第8話 仕事


 警察庁警備局公安課特殊能力対策室第二係長、工藤正規は霊安室で朝を迎えた。オールバックの黒髪は乱れ、目のくまが大きく、ダークスーツの皺は大きく目立っていた。だが、すらりと伸びた姿勢から滲み出る気品を打ち消すには至らない。震えながらもしっかりと開かれた瞳の前には3人の遺体が並んでいる。銃で撃たれ、刃で斬られ、彼らは無惨に殺された。木っ端微塵に爆破されて炭のようにされた者もいる。彼らは同僚だった。それはただ仕事を共にしていたという意味ではない。悪と戦う恐怖と人を守る矜持を共にする仲間だった。まるで自分が同じ目に合ったかのように胸が痛む。昨日から一睡もしていないが、おかげでまだ眠れそうにない。


「残念でしたね」


 背後から聞こえた感情のない声を見れば雲霧が後ろに立っていた。表情は微塵も変わっていない。同僚を失った警察官とは思えない他人事のような態度、人によっては犯人に対するより強い怒りを感じるだろう。だが、工藤は違った。彼こそが警察官としてあるべき正しい姿だと思っている。警察の仕事は死者を弔うことではない。悪を社会から排除し、国民の生活を守ることだ。その為に死ぬことは覚悟できていただろう。涙を流す必要はないし、余裕もない。自分に道徳心があることを証明する為に時間を消費することこそ彼らに対する侮辱だ。無辜の民に犠牲が出るよりも先に犯人を捕まえる。それが警察の仕事であり、同僚が望む唯一の弔いだ。雲霧はそれを分かっているだけ。裁かれるべき警察官は他にいる。


「全くだ。あの馬鹿がお前の言う事を聞いてりゃな。どう落とし前をつけてやろうか?」


 右田将一。名前を思い浮かべるだけで腸が煮えくり返りそうになる。実践経験がない癖に雲霧の命令に逆らい、あろうことか無線を切断した愚か者。その癖に図々しくも生き残った。未来ある若者を死なせた罪は命で償うしかないというのに。今からでも遅くはない。この手で3人の元へ向かわせる。工藤は本気でそう思っていた。雲霧の反応を見るまでは。


「右田さんを責めるつもりにはなれません。結果は悲惨でしたが、彼は部下を必死に守ろうとした。私の言葉が届かなったのは彼らの信頼を蔑ろにした私の責任です。それに私の指示に従ったところで彼らが助かったどうかは分からないでしょう」


 雲霧を見ても彼の心は分からない。嘘をつくことは息をするより簡単だろう。しかし、工藤には不思議とその言葉に嘘偽りがないように思えた。


「……意外と優しいよな、お前って」


 工藤はため息をついて、頭を左右に振った。雲霧と共に仕事をするようになってしばらく経つが、未だに彼のことを理解しきれない。能力が高く、経験が豊富で、それでいて驕り高ぶることなく誰に対しても敬意を持って接する。それが戦後最も人を殺した警察官の一面だというのだから人というのは面白い。殺意は失せた。冷静に考えれば、身内の処遇を考えている場合ではない。


「俺も見習ってそう思うことにするよ。証人保護施設への襲撃はどうだった?」


 石妖を保護していたと思われる証人保護施設へ仕掛けられた襲撃。護衛の警察官が応戦したが、たった一人の刺客に歯が立たず機動隊の増援を待たずして制圧された。現場の近くにいた雲霧が急行したところ部屋が爆破されたらしい。


「何も。私が到着した時には負傷した警察官しかいませんでした。爆発に巻き込まれた痕跡は無かったので石妖と犯人はそれぞれ逃走したのでしょう。目撃証言の特徴は石妖襲撃の犯人に酷似しています。身長は180センチ程度、黒のレインコートに同色のスキーマスク。捜査は二係にお任せしますが、私の部下を護衛につかせましょう。ゴーストが再び来ることはないでしょうが、中世期グループの刺客に狙われるかもしれません」


 工藤は額に掌を置いた。ゴーストを追う、特殊能力対策室の職務を全うするなら雲霧に従うべきだ。だが、会社員のように案件をこなすために警察官になったわけではない。目的は常にひとつ、正義の実現だ。

