第9話  喧嘩

自慢ばかりの中年男性と共にする食事など何を口を運んでも豚の餌と同じだ。そんなことを考えながら天道は口を開いた。


「お足労いただきありがとうございます。黒崎さんとお話ができて光栄です」


「そうへりくだらなくていい。君と私の仲じゃないか」


 キャバクラ嬢の苦労がよく分かる。向かい側の席に座る黒崎に合わせて天道は微笑んだ。黒崎の言葉を鵜呑みにしてはならない。一度くだけた態度で接したら彼は露骨に機嫌を悪くした。常識で考えれば理解不能だが、彼の知能指数を合わせて考えればすぐに分かる――老人に対する若者の敬意は自ずと抱くべきであり、例え許されたとしても自然と礼儀を弁えた態度になる。そうならない若者は許されない――馬鹿の妄想力とプライドに対する執着には目をみはるものがある。とにもかくにも付き合い方が面倒であり、隣に座る鳴寺に「殺せ」と言いたい。しかし、警視庁色並署長の肩書には我慢する程の価値があった。


「ところで黒崎さん、そろそろお隣の刑事さんを紹介していただけますか?」

 

 全ての辛抱は警察官を会食の場に出席させる為。金を積むことは簡単だが、そんなことをすれば天道世正は翌朝のニュースで有名人になる。和をもって尊し、日本最古の法律に書かれている通り日本人は集団の風紀を乱すことを許さない。警察官ともなれば尚更だ。あからさまな汚職の提案は彼らに唾を吐く行為と等しい。だから、まずは会食を行う。そのような接待も賄賂と同じく法律で禁止されているが、縦割り社会の警察組織で上司と対立するほどの罪ではない。長いものには巻かれるのも日本人だ。彼らを掌に乗せる過程は階段を歩くことと似ている。一歩ずつ、平地と同じような感覚で上がらせる。そして気づけば、元いた場所は遠く引き返せない。


「ええ、もちろん。こちらは部下の灰塚です。口数は少ないですが、うちじゃ一番仕事ができる奴です」


「……灰塚です」


 短い言葉に天道は微笑んだ。寡黙な人間の扱いには細心の注意を払ったほうがいい。表立って不満を口にすることのない代わりに、溜まりに溜まった鬱憤を突然爆発させる。しかし、一度心を掴めば簡単には裏切らない。ハイリスクハイリターン、次の言葉を考えていると黒崎が大きく笑った。


「おいおい、それだけで済ませるつもりか。お前は本当に喋るのが下手だな。せっかくの機会なんだから、天道さんに面白い話をしてみろよ」


 黙れよクソが。天道は表情こそ崩さなかったが、腹の中では胃を痛めた。おそらく黒崎は自分が部下の大半に嫌われていることに気づいていない。気さくな冗談を言うフランクな上司と勘違いしているのだろう。だが、悲しいかな。相手を攻撃しかねない冗談は互いにそれを言い合える対等な関係でのみ通用する。立場に差がある場合は相手に許容を強制させてしまう。目に見えたトラブルは起きなくても、恨みは積もるものだ。もちろん例外はあるが、灰塚の何かを噛みしめるような口の閉じ方を見るに一般論で考えて差し支えないだろう。彼に場を任せていたら、いつ発砲事件が起きるか分かったものではない。

 

「構いませんよ。多くを語らない、なんて男らしくて自分は大好きです。私の尊敬する父親もそうでした」


 笑ったまま睨むと黒崎は間抜けな声を出しながら愛想笑いを浮かべた。父親を侮辱するなという遠回しな脅しは伝わったようだ(実際は父親を殺すほど憎んでいたが、一般的には子は父に対して愛情・尊敬があると理解している)。しかし、上辺だけでも部下に謝れないものか。やはり彼はただの窓口だ。手綱は握らせられない。


「そろそろ食事が来ますよ。話は後にしましょう」


 その時、扉の外から足音が響いた。丁度良いタイミングだと喜んだが、それが待ち望んだウェイターでないことはすぐに分かった。日本のレストランに扉を蹴り破る従業員はいない。轟音を立てて現れたのは対称的な二人の男。一人は身なりを整えた無表情の男、一人はよれよれのスーツを着た般若面の男。まるで刑事ドラマに出てくるような凸凹コンビだ。


「民間の経営者と仲良くランチなんて素晴らしい。随分と立派な公務員だな」


 般若面の方がずかずかと歩いてくる。だが、姿勢や歩き方はモデルのように美しい。育ちは良いほうだろう。無表情の方は立ち姿には隙が見えない。相当な訓練を積んだ軍人だ。


「天道世正。殺人と贈収賄の容疑で話を聞かせてもらう。テメェにふさわしい場所でな」


「どういうことだ。令状は? そもそも証拠が――」


「テメェに話しかけてねえだろ裏切り者!」


 黒崎が声を上げると、男はその顔を殴りつけた。腰の入った正拳突き、椅子ごと崩れ落ちた黒崎は大きな音を立てて床に転がった。


「黙れよクソが! どの面下げて飯食ってやがる! 二度と家族の元に帰れると思うなよ!」


 頬を両手で抑える黒崎を男は一度二度三度と蹴りつける。大きな音と男の小さな悲鳴が聞こえる度に天道は笑いそうになった。生意気な年上が痛めつけられているのは面白い。止めるのはもう少し後にしよう。部下の灰塚も同意見なのか何も言わずに見守っている。鳴寺に関しては二人など眼中になく、無表情の男をじっと見つめていた。


