5. タタールの王は請求書を書かない


 服を、今回は特にこんもりため込んだ衣類を洗うために、だけどふと誘われたようにコインランドリーに入る。そして誰もいないのに、だからこそ回り続ける轟音を抜けて(つまり回転するだけの衣服にひそかな楽しみを見出す者は少ない)空の洗濯機の前に大きな陣を張る、稀代の名将とはいかないが。

 

 前世が軍人だったならこんな喩えも仕方がないのかもしれない、そうではないようだから修正を加えようとして、やはり諦めることにした。理由は単純で、ここより前には何もないから。

 ネズミ色の籠、果たしてこれは塩ビニールの本来持つ色なのだろうか、その中から湿っぽいやら何やら成分の変化したような衣服を摘まみ上げ、流れ作業のレーン作業員の手練しゅれんでドラム槽に放り込む。記憶をくすぐる酸い匂い。ポケットまで熱心に探っていると内側の生地の皺まで写し込んだ紙切れ二枚が落ちてきた。己の怠慢を恥じることとしよう(こんな風な自省はこれまで何度も繰り返して一向に効き目がないことが経験的に証明されているが、99回の前例が100回目の成功を退けるのは許せない)。


 これまで数週間の残りかすを洗濯槽に叩き込んでしまうと、洗剤と水と汚れのエマルジョンを観察するのは止めにして、先ほどの紙切れをまじまじ見る。

 地下鉄の車内キップに、折りたたんだ小切手。署名も確認する。


『"キャッツ"は12/1、7:23より初演開始』

 裏面の宛名もなし、書かれているのはこの一文のみだった。弛緩する緊張の糸。それを察したように壁時計の夫婦めおと針が重なると、さっきまで全く意識にもなかった裏口が錆びて証である不快な金属音とともに開かれ、三人の黒い影が静かに侵入する。こんな真夏なのに。

 俺は反射的に洗濯槽の列に頭を引っ込める。正直言って隠れるなんて馬鹿げた考えだった、堂々と出ていかなかったのはネズミじみた勘でしかない。この轟音を奏でる電化製品は壁沿いと部屋を二等分するように中央に一列に配置され、天井にもショッピングモールの吊り看板のように列を成して配置されていたから、彼らをやり過ごすことはできそうだった。

 しかし彼らが一台のある洗濯機の前で何やら探り出した段階で、俺は後ろに置いてあった塩化ビニルの醜悪なマウストラップに掛かる。固い床にゴムが滑る音を聞いた彼らは別れてゆっくり巡回を始める。俺は壁側にあった窪みに何とか身を収めて前から来た一人を躱すと、そのまま裏口の扉に向かう。ノブを捻ると驚くほど打って変わって簡単に開く。そして完全な暗黒が目の前に広がった。

 実に明快な話だ。全員ランドリーに入る必要なんてなく、誰かが三人で全て、などと教えてくれた訳ではない。その後の展開は語るに落ちる。燃焼するたった爪先ほどのニトロ化合物、ホローポイント特有の銅製のポケット、そして隙間ギャップから漏れ出る閃光。



 椅子から乱暴に滑り落ちたことに気づくのは、当たり前だが、すっかり滑り落ちてしまった後だ。だが今回はその例外ということらしい、途中で目が覚めたのだ。おれは何でもないという風に席に座り直し、気恥ずかしさを隠すように周りに目をやる。ビジネスクラスの面々は皆静かな沈黙の中に深く潜り、一方で横に座る品の良いご婦人は同じ位静かにしてこちらを見ているのだった。

「何か?」

「何かって貴方、それはこちらの台詞セリフよ」

 彼女は軽く笑って、それも怖いほど自然に、その後手の内を明かすように一枚の紙きれを渡してきた。どうも、と受け取ってから白紙の面を裏返す。


 9、10、11、12。たった四通りの数字が殴り書きされたソレは軽薄な自分の身体を包み込む時間と空間の存在を証明する。婦人が何も言わず席に戻れば、おれは視界の端を駆けて行く真っ黒の毛並みの塊をどんな風に認定するのだろう?

 


 


 

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ミモザの作り方 @o714

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