 ――彼らは同僚だった。ただ仕事を共にするだけではない。


「ありがたい申し出だが、今はそちらを人員を割く気はない。それよりも優先したいことがある」


 ゴーストが再び現れる可能性は低く、被害者は中世期グループと繋がりのない警察官だ。犯罪の露見を恐れて捜査の妨害はしないだろう。捜査は本庁の捜査一課に任せれば良い。進展を監視させ、ゴーストにたどり着きそうになったら主導権を奪う。今、自分達が注力すべきは事件はただ一つ。


「うちの捜査チームが襲撃された件だ。部下を3人も殺されたこともそうだが、襲撃に所轄の警察官が加担したことを許すわけにはいかない。警察は一つだ。階級も所属も関係ねえ、誰が何をしてもそれは警察がやったことになる。ヤクザでもやらねえような身内殺し、それが俺達のやることだと奴らは世間に示した。ふざけんじゃねえ、あのクソどもはゴーストに殺されるより先に俺がぶっ殺す」


 タブレット端末を取り出して、工藤は資料を表示する。警察のハイテク化も進んだものだ。少し前までは人数分の資料を紙印刷し、ホチキス止めした上で会議室に用意したというのに。今では直接会わずとも、ITリテラシーの高い若手の部下が得体の知れない能力を駆使してより分かりやすい資料を用意してくれる。


「中世期製薬の資料だ。非上場のベンチャー企業で、グループ企業の中でも業績はトップ。だが、就職者の選定が妙だ。中小企業勤めの薬剤師に前科のあるチンピラ。成功しているベンチャー起業にしては冴えない底辺の奴らばかりだ」


「底辺という呼び方は失礼だと思いますが、違和感はありますね」


 ――誰に対しても敬意を持って接する。


「悪かったよ。それはさておいて特にこいつだ。中世期製薬総務部長、阿久良拳也。こいつは前科者どころかカタギじゃない。数年前に突然解散届が出された天道組の若頭だった。頭の出来はいまいちで、体を張って組織に上り詰めた古いタイプのヤクザだ。まともな企業の管理職になんて逆立ちしたってなれやしない」


 管理職になれない。その根拠は工藤の偏見ではなく1991年に制定された暴力団対策法にある。その法律は読んで字の如く暴力団を取り締まる為の法律だ。暴力団への資金提供を全面的に禁じ、違反した場合は営業停止等の行政処分、罰金・禁錮による懲役刑を科される。それまで不動産の地上げやみかじめ料によって膨大な資金を得ていた暴力団はこれにより弱体化、現在まで衰退の一途だ。また暴力団から足を洗ったとしても5年間は暴力団関係者として扱われる。反社会的勢力に所属していた経歴と5年以上の空白期間、それらの傷は日本の就職活動においては致命的だ。一度でも反社会的勢力に関われば社会に復帰することは難しい。そのハンデを背負う阿久良が出生したのは表社会に戻ろうとする血の滲むような本人の努力か、それとも裏社会で発揮していた暴力性を求められたのか。ゴースト出現後の中世期グループの態度を見れば、その答えは明白だ。


「天道組、中世期グループ代表の天道世正と何か関係ありますか?」


「組長が親父だった。だが、息子の奴は一度も関係していないことになっている。組員は全員5年前に辞めていて、組長は病死間際に解散届を出したとさ」


 5年。組員が足を洗って暴力団関係者とみなされなくなるまでの期間。


「嘘くせえ話だが、今のところ天道世正に怪しい点は見つけられていない。子供の頃から成績優秀で最終学歴は東京大学法学部、お前の同級生だな。それから海外の証券会社で働き、3年前に退職すると同時に中世期製薬を起業。今ではグループ会社を作るほどに成長した。経歴だけ見れば絵に書いたような順風満帆な経営者の人生だが、必ず何かがあるはずだ。そうでなければ、ゴーストに狙われることも俺の部下が死ぬこともない」