「落ち着いてください工藤さん、任意同行でしょう」


「止めるなよ雲霧、あと少しで一生歩けない体に出来たのに」


 結果、般若顔の刑事――工藤を止めたのは無表情の刑事――雲霧になった。憤りを露わにする工藤とは違って、雲霧は落ち着いている。だが、警戒するべきは工藤ではなく雲霧だ。僅かに浮いた右手、海外の諜報機関で訓練を受けた天道にはそれが銃を即座に取り出す為の姿勢に見えた。この男は恫喝や暴行をしないが、きっかけ一つで顔色一つ変えずに自分達全員を殺す気だ。


「てめぇら……、一生後悔させてやる……」


 荒い息と濁った血を吐きながら、黒崎が立ち上がった。あれだけ痛めつけられて即座に動けるのは打点をずらしてダメージを軽減させたからだろう。腐っても出世した警察官、しかし銃口を突きつけられていることには気づいていない。灰塚も工藤に気を取られている。雲霧は鳴寺と二人で対処するしかない。


「それで天道さん、どうされますか?」


「お断りします、忙しいので」


 賽は投げられた。雲霧は真っ先に鳴寺を狙うだろう。彼が中国人であることは明白で、武術家なら彼の所作が同業者であることを見抜ける。戦闘訓練を受けた警察官なら自分の部下を3人殺したのは彼だと気づくはずだ。そして、敵意に対して人一倍鋭い鳴寺は殺意に気づき応戦する。勝負は互いに意識が集中したその一瞬、テーブルフォークで雲霧の首を突く。工藤一人なら大した脅威ではない。天道は息を深く吸い、戦いの火蓋が切られるのを待った。しかし、雲霧も鳴寺も銃を取り出すことはなかった。


「それが貴方の選択なら尊重しましょう」


 雲霧はそう言って踵を返す。工藤は何も言わずそれに倣った。天道は思わず目を丸くする。まさか大人しく引き下がるとは思わなかった。彼らがしたのは任意同行の要求、黒崎への暴行。公安の刑事がわざわざ容疑者に顔を晒してまですることか? 彼らは路上で誰構わず因縁をつけるチンピラではない。無意味な行動をするとは思えなかった。


「何が目的ですか? 警察の捜査であればご協力しますよ」


「罪を償う選択をするか確認しただけです。ご回答を頂けたので、もう用はありません」


 雲霧は背を向けたまま答え、工藤と共にホールを去った。開け放たれたままのドアから店員が慌てて走ってくるのを見て天道は声を上げて笑う。宣戦布告、それが彼らの目的だったようだ。警察にあれほどの武闘派がいるとは、人生とは何があるか分からない。


「あの野郎……」


 黒崎が唸りを上げて扉に向かおうとする。その手には拳銃。思ったより気骨があると見直したが、感心している場合ではない。天道は即座に彼の前に立ち塞がった。


「落ち着いてください」


「これが落ち着いていられるか! 奴らは嗅ぎつけている、一刻も早く始末しなければ!」


 彼の意見には珍しく同感を覚えたが一つ欠陥がある。あの二人は不意を突いたとしても簡単に殺せない。今戦うということは、この場にいる全員の命を懸けることだ。総数不明の敵の内の二人。リスクに対して得られる対価が低すぎる。相手がその気なら応じるしかないが、退くというのなら追うべきではない。


「黒崎さんを危険に晒すことはできません。彼らの始末は我々にお任せください」


 黒崎を失えば彼に掛けたコストが無駄になる。今はまだ手放したくない。時が来ればこの手で殺す。


「……そうか。ちゃんとやってくれよ」


 黒崎が席に戻るのを見て天道は胸をなでおろした。彼に兵士の役割は求めていない。餅は餅屋、仕事は専門家に任せるに限る。だが、最低でも3000万円の出費は確実になった。天道は苦笑いしながら黒崎の真正面に座り直した。



――――――――――――――――――――――――――――


 ざわざわと感じる虫の気配。ガタガタと体を揺らされながら、立華は微動だにしない。全身が被れたかのように痒みが走り、息苦しい吐き気が喉元までせり上がる。だが、立華は暗闇の中でじっと耐えた。耐えることは誰よりも得意だった。7秒吸って、7秒吐く。その繰り返し。金も教養もない男の唯一の武器。だが、それを振るい続ける必要はなかった。体の揺れが不意に収まる。


「幽誅」


 陰気な女の声と共に体を覆い尽くしていた毛布が取り払われた。眩い一瞬の閃光の後に見えたのは黒服の男達。中世期グループに買収された警察官。奴らは人間じゃない。蛆虫だ、腐肉を喰らう蛆虫の群れだ。虫の気配がしたら、人を殺す。立華は起き上がると同時に拳銃を二丁構えた。


「な、何ーーー」


 抵抗する権利など与えない。双方の照準をそれぞれ別の蛆虫へと定める。2丁分の調整は僅かなラグを生んだが、実戦経験のない警察官は肝を潰して動けなかった。素早く三発。胸と頸に。白いシャツに赤く染めながら、彼らは崩れ落ちる。残りの二匹は慌てて拳銃を抜いた。だが、銃声は続かない。ナース服の女が両手に構えたクナイで二人の頸を切り裂いた。致命傷。直線ではなくV字に彫られた傷からは大量の血飛沫が噴き出し、男達は膝をついた。


