に女装をしているとついついその満足感で抜けてしまうのを気を付けたいと思いつつ石鹸でゴシゴシ顔を洗う。

 すると同僚がトイレに入ってきて驚いている。

 このリアクションに無理もないだろう。眠気覚ましで顔を洗うのとは違うほどに全力で顔を洗っているのだから。

 同僚にはテキトウに行ってもいない外回り中に鳥の糞が落ちてきたことにして事なきを得る。

 鏡を見て、なかなか落ちないウォータプルーフのラメと格闘を終えて、化粧残りのない顔で自分の座席に戻っていく。

 課長はいつも通り、何やら気難しい顔でパソコンを眺めている。


 雪崩と格闘を1時間行い、無事に作業ができるほどには回復した。

 作業PCを立ち上げて保存していた原稿を開く。

 開くことはできたが、想像よりも筆が進んでおらず進捗がダメどころか無に近い状態であった。

 表紙しかできあがっていない状態のため、ほぼ1から作成していくわけだが、早期入稿の割引期限は来週まで、それ以降は金額が通常になるが、これまでのペースでは間に合わないのが確実である。

 とにかくペースを上げてしがない同人誌作家として早期入稿割引を手に入れるために黙々と徹夜含めて作業することを決定した。


 隣の部屋で雪崩対策をしているところ一人、スマートフォンを片手に震えていた。

 推しの男性声優が結婚したのである。

 頭の中ではわかっている。声優はあくまで職業で私生活には何ら関係がないこと、結婚する人もいるし結婚しない人もいる世の中であることなどは頭で理解している。

 しかし心が理解していない。

 「あああああああああ」と、悲鳴をSNSに投稿してスマホをベッドに投げ捨てた後に自分もダイブする。

 脳にはびこる「マジで……」という感情以外を考えることができずに、ただただ時間だけが過ぎていく。

 早くも一時間が過ぎて時計を見るとアルバイトに向かうべき時間である。

 当日に休む電話をするのも理由を考えると忍びないので嫌々ながらも出勤するために着替えをする。

 もともとボーイッシュな髪型であったが、突然のニュースで頭をワシワシした名残がひどいため、髪型を整えてジーンズにTシャツといういでたちで出発する。

 改札を通りホームに行く途中の売店にあるテレビに同じニュースが出ていた。

 リアクションするにも疲れたので見なかったことにして列車を待つ。

 列車に乗込みドア上のモニターを見ると広告と広告の合間にニュースが流れたが感情を無にした状態で列車に揺られていく。

 何も考えられないというよりも何も考えたくないという感情を隠しつつアルバイト先に到着する。

 ほかのキャストはここで男装するが私は家から着て来ているどころかほぼ私服なのでそのままホールに立って接客をする。

 仕事はもちろん上の空である。


 課長から呼び出しをされた。

 先ほどのラメの件なのかとビクビクしながら向かったがなんてこともない。ただの仕事の話であった。

 何事もなく話も終わり自席に戻ろうとすると一言、「さっき、言ったけど……辛かったら言ってよ。」

 これはどうとらえればいいのだろうか悩む発言である。

 ラメが涙に見えたのか、女装趣味がバレたのか非常に悩ましい発言である。

 そんなことを頭の片隅に考えつつ仕事を続けていくと退勤時刻になった。


 接客が上の空過ぎたらしく、店長から様子を心配されてしまった。

 理由としてはただの体調不良と本当ともいえるし嘘ともいえる理由を話したところ、今日は人員がいるので早退をさせてもらえた。

 帰り道にSNSで当該男性声優の投稿を見て「もう、幸せになってよ」といった感情になった。

 推しや好きなものに対してニュースになるとどうも心地悪い状態になってしまう。

 いつもの帰りに聞いている推しの歌う曲を聴くのをやめて、違う音楽を聴きながら帰宅の列車に揺られる。


 原稿が進みこのペースであれば早期入稿割引の適応ができそうなレベルにまで進んだ。

 安心してここで緩んではまずいと思いつつ、今日の分として筆を止める。

 締め切りに追われる辛さは経験したものしかわからないつらさであり、出展で新作を発表できるかのせめぎ合いである。

 すっかり日が暮れて近くのラーメン屋も閉まってしまった22時。

 仕方なしにコンビニでお弁当を食べることにする。

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