「同感です。ですが、資料に決算書が添付されていますが不正は見当たりません。つまり、資金源は他にある。警察に殺人の片棒を担がせるほどの賄賂もそこから出ているはず。推測ですが、違法行為により成立する事業が裏帳簿で管理されていると考えます。恐らくそれは薬に関するもの。中世期製薬の薬剤師が元々勤めていた中小企業は労働環境が劣悪なのでしょう。心身を疲弊している人間は倫理観を失いやすい」


 工藤は頷きながら、内心では腸が煮えくり返っていた。疲弊しているから何だ? 仕事が辛いなら転職するなり自殺するなり好きにすればいい。だが、部下を殺すなら覚悟をしてもらう。

 

「本人たちに直接確かめよう。目星はつけてある。夕方までに優秀なチームを作ってくれ。それまでは二人で動こう」

 

 捜査方針は決定した。後は雲霧が勝手な行動を起こさぬようぬ釘を刺すだけだ。


「それと冨嶽につかせたスナイパーは撤退させろ。奴の監視はうちの部下が引き継ぐ」


 顔色一つ変えずに昨日まで同僚だった者でさえも殺そうとする。それもこの男の一面だ。確かに冨嶽は命令違反を起こしている。今は警察に友好的なゴースト、六徳優を射殺しようとしていた。だが、六徳が敵に寝返るリスクは決して低くない。対策室内には彼を支持する者もいるだろう。それに雲霧は当のゴーストと古い知り合いのようだ。私情を挟んで身内を殺したと疑われては対策室が崩壊する。それだけは避けたい。


「承知しました。異論はありません」


 再び感情のない声。嘘か真か、今度は分からなかった。


 ――――――


 朝焼けに包まれながら右田は病室の窓をじっと眺めていた。雲ひとつない晴天。血の雨が降る夜は終わった。もう殺人者に怯えることはない。自分は生きて帰れた。だが、手放しで喜ぶことは出来ない。どうしようもなく胸騒ぎがする。銃創の熱を忘れるほど。

 真継豊。欠点が多く、それと同じくらい魅力に溢れる若者は自分より深手を負い、未だ手術中だ。変われるなら変わってやりたい。娘と同じくらいの若者が受けている苦痛を思うと、胸が締めつけられる。すると、病室の扉が叩かれた。必死に絞り出した声でどうぞというと、一人の女性が姿を現した。桜寺満。修羅場に駆けつけ、素手で窮地を救った警察官。その勇敢さが嘘のように表情は暗かった。


「真継君の手術は成功しました。でも、傷は深くて最後は本人次第だそうです」


「……そうか」


 肩の力を抜いて、一息つく。助かって本当に良かった。だが、地獄が終わったわけではない。自分は一晩で部下を3人死なせた。村瀬、桑内、九重。生きていればどれほど優秀な警察官になっただろう。その輝かしい未来を跡形もなく潰した。申し訳なかったの一言で済まされるような罪ではない。


「……私のせいだ」


 しばらくして出たのはそんな言葉だった。視界がぼやけて焦点が合わなくなる。そんな資格もない癖に瞳から涙が溢れた。両手で抑えても止めることが出来ない。どうしようもなく体が震えて、嗚咽が止まらなくなる。


「私の……、せいで……」


 自分の愚かさが嫌になる。素人の癖に何を分かった気になっていたのだろう。雲霧の言う通りにしていれば死ななかったかもしれない。自分の愚かさが彼らを殺した。彼らには両親がいるだろう。恋人や妻、子供がいても何ら不思議ではない。遺された者になんと詫びれば良いのか。どんな顔をして生きていけばいいのか。せめて共に死んでやることが出来たのなら、彼らに義理を通せていたかもしれない。


「それは違います」


 掴まれたように顔を見上げる。桜寺の言葉は力強かった。彼女の目には揺るぎない光が灯されている。右田は現場で過ごしてきた警察官だ。長年、数多くの被害者や容疑者と向かい合ってきた。人の目に現れるメッセージは読み取れる。右田は黒い瞳に深い苦悩と悲嘆を見た。


「落ち度はあったのかもしれません。しかし、貴方が殺したんじゃない。殺したのはあの男です。悪いのは殺人者です。貴方ではありません」


 それはただの同情心とは思えない、まるで自分に言い聞かせるかのような言葉だった。沈黙はしばらく続く。この先を話すべきかどうかを躊躇っているように見えた。しばらくの時間を経て彼女は話すべきだと判断した。