「おい、どうしーーー」


 2人の警察官が続けて病室から飛び出す。瞬間、女のクナイが先頭の腹を突き刺した。力が抜け、動きが止まった体。女はもう一振りのクナイで胸を素早く滅多刺しにする。すぐ後ろにいた警察官がすかさず銃口を向けるが、撃つより先にその頭に三発叩き込む。指に力を込めろという指令は潰えた。護衛の警察官は残り二匹。だが、虫どもが廊下に飛び出すことはしなかった。流石に飛び出すのは悪手だと気づいたのだろう。きっと中で防御態勢を取っているに違いない。無駄なことを。立華は拳銃を頭上に放り、遅延一秒のスタングレネードの安全ピンを引き抜いて病室へと放り込んだ。爆音が響き渡り、閃光が扉から漏れた。直後に上がるうめき声。それが合図となる。再び拳銃を手に取った立華は迅速に突入し、方向感覚を潰された二人を瞬く間に蜂の巣へと変えた。

 クリア。室内を見渡すと、ちょうどベッドの布団が人一人分盛り上がっている。呑気に寝ていることに腹が立ったが、好都合だ。


「しぶとく生きやがって蛆虫が、今度こそ確実に殺す」


 二つの銃口を向ける。油断はしない。まず布越しに数発撃って抵抗力を奪う。急所を狙うのはその後だ。念のために頸を斬り落とせば間違いなく死ぬだろう。二丁の拳銃を構え、一息置く。瞬間、激しい痛みが腹から胸へと駆け抜けた。


「坊っちゃんには指一つ触れさせん」


 揺らぐ視界に見えたのは、礼服の老人だった。皺だらけの手には長い日本刀。室内のどこかに隠れていたのだろう。だが、斬られるまで姿を視認できなかった。返り血が跳ねる顔は傷だらけで、相当な修羅場を潜り抜けてきたことを伺わせる。その上、瞳に油断はない。それだけで人を殺せそうな眼光に衰えは微塵も感じられなかった。


「同じところに送ってやる。安心して死ね」


 バックステップで距離を取り、左手の拳銃を狙いを定めずに乱射する。老人は体を逸らすだけで躱したが想定内。牽制の援護射撃。本命は、照準を正確にあわせた右手の拳銃。体の中心、胸に目掛けて三発。だが、引き金を絞ると同時に照準から老人の姿が消えた。


「青いな」


 腰を深く沈めた老人。数多の弾丸がその頭上を通り過ぎていく。一発も当たらない。咄嗟に照準を合わせ直す。だが、引き金を引くより先に重い衝撃が手首に襲いかかった。斬撃に打たれた銃身。拮抗することは出来なかった。拳銃が右手から弾き飛ばされる。老人は更に一歩踏み込んだ。間合いに入った。狙いは脇腹。老人に狙いをつける余裕はない。右手で小刀を引き抜いた。瞬間、激しい金属音が鳴り響く。既のところで刃は防げた。だが、拮抗できない。老体のどこにそんな力があるのか、ゴーストの肉体はそのまま押し飛ばされる。


「だが、君は素晴らしい」


 追撃せず、老人は刀を逆手に構えた。背後に向けらされた刃の先には女の顔。背後から首にクナイを突き立てようとした女の動きがそこで止められる。


「音のない接近、私でなければ死んでいた。何者だ?」


「幽霊」


 女は左手のクナイで刀を弾き、右手のクナイで頚椎を狙う。放たれたのは音速の刺突。だが、老人の血は流れない。老人は振り返ると同時に膝を曲げて、クナイを掻い潜る。そのまま回転の勢いに乗せて刀を振るった。女の腹が横一文字に裂かれる。老人は止まらない。更に体を回転させ、立華が背後から放った弾丸を叩き斬る。真っ二つに割れて床を転がる銃弾には目もくれず、老人は一歩踏み込むと同時に返す刀を真上へと振り上げた。銃も刃も間に合わない。瞬きした時には銃を持っていた手首が斬り落とされ血肉の塊が宙を舞う。


「うちの若を弾いたんだ。ケジメぐらいつけないとな」


 立華は叫び、老人は笑う。笑いながら上体を逸らす。暗殺の一撃は完璧に外れ、彼女に隙が出来た。直後、その背中が縦一直線に斬り裂かれる。蛆虫にそれ以上好き勝手はさせない。立華は遺された右手から小刀を投げ飛ばす。だが、老人は首を傾げてやり過ごした。見当違いの方向に転がっていく小刀。

 瞬間、刺突が飛んできた。銃弾のような刺突は、女ごと立華の腹を貫く。肉の繊維がぶちぶちと破れる音が体の内側を蝕んだ。

 激痛で体が震える。視界が霞んで白黒に点滅しはじめた。血と共に体から力が抜けていく。致命傷だ。これ以上戦うことは出来ない。敗者として、ただ死を待つだけ。人間ならば。ゴーストの怨嗟はこの程度では鎮まらない。立華は掌を老人に向ける。


