プリンが死んだ日

芥子菜ジパ子

プリンが死んだ日

 ここぞという時に食べようと思って取っておいたプリンが「ここぞ」を待たずに、冷蔵庫で静かに賞味期限を迎えていた――そんな日の午後、私は或る女性の死を知った。

 

 見て見ぬふりをするように冷蔵庫の扉を閉め、どうせならSNSに「おとっときのプリンがしんだ」とでも投稿するかと、スマートフォンを手に取った。手癖でついと更新したタイムラインに現れたその投稿は、一体どういった経緯で流れてきたのだろうか。それは今もって分からない。恐らく私があれこれと覗いた投稿の、いずれかに関連するものだったのだろう。

 

 「二日前の七月五日、午前八時二十三分、妻のひとみは静かに息を引き取りました」


 投稿は彼女の夫がしたもののようで、その後には数行の、これまでのお礼だとか、そういった挨拶が続いており、そこには哀しみの色を見せぬようにという配慮が感じられた。

 全く何の関係もない、インターネット上ですらもすれ違ったことのない女性の訃報を唐突に受け取ってしまったことに、私はひどく狼狽した。街中で葬儀を目撃することは幾度もあったけれど、これほど唐突に、日常にさっくりとメスを入れるかの如く「死」が突き付けられることはなかった。その衝撃が、私を狼狽させたのだ。

 そのままその投稿をついと指でスライドして流してしまうことは容易だったが、私はそれをせず、とんとんとスマートフォンの画面を叩き、その投稿から彼女のアカウントに移動する。単なる野次馬根性も否定はしないが、同時に「知ってしまったからには」という義務感のようなものがあった。このままではその女性の死は私にとって、道端の虫の死骸のようなものになってしまう。それはなんだかとても、胸糞が悪かった。

 

 彼女――そのような呼称を使うのすらも少し抵抗があるほどに他人の「彼女」は、スキルス性の胃がんを患っていたようだ。医学的な知識は皆無な私でも、「スキルス性」というのが非常によくないものであるらしいことは知っている。お気の毒に、と小さく口から零れた。

 メディア欄には小さな男の子の写真が並んでいた。彼女の息子のようだ。一歳半の誕生日を祝っている写真が、数日前の日付で投稿されていた。そうか、こんなに小さな子を遺して逝ってしまったのだなあ。お気の毒に、ともう一度呟きかけて、私はとっさに手元のグラスに僅かに残った麦茶でそれを流し込んだ。

 息子と並んでブイサインをする彼女の笑顔が、それをさせなかった。痩せこけて、どこからどう見ても命の蝋燭が消えかけている弱弱しい病人であるはずの彼女の笑顔に、私は凄まれ、怯んだのだ。

 写真に写らぬところでの苦痛、葛藤は、想像に難くない。小さな息子と夫を遺して逝かねばならぬのだ。まだ状況を理解できぬであろう小さな子供の笑顔は、そんなままならなさの極致だろう。しかし私の目には、彼女が息子ごと、そんなままならなさを抱きしめ、慈しんでいるかのように映った。細枝のような腕に、後のない人間の覚悟と、後がない故の、その一瞬にほとばしる生命のみなぎりを感じた。故に私は、怯んだのだ。命を燃やす人間の凄みに、怯んだのだ。

 私はなんだか泣きたくなってしまった。それは決して、彼女への憐れみからなどではない。

 彼女は、生きることのままならなさと戦い続け、そして敗れた。確かに事実だけを切り取ればそうなるだろう。しかし彼女はそのままならなさを受け入れ、足元に、毛先に、服の皺の間に潜む日々の輝きを、ひとつ残らず拾い、集め続けた。その瞳を永遠に閉じるまで。私はそれを、称えたくなったのだ。

 私はスマートフォンをテーブルに置き、そっと両手を合わせた。本当はお気の毒と思うことも、その生きざまを称えることも、彼女からしてみたら、甚だ余計なお世話だろう。もしかしたら、迷惑ですらあるのかもしれない。だから私は、彼女と私が全くの、他人とも言えないほどに他人であったことに、ほっと安堵の息をつく。きっと私の想いは、彼女には届くまい。否、届かなくて良いのだ。

 或る日、見知らぬ女性の死を知った。素敵な女性の死を知った。唐突に突き付けられた死は同時に、唐突につきつけられた生であった。生々しい生は、明日を疑いもせずに日常を送る身には刺激が強く、私は額に手を当てる。

 そういえば冷蔵庫のプリンはいつ死んだっけ、と私は再び冷蔵庫の扉を開け、プリンを取り出した。蓋には、二日前の日付が印字されていた。ああこのプリンは、あの女性と一緒に死を迎えていたのか。

 プラスチックのスプーンを用意し、そっとプリンの蓋を開ける。これは生きることのままならなさとは、全く関係のないものだ。それでも、なんだかこのままゴミ箱に放り込む気にはなれなかった。二日前くらいなら、まだいけるだろう。

 舌に乗せたプリンはひんやりと甘く、そのままつうっと喉を通って、胃袋に落ちていった。私はその甘さを喜び、同時に或る女性の死をダシに自分の生を喜ぶ傲慢さにため息をつく。本当に、彼女と私が何のかかわりもなくて良かった。

 私はようやく、或る女性の死をついと指で流した。プリンを飲み込むのと、同じスピードで。

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プリンが死んだ日 芥子菜ジパ子 @karashina285

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