「かつて私は、少年院に入所した少年少女の更生を支援するNPO活動をしていました。身の毛もよだつような子たちですが、彼らは今の自分になりたくてなったんじゃない。挫折して、立ち上がれず、転がり落ちた。もう一度立ち上がりたいと心のどこかで思っているはず。私はそんな彼らに手を差し出したかった」


 否定的な言葉が脳裏に浮かんだが、右田は喉に押し込んだ。理想的な話だが現実はそう簡単ではないだろう。右田は少年犯罪者を逮捕したことがある。彼らの多くは反省していない。次はどうすれば捕まらないか、そう考えているのが透けて見えた。少年院の職員は優秀だが魔法使いではない。更生させるのは至難の業だろう。


「綺麗事だと思いました?」


「あっ、いや……」


 右田は思わず目を逸らす。気づかぬ内に顔に出ていたようだ。うら若き女性は中年男性の想像以上に目ざとい。


「いいんですよ。私もそう思いますから。実際、失敗の多い仕事です。私を非難する人が正しく思えますし、もう辞めてしまおうかと毎日思いました。でも、少しは成果はあったんですよ。自らの罪を心から認め、贖罪の気持ちを持って社会に復帰したいと言ってくれた子が何人かいます。彼らは自分と同じ境遇の仲間を救いたいと私の活動に協力してくれるとも言ってくれました。本人が努力した結果で私が誇ることではありませんが、仲間が増えて心強かった。私を偽善者と叫ぶ人たちにも分かってもらえるしれない。そう思った矢先、あの子達は全員斬り殺されました」


 三年前に起きた少年院襲撃事件。ゴーストがもたらした惨劇は右田もよく憶えている。仮にも国家の保護下にある人間をたった一人の人間が一振りの刀で大量に殺した。公には原因不明の火災とされているその事件は信じがったが、改めて現実だと思い知らされる。


「あの時、私は面会のため現場にいました。止めようとしましたが犯人に歯が立ちませんでした。それだけではありません。どこから嗅ぎつけたのか、職員の一人が殺されたんです。他の職員は無事でしたが、その日の内に退職しました」


「……なんてことだ」


 右田は言葉を失う。少年院の元受刑者を標的とするゴースト、夜な夜な辻斬りをしているとは聞いていたが暴力性は想像以上だった。


「私は自分を責めずにはいられなかった。自分の活動を公に発信していたからです。どんな時からでもやり直せる、私の手の届かない場所にいる子たちにそう伝えたかった。その結果、ゴーストの目に触れた。身の程をわきまえて目の前で罪と向き合う少年をただひたすらに助けていれば彼らを死なせずに済んだかもしれない。もしかしたら本当の私は彼らのことはどうでもよくて、正義を執行する自分を披露したかっただけでは? 自分が信じられなくなって、どうしようもなく嫌いになった。こんな事になるなら何もしなければ良かった。自分にしか出来ない事があると思い上がらず、せっかく手にした普通の人生を楽しめば良かった」


でも、と桜寺は


「それは私じゃない。過去を忘れて生きることはできません。私は知っている。卑劣な犯罪者だからと復讐しても誰も幸せになれない、だから生きて罪を償わせるべきだ。ゴーストにもそれを教えたい。その為に私は警察官としてここにいます」


 桜寺の静かな言葉に右田はただ圧倒されていた。ゴーストの暴力は凄まじい。大勢の命を奪い、社会の法を踏みにじり、人々の心を脅かした。ただそれでも彼女の精神を屈服させることはできなかった。自分もそうなれるのか? あの恐ろしい殺人者から守れたものが何かあるのか?