 幽術展開、奪回。


 床に落とされた小刀。手から離れた得物がまるで意思を持ったかのように飛び跳ねた。向かう先は立華の手。その間にある老人の背中。


「何だ?」


 死角からの一手。それを老人は気配のみで勘付いた。刀を引き抜いて横合いに飛ぶ。刃は掠りもしない。立華は歯ぎしりと共に小刀の柄を掴み取った。


「面白い芸だな。長く生きたが初めて見る」


 刀を上段に構える老人。幽術が通じないどころか、動揺さえ見せない。一部の隙もない構えに背筋が凍る。頭に過るのは、暗くて深い『死』。立華は震えながら小刀を老人に突きつけた。素人目に見ても、弱そうで頼りない動き。だが、老人は顔をひきつらせた。日本刀を逆手に握り直し即座に横合いに構える。刹那、物々しい金属音が轟いた。老人の体は床から引き剥がされ、宙を舞った。


「何をしてる? 時間が無いぞ」


 瞬きする前に現れたスーツベストの青年が刀を手に、老人の前に立ち塞がっていた。彼は古流剣術、災禍伝の免許皆伝だ。本気の斬撃を立華が止められたことは一度もない。しかし、老人は受け身を取り、体勢を整えて再び余裕の笑みを浮かべた。


「才能がある剣士は素晴らしい。惜しむべきはここで死ぬことだ」


「殺せるものなら殺してくれ。俺は構わない」


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 一睡も出来なかった。白黒と点滅する視界の中で痛みをただひたすら味わい続けた。傷口に火をつけられたような灼熱の痛み。一秒、一分、一時間と時が過ぎていく。もし死ぬことができたら、この苦痛が逃れられるのか。そう思えるほど長く、暗い時間。結局、痛みが引いたのは夜が明けてしばらく経ってからだった。日差しが見え、ようやく息がまともに吸える。だが、一息をつく余裕は無かった。はっきりとなった視界には、今にも泣きそうな母親の姿が見えた。


「優、貴方一体どうしちゃったの……?」


 尋常でない息子の様子を見ていたのだろう。親として、心配をするのは当然のことだ。対する六徳は口ごもった。言えるはずがない、一度殺されてゴーストとして蘇ったなどとは。自分でさえ実感が湧かないことを信じてもらえるはずがない。悪い冗談にしか聞こえないだろう。


「何でもないよ」


「そんなわけないでしょう! 嘘付かないで!!」


 鼓膜が破れるそうな叫び声。母のそんな声を聞くのは、生まれて初めてだった。母は怒っても声を荒らげる女性ではない。怒りの理由を淡々と論理立てて話す女性だ。六徳は知らない。大声に込められた感情は怒りではないことを、それが焦りであることを。かつて母は父を失った。大切な家族を、一生を共にすると誓ったパートナーを犯罪者に奪われた。そして今、息子を失おうとしている。この世に唯一遺された家族を。同じ犯罪者によって。父も息子も同じ、警察官として犯罪者に自ら近づいた結果。だから、母はこんな台詞を続けた。


「優、警察をやめなさい」


 その言葉は六徳の心を抉るものだった。彼にとって警察は生活していく為の仕事ではない。願望であり、目標であり、人生だった。父親を失って、心にぽっかりと穴が空いた少年期。救ってくれたのは父と同じ警察官だった。雲霧優。彼がいたから、今の自分がここにいる。そういう人間になりたかった。傍にいると安心できるほど強く、自分ではない誰かを守る優しい人間に。その為に勉学に励み、鍛錬に勤しんだ。時には同年代並の青春を犠牲にすることも多々あった。諦めようと思ったことも無かった訳では無い。それでも続けられたのは揺るぎない信念があったからだ。警察を辞めるということはそれを否定することになる。よりにもよって、唯一遺された大切な家族に。


「他にも仕事はあるでしょう? なんで、よりにもよって危ない目に」


「母さんに警察の何が分かるんだ! 何も知らない癖にろくでもないみたいに言うなよ!」


 母は驚いていた。反抗期のない息子から怒鳴られることは初めてのことだった。その様子が六徳には見えなかった。自らの根幹を揺るがされた男にその余裕はない。刃で腹を抉られて白黒に点滅している時のように、彼には何も見えていなかった。


「今の俺は、なりたかった俺なんだ! 昔からずっと頑張って、やっとなれた姿なんだ!それをやめろ? いつまでも子供扱いするな、母さんにそんな事をいう権利はない! 俺が自分で決めたことだ! 覚悟は既に出来ている! 死んだって、別に構うものか!!」


「優。あなた……」


 荒い息を吐きながら、六徳は戸惑った。捕まえた犯罪者に対しても、ここまで怒ったことはない。母はただ自分を心配してくれている。それは理解できた。だが、心を上手くコントロールできない。父親が死んだ時にまとわりついた無力感。少年期に決別したと思っていたそれが再び現れていた。


「……勝手にしなさい」


「あっ……」


 吐き捨てるように良い、母は去っていく。その後姿に縄をかけられたように胸がきゅうと締め付けられた。確かに母の言い方は良くなかったかもしれない。しかし、だからといって強い言葉で攻撃するのは違うだろう。それが本当に言いたかった言葉なのか? プライドを傷つけられた復讐は出来た。しかし、心が晴れることはない。肺に水を流されたように胸が重く息苦しくなる。こんな気持ちになるのなら言わなければ良かった。

 後悔も束の間、入れ替わりに一人の男が入ってきた。顔に傷の入った男の威圧感に六徳は思わず震える。富嶽武、雲霧の部下。自宅では自分に銃を向けてきた。視界が無くとも、本物の殺意が肌で感じられた。あの時は葛城が制止してくれたが、今は富嶽と二人きり。回復したばかりの体では抵抗することもままならない。


