第7話 衝突

 道を歩けば、曲がり角がある。その先に何があるかは曲がるまで分からない。人生とはそういうものだ。数年前、交通機動隊員だった冨嶽武は支給された拳銃を業務を妨げる重りとしか思っていなかった。服務中に撃ったことは一度もない。そんな平凡な警察官としての人生は二度とない。


ーー道を歩けば


 薄暗い車内の中で冨嶽が手に取ったのは散弾銃。その名の通り、複数に分裂して放つ弾丸は近距離で高い殺傷能力を発揮する。全長1メートル、4kgの銃はただの重りではない。それはれっきとした凶器だ。今夜、人を殺すための。


ーー曲がり角がある。


 昭和の遺物かと思うようなアパートを眼前に車から降りた冨嶽は、まず最初にぐったりと倒れている男を見つけた。覆面をした黒尽くめ。両手に手錠をかけられ、胸には「公務執行妨害」と丸文字で書かれたメモ用紙が貼られている。葛城の被害者だ。犯罪者はきっと勘違いをしたのだろう。若く、華奢な女性なら暴力で好き勝手できると誤解したのだろう。だが、相手は悪すぎた。葛城は頭の回転が早く、それ故に行動にためらいがない。それ故に素早さが人並み外れている。腕っぷしが強いだけのチンピラでは相手にならない。この様子を見る限り特殊警棒で叩きのめされたのだろう。愚かで哀れな男を脇に冨嶽はアパートへと入る。小悪党は後回しだ。今はそれよりも優先すべき標的がいる。富嶽は錆だらけの階段を急ぎ足で駆け上がった。


ーー曲がり角。


 ゴースト。かつては人であった、人ならざる者。富嶽の担当は追跡と監視。戦闘に加わったことはない。それは雲霧を主任とした急襲班の担当だ。だが、雲霧がゴーストを庇っている現状では直属の部下も動かないだろう。故に彼らを説得をする材料が欲しかったが、もはやその必要はなくなった。葛城の報告ではゴーストは刃物で刺されて重傷を負っている。自分一人でゴーストを葬れる千載一遇の好機だ。絶対に逃せない。

 

ーーその先に何があるかは曲がるまで分からない。


 迷いがないといえば嘘になる。たとえ相手がゴーストとはいえ、自分がこれから行うのは殺人だ。その十字架を死ぬまで背負うことになるだろう。平凡な日常で起きることに喜んだり悲しんだりする人生には二度と戻れない。それに相手が誰であろうと、人を殺せば必ず報いを受ける。それは雲霧の復讐かもしれないし、良心の呵責かもしれない。他人からも自分からも許されなくなる。


……この、馬鹿野郎が!


 だが、どうでもいい。人生は既に破壊されている。ゴーストによって、忌むべき人殺しによって。守るべきものは何もない。帰る場所はどこにもない。天職も家族も大切なものは全て失った。今の自分が死んで悲しむ者はこの世にもあの世にもいない。


……ごめん、兄ちゃん。


「ゴースト!」


 鍵の開いた一室の前に着くと、一気に室内へと踏み込む。もはや後先など考えない。刺し違える覚悟は出来ている。短い廊下を駆け、半開きになった扉を蹴り破ってリビングに突入した。硝煙の匂いが鼻につく部屋。血や破片が散乱したフローリングには三人の男が倒れていた。その内の一人に女が屈み込んでいる。葛城だ。華奢な手にガーゼを持ち、傷口の止血をしている。手当をされている男は見た顔だ。間違いない。六徳優、ゴーストに覚醒した男、標的。息は絶え絶えで苦しそうに喘いでいる。殺すなら今しかない。銃口を汗まみれの額に向け、引き金に指をかける。だが、撃てない。底知れない闇が広がっているような銃口と葛城の青い瞳がこちらを睨みつけているからだ。両手で手当を行っていたはずの彼女はいつの間にか右手に拳銃を握りしめている。


「何のつもりだ、葛城」


「それはこちらのお言葉です、富嶽警部補。彼は……」


「黙れ!」


 冨嶽は葛城の話を強引に遮った。キャリア組の長い説教話を聞いている余裕はない。その間にもゴーストの傷はいえ、千載一遇の好機が遠のいていく。


「いいか、よく聞け。お前も知っているはずだ! ゴーストがどれだけ人を殺してきたか!少年院の元受刑者は夜が来るたびに斬られ、交通刑務所の受刑者は服役中に内蔵を潰された。挙げ句の果てには、その被害者遺族のほとんどが失踪した。おそらくは殺されているだろう。確認が取れたものだけでもこの様だ。どうせ奴らは他でも人を殺している。闇の政府が人工地震を起こしているなんて御伽話をしてるんじゃない。今! この瞬間! 現実に起きていることだ!