「右田さん、私と同じことをしろとは言いません。貴方の人生は貴方のものです。罪悪感や復讐心に囚われる必要はない。自らの心と向き合って、本当に望んでいることを考えてください」


 望むこと。そう言われて思い浮かんだのは妻と子供の顔だった。離婚届を突きつけられた時、彼女たちからこれ以上嫌われたくなくて言われるがままに判を押した。しかし、話したいことは山程あった。あの家族の元に帰ることが自分にとってどれほど幸福だったか。だからこそ、家に帰れなくなった被害者と残された遺族の無念を晴らしたくて何週間でも捜査を続けられた。


「……あっ」


 そういえば妻も子も最初はそんな自分の心配をしてくれていた気がする。その心遣いに自分は何か一つでも返せていただろうか。最後に妻へ愛していると伝えたのはいつか? 子どもとボール遊びをしたのはいつか? 与えられるだけで返さない者が愛想を尽かされるのは当然の報いだ。


「老人の扱いが上手いな、全く」


 自分が情けなくて恥ずかしい。若者に言われて過ちに気づくなんて。だから罵られてもいい。たとえ身勝手だとしても、もう一度話がしたい。それが出来なければ死んでも死にきれない。


「家族と連絡を取りたい。悪いが外してくれないか」


「それは良いことです。それでは私は失礼します」


 桜寺は微笑むと頭を下げ、モデルのような姿勢で扉を開く。その後姿に手を振り、右田は携帯電話を手に取った。


 ――

 ――――

 ――――――


 気が進まない仕事だ。雑居ビルの一室で、ポレヴィークはその言葉の代わりに深い溜め息をついた。ベルトにつけたワイヤーフックを確かめ、意識を切り替える。

 狙撃作業開始。手順1、ライフルの清掃。ポレヴィークは綿のついた細い棒を狙撃用ライフルの銃口に差し込んだ。銃身の汚れにより弾丸が狙いを外れて、タスクの処理に失敗するなどあってはならない。30秒ほど引き回して棒を引き抜き、横にいる観測手へ視線を送る。


「問題ありません」


「よし」

 

 手順1、完了。手順2、弾丸の装填。

 ポレヴィークはライフルに弾倉を差し込み、ボルトハンドルを押し込んで薬室に弾丸を装填する。かちりという金属音、これで射撃が可能になった。B級ハリウッド映画で好まれる派手な連射は行えない。だが、シンプルな構造故に壊れにくく射撃の精度は高い。ワンショット、ワンキル。プロの狙撃とは常にそうあるべきだ。


「問題ありません」


「よし」

 

 手順2、完了。手順3、照準の調整。

 ポレヴィークはライフル前面の二脚を立てて床へと置いた。自身もうつ伏せとなり、スコープを右目で覗き込む。片目は瞑らない。視野が狭い奴から死ぬ、それが戦場だ。事前に聞いていた標的の位置に銃口を向け、レンズの拡大率を調整すると病院の一室が鮮明に写し出された。中にいるのは若い女性と初老の男性。彼らは間もなく死ぬ。秒速1000メートルの弾丸が飛んでくるとは夢にも思わず。


「距離300、西南西。修正、1ミル左に」


 1ミル、角度の単位で1/1000度であり1メートルに対する1ミリのようなものだ。かつて天才が気づき、今では誰もが知っている通り地球は自転している。長距離狙撃を行う際はその影響を考慮しなければならない。北半球の日本で東から西に向けて射撃すると弾丸は右に偏る。観測手に言われた通りに照準を調整するのはそのためだ。


――気が進まない仕事

 

 そうやって先人の知恵を悪用して彼らの頭を吹き飛ばす準備を手順通りに淡々と進めるのは彼らが資本主義で堕落しているからではない。日露戦争で祖先を殺されたからでも、個人的な恨みがあるわけでもない。一人につき1500万円、計3000万円の成功報酬を受け取る為、それだけだ。イデオロギーで人を殺す確信犯とは違う。彼らが死ぬべき理由はあるとは考えておらず、これまで受けた不遇にかこつけて正当化する気もない。血を見て喜ぶ趣味もないので、彼女たちには本当に申し訳ないとは思っている。だが、これはビジネスだ。望まない仕事であろうと及第点のアウトプットをクライアントに提供するのが一流のビジネスマンだ。