「おい」


 ぶっきらぼうな呼びかけを無視して手を警戒する。距離は近い、撃たれれば必ず当たる。だから、握らせるな。ホルスターに指が向かった瞬間が勝負だ。その隙を逃さず、捕らえてやる。だが、穴が空くほど見つめても手は動かなかった。拳が固められることもない。


「親に向かってあんな口の聞き方するんじゃねえ」


「え?」


 六徳は拳への警戒を解き、富嶽を見上げる。大きな傷の目立つ顔は真剣そのものだ。曇りなき瞳。殺すために注意を逸らそうなどと考えては、あのような光は出せない。


「さっさと謝れ、後悔しない内にな」


 成熟した人間の眼光に六徳は思わず目を逸した。改めて人に言われると、どうしようもなく恥ずかしくなる。親に反抗するなんて子供のすることだ。弱冠を迎え、自立し、警察官になった男のする事とは思えない。時を戻したい。もしくは無かったことにしたい。決して敵わない願望を抱きつつ六徳は頭を抱え込んだ。その姿は明らかに隙だらけだったが、富嶽は銃を取り出す素振りすら見せず、椅子に腰かけた。


「俺はまだテメェを信用したわけじゃねえ。人を手にかけようとしたら、迷わずぶっ殺してやる。だが……、今はそうしちゃいない。お前は警察官だ、俺の同僚だ。そいつは認めてやる。理由はどうであれ、俺は同僚の警察官を殺そうとした。お前がゴーストだろうが親に生意気を言うクソガキだろうがその事実は変わらない。俺は雲霧に殺されるから、それで許せ」


「雲霧さんはそんなことしません。抵抗する気のない相手を手に掛けることは」


 そうか、と富嶽は深い溜息をついた。後に流れた沈黙には富嶽の躊躇いを物語っている。言うべきか、言わざるべきか。しばらくの時が過ぎ、やがて傷だらけの男は覚悟を決めた。


「六徳優、お前は真面目な警察官だ。それが犯罪者に突然殺されて、挙句の果てにゴーストにされた。犯罪の加害者ってわけじゃねえ、むしろ被害者だ。それに対して、俺は酷い態度ばかりだったな。ただでさえ辛い時に悪かった。許す必要はない。ただ、俺自身の為に謝らせてくれ」


 偏屈で暴力的な人間と思っていた。ゴーストを見れば、まよわず銃をぶっ放す殺戮マシーン。だが、こうして話してみると理性的な人間に思えた。言葉遣いは悪いが、彼なりの優しさがある。許します。それを思いつく限りの丁寧な言葉で補強した後で六徳は次のように続けた。


「……貴方は何故僕を殺そうとしたんですか」


 僅かな沈黙。しかし、それを話すことも既に覚悟していたのだろう。富嶽はすぐに続けた。


「別に立派なもんじゃねえ。俺が警察官であることとは全く関係がねえ理由……、つまるところ私情だよ。公務員の仕事にそんなものを持ち込むなんて我ながらクズだな。白バイ隊員になる資格なんて無かった」


 富嶽は小さく笑った。初めて見る笑顔だった。六徳はそこに喜びとは違う感情が見えた。冷たくなるような悲哀と煮えたぎるような憤怒。表面上を取り繕っているわけではない。心を打ち砕かれ、涙を流すことすら出来なくなった。そういう時、人は笑うものだ。


「上の奴らはどうせ調べているだろうが、俺の口からは誰にも話したことがねえ。これからもその予定だったが、テメェは別だ。知る権利がある。つまんねえ話だが、聴きたいか?」


 六徳は深く頷いた。それに合わせて、富嶽は一呼吸置いて話し始めた。



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 株式会社中世期専務、蜂須恵健人はただの老人ではない。裏社会では名の知れた人斬りだった。バブル経済では敵対組織の人間を次々と斬り殺し、組の利権を誰にも奪わせなかった。死線を潜り抜けて研ぎ澄まされた刃。銃を何丁向けられても、恐れは微塵も抱かない。だが、今は体が震え上がっていた。目の前に現れた一人の青年を目の前にして。


「殺してやる、寿命でくたばる前に」


 年は20代前半ぐらいだろう。70を過ぎる蜂須恵から見れば、孫であってもおかしくない若者。だが、殺気は研ぎ澄まされていた。向けられただけで、皮膚が刃で刺されたように痛くなる。単なる腕自慢が放てる気迫ではない。この男に比べれば、先程の2人は赤子のようなものだ。


「老人には敬意を払え」


 先手必勝。一息で踏み込み刀を振るう。狙いは首筋、急所を狙った必殺の一撃。だが、青年は上体を僅かに逸して躱す。刃先と喉仏が触れそうなほどの紙一重。次の瞬間、青年の斬撃が峰に襲いかかる。空を薙ぐ刀は加速させられ、もはや引き戻せない。体勢を崩すと同時に青年の刀が振り下ろされた。胸から腰にかけてを裂こうとする一撃。落雷の如き凄まじい速度だ。刀で防御する猶予はない。蜂須恵は背後に飛んで刃を躱す。瞬間、刃先が目の前に突きつけられる。構えた瞬間が見えなかった神速の刺突。その刃先に老人の姿は無い。

 攻撃を察知した蜂須恵は刺突の寸前に横に飛んでいた。この青年は剣術の才がある。鍛錬も充分積んだのだろう。だが、血に塗られた蜂須恵の生涯が超えられない。水平に突き出された刃に向けて垂直の唐竹割り。刃は側面に叩きつけられ、青年の直刀にひびが広がっていく。防ぐ術など無かった。一瞬の内に叩き折られ、切っ先が宙を舞って壁へと突き刺さる。半分以下になった刀身、大抵の剣士は後ろへと引き下がる。しかし、青年は一歩踏み込んで更に距離を詰めてきた。蜂須恵は笑う。予想通りだ。優秀な剣士なら振り切った体勢の今この瞬間、千載一遇の勝機を逃さない。攻撃は数通り、初動で見極める。蜂須恵は青年の刀に視線を注ぎ込む。その視界がぐにゃりと歪む。


――千載一遇の機会を逃さない


 まさか刀を持っていない方の素手で攻撃を仕掛けてくるとは。予想外だったが攻撃の瞬間に理解した。衝撃の方向へと飛んで力を軽減する。歪みが残る瞳が捉えたのは肘を突き出す青年の姿。裡門頂肘、八極拳の技だ。鳴寺のそれに匹敵する威力、この才能が今日で潰えると思うと少し悲しくなる。


「ここまでだ」


 形勢逆転の危機は乗り越えた。少々骨が折れるかもしれないが、間合いの外側から斬り続ければ勝てる。蜂須恵はそう考えていた。壁に突き刺さった刃を青年が引き抜くまで。


「これからだ」


 隙のない二刀一流の構え。かつて無敗の剣士と謳われた宮本武蔵が完成させた剣術。この時代にお目にかかれるとは夢にも思わなかった。青年の闘気は微塵も揺るがない。虚勢には見えなかった。戦場で相手の実力を見誤れば死ぬことになる。


「未来ある若者の将来を潰したくないんだが」


 床を蹴ったのは同時だった。先手は長刀の蜂須恵、肩から腰にかけての袈裟斬り。青年もすかさず刃を差し込んだ。耳が割れそうなほどの金切り音が血まみれの病室に鳴り響く。大した反応だが、道具が悪い。所詮は短刀の防御、文字通り押し切れる。しかし、力を込めるより先に拮抗は弾かれた。一太刀で動きを封じ、二太刀で撃ち落とす。この男の二刀流は付け焼き刃ではない。恐らく今のが彼本来の戦い方。


 ――戦場で相手の実力を見誤れば死ぬことになる。


「幽誅!」

 

 青年は刀を持った右手を垂直に振り上げる。視線が上がるが、言いようのない悪寒が全身を駆け抜けた。真っ直ぐと振り下ろされるであろう三太刀を恐れているわけではない。その攻撃は容易に防げる。しかし、優秀な剣士が取る選択とは思えなかった。実力があろうと短刀では長刀に威力が劣る。力勝負を仕掛けてくるとは思えない。それもわざわざ叫び声を上げてまで。合理的な説明がつく青年の狙いはただ一つ、陽動だ。

 蜂須恵は一歩退くと同時に軸足を宙に浮かせた。瞬間、三太刀を止めて放たれた一文字斬りが足の下を通り過ぎた。熱せられた空気がブーツ越しに土踏まずをねっとりと撫でた。凄まじい威力。瞬きする間でも遅れていれば、膝から下が失われていたに違いない。蜂須恵は小さく笑った。生と死は紙一重、いちいち恐怖していては極道など務まらない。青年は次の攻撃態勢の予備体勢へと移っている。疾風怒濤の連撃、刀の防御は間に合わない。蜂須恵は宙に浮かせた足を青年の胸へと叩きつけた。青年の体がよろめくと同時に足を抜いて距離を取る。直後、続けざまに空を薙ぐ二振りの刀。足を失う危機にまた見舞われた。


「辞世の句を考えないとな」


 生きるか死ぬか、紙一重の戦いだ。高速かつ高精度の斬撃に鉄壁の防御、徒手空拳の心得もある。長年の鍛錬と経験則による先読みがどこまで通じるか。考えている内に蜂須恵は体が浮き立つような感覚に襲われた。蜂須恵の仕事は天道に危害を加える者の排除であり、剣術はその手段に過ぎない。阿久良のような戦闘狂とは違う。それでも数十年ぶりに現れた、自分と比肩する剣士の出現を喜ばずにはいられない。挑戦と成功ほど人間を熱中させるドラッグはない。


「そんな権利はない。お前たちに殺された人間に許されなかったことを、どうして出来ると思うんだ」


 青年は深く腰を沈め、二刀を逆手に構える。大技だ。防げなければ致命傷だが、隙をつければ反撃で仕留められる。最後の攻防、蜂須恵は真っ直ぐと刀を構えて呼吸を整えた。

 瞬間、けたたましいアラームが鳴り響いた。音源は青年の胸、そこにスマートフォンがあるのだろう。


「命拾いしたな」

 

 そう吐き捨てると、青年は刀を投げつけてきた。吸い込まれるように喉へと向かう刃。蜂須恵は体を逸らして躱したが、その眼前にもう一振りの刀が迫る。回避直後を狙った絶妙な時間差の投擲だが、蜂須恵は難なく斬撃で弾いた。眼前まで迫った切っ先に蜂須恵は恐怖ではなく疑問を抱く。青年の武器はもうない。そこまでのリスクを負う価値が今の攻撃にあったのか。疑問の答えはガラスが砕け散る悲鳴で返される。

 逃走。気づけば病室のベッドにフックが掛けられ、そこからワイヤーが窓に向かって伸びている。即座に斬ったがもう遅い。窓の外を見ればサイレンを鳴らして立ち去る救急車が見えた。入れ替わりに入ってくる複数の警察車両。時間切れとはこの事か、病室を振り返れば二人の刺客も姿を消していた。致命傷を与えたはずなのに、何故動ける?