「気温21度、湿度60%、風速4メートル、南南西から。修正、2ミル右に」


 この場には観測手の他に3人の部下が後ろで待機している。いずれも銃で武装した屈強な男達だ。だが、この部屋にいるのは軍人ではない。民間軍事会社イサパラトの従業員。着ているのは軍服ではなくリクルートスーツ。ジャケットの下に防弾装備や武器を隠していることを除けば普通の会社員と同じだ。満員電車で揺れている日本人の多くと同じく係長や主任の役割を与えられて仕事をしている。その中で代表取締役の役割を持つポレヴィークは本来であれば現場の仕事はしない。だが、命を脅かされた戦場で信頼を金で買うことには限界がある。昨晩は5人の部下が殺された。冷房の効いた社長室から次の指示を飛ばすのは得策ではない。どこにいるか何人いるか分からない敵より、確実に居場所を抑えられる一人の味方を殺すほうが簡単だと気づくからだ。不服ではあるが、彼らの機嫌を取るためにしばらく前線に立つ必要がある。


「調整完了」


 手順3、完了。手順4、射撃。

 という訳でいよいよ彼女たちには死んでもらう。まずは女からだ。あの鳴寺を正面から殴り飛ばした女、初撃で仕留められなければ逃げられる可能性は多いにある。元々は男のみを殺す予定だったが、女も居合わせていたのは幸運だった。ポレヴィークは深く息を吸い、吐くと同時に引き金にかけた指にゆっくりと力を込める。その時、女が不意に視界から消えた。スコープを凝視するが、その姿が再び現れることはない。去ったのか? だが、女神の微笑みを無視するつもりはない。そのための術はこの国でたくさん学んできた。例えばこうだ、『将を射んと欲すれば先ず馬を射よ』


「射撃開始」


 部下の応答を待たずに指先の力を強くする。炸裂音がけたたましく響き渡り、肩に殴られたような衝撃が走った。痛みを伴う耳鳴りと共に、鼻にこげくさい火薬の匂いがつく。だが、標的の身を思えば大したことはない。肩の肉が弾け飛び、血をどくどくと流す男の姿は遠目から見ても苦痛が想像できる。ポレヴィークはすかさず次弾を装填して、続けて左肩を撃ち抜いた。男は白いスーツを真っ赤に染めながらベッドから動かなくなる。


――将を射んと欲すれば先ず馬を射よ

 

 二発とも急所を外したのはわざとだ。肩を潰せば仰向けで寝ている人間は自力では起き上がれない。そうなれば女は助けようとするだろう。暗殺者にバイクで突進するような人間が目の前の仲間を見捨てるわけがない。案の定、再び窓に現れた女が男を急いで男に覆いかぶさった。抱きかかえて逃げる算段だろう。だが、それは叶わない。既にリロードを終えたポレヴィークは再び引き金を絞った。瞬間、女の体が射線から逸れて男の胸から血の噴水が上がる。真っ直ぐと伸ばされた腕、最後の力を振り絞って女を突き飛ばしたか。厄介なことをしてくれる。そろそろ撤退しなければ緊急手配から逃げられなくなる。後一発で撤退だ。こういう時こそ冷静にならなければ、ボルトレバーを引いて薬莢を排出、引き戻して弾丸を装填する。風向きは変わっていない。普段通りにすればタスクは終わる。息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、そして引き金にかけた指に意識を集中させる。


「エネミー3、拳銃を確認」


 エネミー3、新たな敵。観測手からの報告をポレヴィークは黙殺した。距離は300メートル、拳銃の有効射程ではない。豆鉄砲を恐れて1500万円を手放すのは馬鹿がすることだ。指にゆっくりと力を込める。瞬間、世界がひび割れて標的の姿が消えた。


「何だ?」


 疑問の答えはからからと音を立てて床に落ちる弾丸が示した。45口径の拳銃から放たれたであろう弾丸。ポレヴィークは背筋に冷水を流されたように震えがった。弾丸は300メートルの先にいる人を殺すことはおろか皮膚に痣をつけられるかどうかも怪しい。だから、エネミー3は狙撃手への反撃を諦めた。代わりに直径60cmのスコープのレンズを狙撃した。観測手もスコープも使わず。