 ――幽霊


「……いや、まさかな」


 蜂須恵はひっそり呟いた。返事は誰にも期待していない。死体だらけの病室で蜂須恵は葉巻に火をつけ、溜息をつくように煙をゆっくりと吐き出した。


――――――――――――――――――――――――――――――――――


「年の離れた弟がいたんだ。とにかく気が弱くて優しいやつだった。少なくとも俺が知ってる内は。あいつが中学生になった頃には俺はもう家を出ていた。何でも分かるほど会っていた訳じゃねえ。でも、兄弟仲は悪くなかった。俺が非番であいつの学校も休みの日は、バイクのケツに乗せて色んな所に出かけたよ。ボウリング、ダーツ、カラオケ、バッティングセンター。あいつはゲームが好きで俺に勝ちたがった。これが中々面倒でな。負けると悔しそうにするし、手加減するとそれを見抜いて怒り出す」


 富嶽は仕事の愚痴を言うように話し始めた。だが、笑みは優しく言葉は普段より柔らかかった。六徳は顔つきで人を判断しない。造形は生まれ持って与えられたものであり、人の意思に無関係だ。だが、瞳は違う。魂の訴えはそこに現れる。だから、六徳はいつも人の目をじっくりと見て話す。彼は富嶽の眼に深い慈愛を見た。表面上は気取りながら、幼い弟を大事に思う兄の目がそこにはあった。


「でも、あいつが高校生になるとそういう日は無くなっていった。まあ、そういうもんだよな。三十路に近づいた俺に連れ回されるより、年の近い友達と遊んだほうが楽しいに決まってる。少し寂しかったけどよ、成長の証だと思えて嬉しくもあった」


 富嶽は口を噤んだ。その強面は今にも泣きそうな少年が涙をこらえてるようにも見える。六徳は何も言わなかった。時が止まったかのような沈黙。やがて、それを富嶽が静かに打ち破った。


「ある時、仕事中に通報が入った。未成年の不良グループが無免許運転をして死亡事故を起こしたってな。俺は別の事故を処理してて担当は別の同僚になった。それでも数が多いと聞いて聴取ぐらいは手伝ってやろうと思って署に急いで戻った。そしたら、取調室にあいつがいたんだ。見たこともねえ真っ青な顔に、似合ってもねえピアスをジャラジャラつけやがってよ。あの馬鹿野郎が」


 富嶽は小さく笑った。どうしようもなく辛くて、立ち直れそうにない時も人はそうする。涙を流すことさえ出来ない。何をしても取り返しがつかないと絶望した者の破顔だった。


「事故だった。悪意があったわけじゃねえ。でも、人を殺した事実は変わらない。今まで逮捕してきたどんな犯罪者よりもあいつに怒りが湧いた。あの時の聴取は我ながら酷いものだった。同僚に止められるまであいつを殴った。お前なんかもう俺の弟じゃねえ。そう、言いながら」


 再び沈黙。だが、先程とは違う。富嶽の虚ろな瞳はどこか悩んでいるように見えた。誰にも話したことのない過去。当時の感情が邪魔をして、何を話すべきか迷っている。


「それを言ったことを、後悔していますか?」


「そうだ。俺は馬鹿だった。何も考えず、散々叱りつけて、殴りつけて、謹慎処分をくらって、俺は家に帰った。そして、俺はその日初めて携帯を見たんだ。朝にメールが届いていたことにやっと気づいた」


 富嶽が差し出したスマートフォン、その画面には簡潔なメッセージが表示されていた。件名はない。本文にはただ次のように書いてある―――『助けてほしい。話したいことがある』


「弟から送られたものだった。思春期の男が助けを求めるのは恥ずかしかっただろう。それでも、あいつは勇気を出してくれた。年が離れた兄を、疎遠になっていた俺を信頼してくれた。メールに気づかなかったなんて言い訳にならなねえ。警察官として、俺はあいつの話を聞くべきだった。家族として、あいつの事を助けるべきだった。なのに、俺は……俺は……あいつを……」


 富嶽の顔から表情が消える。何かを耐えるかのように震え、唇をきつく噛み締めた。待つべきだろう。六徳は何も言わなかった。口を挟まず、富嶽の次の言葉を待った。


「弟に謝ろうと思った。そして、何があったのかどれだけの時間がかかっても聞こうと思った。でも、遅かった、無駄だった。次の日の朝、知らされたんだ。弟が不審死を遂げたってな」


「そんな……」


「遺体は見れたものじゃない。交通事故みたいだった。検視の報告書を俺は最後まで読めなかった。脇腹に小さな傷跡があって、そこから致死量の出血があったらしい。これがどういうことか分かるか? ゴーストは時間をかけて弟を殺したんだ。どれだけ痛かっただろう。どれだけ苦しかっただろう。その苦痛に誰も寄り添わないまま、あいつは死んだ」