「エネミー3発砲! 双眼鏡が故障!」


「……化け物め」


 ポレヴィークは顔を歪ませる。目を潰されて正確な狙いを定められなくなった。勘で狙撃して運良く成功したところで確認ができない。報酬のエビデンスを得られなければ撃ったところで損失だ。だが、もはや金額の問題ではない。化け物を敵に回した。殺さなければ全員殺される。生きるか死ぬか、可能性が低くとも賭けるしかない。ポレヴィークは引き金にかけた指に再び力を込めた。

 そして、轟音が響き渡る。銃声ではない。背後から爆発音。特殊部隊経験のあるポレヴィークにはそれが扉を蹴り破る音に聞こえた。


「コンタクト! ビハインド!!」


 手順4、中止。障害対応開始。

 叫びながら振り返る。すると一人の男が見えた。覆面をつけたスーツベストの青年、その手には一振りの日本刀。背後には胸や首から血を吹き出しながら崩れ落ちる3人の部下。


「幽誅」


 ポレヴィークは咄嗟に横へと転げ飛ぶ。直後、床材が爆発したかのように粉砕されて破片が飛び散った。刀を振るっただけとは思えない威力、判断が僅かにでも遅れていれば即死だった。


「……こんなところで侍と会えるなんてな」


 気を抜けば喉から漏れそうになる叫び声を抑えて、ポレヴィークは笑う。恐怖は武器にならない。死が近づいた瞬間こそ切り捨てるべきだ。ゆっくりと呼吸を整え、全身の筋肉をほぐす。システマ、脱力により身体能力を最大限引き出す格闘技術はライフルよりも信頼できる武器だ。


「君は逃げろ。若者を死なせるわけにはいかない」


「あ、ありがとうございます!」


 その言葉に観測手は小刻みに頷き脱兎の如く出口へと駆け出した。青年の視線が僅かに逸れる。その一瞬をポレヴィークは見逃さない。ナイフを抜いて青年へと斬りかかる。狙いは首筋、振りかぶると同時に銀の光が瞬いた。


「誰も逃さない、全員殺す」


 刃の激突は鼓膜を突き破りそうな金属音を鳴らした。骨が軋み、ナイフにひびが入る。凄まじい剣圧、故に勝機あり。ポレヴィークはナイフを横に引いて刀をあらぬ方向に飛ばした。絶大な威力を誇る斬撃は止まらずに空を薙ぐ。押してだめなら引いてみろ。日本一の侍だろうが、振り切った直後は隙が生まれる。ポレヴィークは喉へ刺突を放つつもりだった。だが、全身に寒気が走る。たまらず下がると同時、青年の返す刀が目の前の空気を爆ぜた。信じられない、あれほどの斬撃からの燕返しが放てるとは。そう思うも束の間、新たな斬撃がポレヴィークの首を狙う。すかさずナイフで受け流す。だが、続く4撃目がナイフを側面から叩き割った。井の中の蛙、大海を知らず。ポレヴィークは己の愚かさを嘆いた。敗因はただ一つ、目の前にいるのが自分と同じ人間だと勘違いしたことだ。


「ま、待て! 助けてくれ!!」


 情けなく叫んだところで意味はない。刃が止まらずポレヴィークの体を真っ二つにしようと迫る。慌てて後ろに飛ぶ。苦し紛れの回避、続く6撃目がポレヴィークの胸を捉えた。


「痛ってえ! クソ!」


 そのまま胸を斜めに裂かれる。燃えるような激痛。斬られる瞬間に体を回転させてダメージを軽減させるのが精一杯。だが、それを気にする余裕はない。窓から飛び出したポレヴィークは為すすべもなく地表への自由落下を始めた。

 

 ――


 許さない。

 神代は床に置かれたスナイパーライフルを踏みつける。鉄が潰れる断末魔と共にスコープのレンズが割れてガラスの悲鳴を上げた。だが、神代の耳には届かない。彼は足音に集中していた。部屋を飛び出し、廊下を駆け抜ける男。彼は無防備な女性を殺そうとした。その癖に自分が狙われた途端に尻尾を巻いて逃げようとしている。絶対に許さない。


「逃がさねえよ――」

 

 後を追わずに神代はその場で膝を低く沈めた。左手に刀を持ち替え、呼吸を深くする。30秒で全身を一周する血流に乗せられて酸素が筋肉に行き渡った。そうして収縮する筋繊維の一つ一つを意識に取り込み、最適化していく。刀はただ力任せに振れば良いわけではない。繊細な技術と屈強な精神によって力は武となる。