――交通刑務所の受刑者は服役中に内蔵を潰された


「同僚は皆、俺に優しくしてくれた。何人かは慰めの言葉を貰ったよ。でも、何かが変わってしまった。俺に対する彼らの態度はもう同僚に対するものじゃない。いつ爆発するか分からない爆弾のコードに触れるようなものだった。もはやチームの一員とは言えねえ。俺がいても役に立つどころか足を引っ張るだけだ。それが申し訳なくて、俺は退職を決意した」


 六徳は返す言葉が見つけられない。嘘であってほしい話だった。愛する家族が犯罪者となり、理由も分からぬまま殺された。そして、富嶽自身の人生も歪んでしまった。尊敬する父も彼と同じ交通機動隊だった。仕事に誇りを持っていただろう。それを自ら捨てる時、どれほどの絶望を味わったことか。


「世間の風当たりもある。白バイ隊員の弟が暴走族の一味だったと週刊誌が面白くおかしく書き立てやがってな。金がなくて娯楽に飢えてる奴らからすれば、こんなにおもしろいことはないだろう。まあ、記事も世間も俺に対しては同情的だったよ。何故か俺の暴言と暴行が知られていてな。身内を庇おうとしない態度が、正義と称して他人を袋叩きにする連中に大受けしたらしい。しかし、あいつの親はその限りじゃなかった。私達の息子にあんな酷いことを言う人間は家族じゃないって言われたよ。一応、俺も彼らの息子のはずなんだがな」


 家庭にとって、家族の喪失はぽっかりと空いた穴のようだった。人はそれを埋めることはできる。六徳の母は愛情によって、富嶽の両親は憎しみによって。


「まあ絶縁は一時的な感情だったかもしれない。でも、それはもう分からない。加害者家族の支援活動を始めた両親は公演中に狙撃されて即死した。そうして、俺の家族はこの世のどこにもいなくなった。もう会うことはない。どうして俺だけが生きているんだ? そう考えている俺に対策室長がゴーストの存在を教えてくれたんだ」


 それが話の終わりだった。再び流れる沈黙。富嶽は何かを吐き出すように深く息をつく。どうして自分だけが生きている? その答えを彼は出したのだろう。彼もまた憎しみに救いを求めた。


――お前も知っているはずだ! ゴーストがどれだけ人を殺してきたか!


「これがゴーストと戦う理由だ。奴らは自分だと正義だと思っている。だから人の命を奪っておきながら、それが恥じる気もない。……そんな事は許さねえ、弟と両親の仇は必ず取ってやる」


 復讐に捧げた人生。破滅的な富嶽の生き様に対して思うことは無数にある。だが、それを言うつもりはなかった。常識的な言葉が彼に響くことはないだろう。一人の人間が命の上に置いたものを奪うことはできない。しかし、六徳には聞きたいことがあった。


「富嶽さんが復讐を決意したのは、ご家族の仇を討つ為ですか?」


「そう言っただろう。他に理由なんて――」


「では何故、弟さんを名前で呼ばないのですか?」


――ーあいつが中学生になった頃

――ーあいつの学校も休みの日

――ーあいつが高校生になると。


「それに親を他人みたいに呼ぶなんて」


ーーーあいつの親からは縁を切られたよ

ーーー俺も彼らの息子のはずなんだがな


「貴方は後悔していると言った。それこそが本心だと思っています」


――ーさっさと謝れ、後悔しない内にな


「俺には貴方が自分自身を傷つけているように見えます。一番憎んでいるのは本当にゴーストですか?」


「……私情を挟んでお前を殺そうとしたことは確かに間違いだ。それについては認める。気が済むまで殴ってくれても構わない。だが、綺麗事を並べて知った風な口を叩くな」


 静かな声だった。だが、銃の引き金に指をかけて怒鳴っている時よりも激しい怒りが見える。他人が好き勝手言うことは難しいことではない。何を言ったところで何の責任もないのだから。彼にしか見えない景色がある。どれだけ考えても、六徳には富嶽の絶望を知ることは出来ない。


「……貴方が受けた苦しみも悲しみも貴方だけのものです。頼まれてもいないのに、口を出す権利なんてない。でも、貴方が十字架を背負うことは、絶対に間違っています! 貴方は家族を奪われたんだ。罪人じゃない。他人を恨むより先に自分を許してください。どう生きていくかは自分の為に考えたほうが良いと思います。その上でゴーストと戦うなら俺がいくらでも力になります」


 再び沈黙が流れた。それが何を示しているかは分からない。富嶽は拒絶することも許容することもしなかった。ただ呆然と立ち尽くしていた。頼りなさげなその姿は、どこへ行っていいか分からない迷子の少年に見えた。


「考えておこう」


 ゴーストに全てを奪われた男が返した言葉はそれだけだった。それだけ残して、病室を後にする。ふらふらと覚束ない足取り。どんなに打ちのめされても後に戻ることはない。彼は進むべき道を決める。六徳が死の淵に立たされても人を守ると決めたように、ゴーストの青年が道を外れてでも復讐をすると決めたように。もはやかける言葉は何もない。どうしようもなく寂しそうに見える大きな背中を六徳はただ静かに見送った。

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愚者が池に落とした石 @huguazarashi

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