 神代は刀を真っ直ぐ構え、左腕を半身引くと右手を切っ先に添えた。狙いは足音、その一歩先。

  

「――卑怯者!」


 災禍伝、貫穿の雪。


 刹那、神代が跳躍した。抉られた床材を背に、たった一歩で部屋を横断した神代は刀を壁に叩きつける。山で荒れ狂う吹雪のような刺突はコンクリートの壁を粉砕した。クモの巣状の亀裂に沿って無数の破片となって崩れ落ちる。その奥にいた傭兵は振り返ると同時に首を刺された。彼は大きく目を見開き、血を吐いて動かなくなる。


「幽誅」


 刀を引き抜くと傭兵は糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。強者は弱者を踏みにじって良い。獣の論理で罪を犯した者はその生き様を最期まで貫き通してもらう。部屋に戻り倒れている傭兵を軽く蹴って生死を確認する。全員即死だった。続いて窓から地面を見下ろす。狙撃手がそこで死んでいるはずだった。しかし、見渡す限りどこにもいない。足元にあるワイヤーに気づいたのはその時だった。


「クソっ!」


 失態だ。窓から逃げる策を事前に用意していたのだろう。斬りかかってきたのは返り討ちにされて斬られ、自然に窓から落ちるため。部下を最初に逃がしたのも囮として窓から視線を逸らす為。金に目が眩んだ傭兵の一人だと甘く見た。仲間の命を平然と逃走の道具に使う、人の命を何とも思っていない危険な男だ。そんな男が桜寺を殺そうとしている。逃がすわけにはいかない。このビル内で必ず殺す。先ほど自分が開けた壁の穴に目を向けた瞬間、爆発と共に炎の渦が神代へと襲いかかった。


 ――


 300メートル先の爆発を見て、雲霧は拳銃をキャビネットの上に置いた。叩き割られた窓ガラスの枠はみしみしと揺れ、仄かな熱が頬を撫でる。彼は構わず病室のベッドへと駆け寄った。


「ぐも……ぎり……」


 血を拭きながら濁った声を出す右田はもう助からない。三発の銃創があり、そのうちの一つが動脈と膵臓を潰している。救命処置をしても彼の苦しみを増やすだけだ。


「右田さん、そんな……」


 桜寺もそれを分かっているのか、ただ涙を流している。彼女は理想主義者だが現実が見えていないわけではない。現実、目の前で死のうとしている仲間を助けられない無慈悲な現実。雲霧は視線を僅かに落とし、グローブの覆われた手をきつく握りしめた。


「すま……ない……」


 雲霧はグローブを外し、彼の手を握りしめた。締め付けられるような痛みは顔には出さない。


「謝られるようなことはされていません。貴方は死の恐怖に抗い、私の同僚を守るために戦ってくれた。私はその選択を尊敬します」


 握りしめた手に僅かな力が返ってくる。右田の口が僅かに動いた。同時に瞳孔が大きく開く。彼が最期に伝えたかったことはもう誰にも分からない。自分の言葉が僅かにでも慰めになっていることを願うばかりだ。一息を吐くと桜寺の手がゆっくりと肩に乗せられる。


「雲霧、右田さんを許してくれてありがとう」


「……そもそも私が恨む筋合いはありません」


 工藤は彼に憤りを覚えていた。彼の心中は理解できる。だが、右田に殺意があったわけではない。裁かれるべきは犯罪者だ。刺客に狙撃手、それらを遣わせたであろう天道世正。愚かな選択には相応の制裁を下す。


「ゆっくりお休みください、右田さん」


 雲霧は右田の手を置くと、彼の瞳を閉ざした。彼はどこへ行っただろうか。カトリック教では煉獄か地獄に落ちるかもしれない。しかし、浄土真宗では極楽に行けるだろう。開祖の親鸞は自らの力で正しい道に進めない者こそ救われるべきだと説いた。全能の神が右田を悪人だと裁いても、慈悲の仏に救われてほしい。雲霧は何も言わずに静かに両手を合わせた。

 

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