 その上ではっきり言わせてもらう。六徳優は陰謀論の被害者ではない。正真正銘のゴーストだ。俺達が殺すべき標的だ」


「標的。その言葉は立徳巡査の名称として不適切です。確かにゴーストの性質上、逮捕が極めて困難である為にやむを得ず殺害することはあります。しかし私達は警察官、法執行機関の人間です。捜査対象とした人間は被疑者と呼ぶべきでしょう。その上で六徳巡査は被疑者ではありません。現時点で彼が犯罪に関わったという疑いはないのですから。貴方が例にあげたゴーストとは異なります。他のゴーストがどんな犯罪を起こそうと、彼には関係がないことです。日本人が罪を犯したからと、国民全員が逮捕されるわけではないでしょう。どちらかといえば貴方が被疑者です。容疑は特別公務員職権濫用、特別公務員暴行陵虐。雲霧警部のように超法規的措置が必要となる対応とは思えません」


 葛城はアナウンサーのような口調で眉一つ動かさない。北欧人の血によって作られた青い瞳から真っ直ぐな視線が注がれる。退く気はないようだ。彼女から先に撃つべきか? 胸によぎったその恐ろしい考えを冨嶽は慌てて振り切った。彼女はゴーストではない。死の危険を分かち合える同僚だ。考えが違うからと殺すのはもはや人ではない。


「お前は正しい。それは認める。だが、現実では通用しない。今が彼を殺す最後の機会かもしれないんだぞ。SATにいた時はほぼ全ての作戦を成功させた雲霧でさえ、ゴーストは誰一人殺せていない。彼らには再生能力があり、超能力があるからだ。どれだけ追い詰めても、一度逃したらその全てが水の泡となる。そこの若者はゴーストに覚醒したばかりだ。傷の痛みに慣れていないし、超能力も把握していないだろう。今だ。今、ここでしか殺せない。甘い情けをかけて、取り返しのつかないことになったらどう責任を取るつもりだ」


 傷はまだ癒えていないか? 葛城に隠れてそれすら分からない。


「私達には彼を殺す責任も権利もありません。罪を犯すかもしれない。 その程度の根拠では手錠をかけることすら許されません。そもそも貴方は殺害の必要性を確信できるほど立徳巡査の経歴や人物像を把握されているのですか? ゴーストである事実を覗いて」


「知った事か! ゴーストは殺さなきゃいけねえんだよ! 化け物の生態なんざ知ったことか!」


「六徳優。彼には名前があります。ゴースト、化け物、どちらも彼一人を示す言葉として相応しくありません。その上、侮辱にあたるでしょう。ちなみに私は初対面で親しい間柄でもないので、名字に階級をつけて呼びます。

 立徳巡査。私が見る限りでは彼は死ぬべき人間とは思えません。あなたは知っていますか? 私が突入した時、巡査は強盗に刺されていました。彼の顔は青白く、体は小刻みに震え、足元には大量の血液。耐え難い激痛と喪失感が容易に想像できる状態でした。しかし、彼は倒れた方の強盗を見つめていました。涙を流しながら、父や母が怪我をした私を見るのと同じ目で。状況から察するに男を倒したのは立徳巡査。咄嗟に反撃をし、想像以上のダメージを与えたのでしょう。彼はその事を心配していた。私が強盗を制圧した時も、自分の手当よりも彼の手当を優先しようとしてました。愚かな人とは思います。ですが、罪ではありません。ゴーストだからというだけで貴方が危害を加えるのであれば私は命を懸けて守ります。かつて貴方が幼子を守って顔の傷を負った時のように」


 照準がぶれた。顔の傷を負った時。あの頃は生きていることが楽しかった。もちろん怪我やそれに伴う療養は泣くほど辛かったが、深々と頭を下げる子どもの親を見たら何度でも味わってもいいと思えた。もし制服の堅苦しさと向かい風の心地よさを感じていたあの日々に戻れるなら。そんな馬鹿みたいな夢想を何度繰り返したか分からない。

 

「……黙れ。俺は、もう……」

 

「富嶽警部補。貴方は立徳巡査をよく見るべきです。彼は貴方のご家族を殺害したゴーストではありません」


 その瞬間、視界が揺らぐ。炎を飲み込んだかのような衝撃が胸に広がっていく。淡々と告げられる反論の中でも、最後の一言は冨嶽にとって古傷を抉られるようなものだった。一度触れられれば冷静ではいられない。記憶の断片が破れたかさぶたから出血するように一気に吹き出した。


……ごめん、兄ちゃん。

……お前はもう弟じゃねえ、この犯罪者が!


 忘れられない、忘れようとも思えない記憶。思い出す度に胸が苦しく、息の仕方が分からなくなる。集中は乱され、銃を持つ手が触れる。照準は狂い、そもそも目視することすら出来なくなっていた。瞬間、鋭い痛みが手の甲に走った。意識が現実に引き戻される。見えたのは、華奢な手に握られた警棒。不覚に気づくも時すでに遅し。赤く腫れた手からは力が抜け、散弾銃は床へとはたき落とされている。


「葛城……ッ!」


 やられた。狙ったわけではないだろうが、結果として致命的な隙が生まれた。予備の拳銃に手をかけようとするも、再び銃口を向けられて叶わない。


「富嶽警部補、お願いがあります。10秒以内にご自身の手錠を貴方の両手首にかけてください。さもなければ射撃します。防弾チョッキを狙いますが、痛みもありますし怪我もするでしょう。狙いが外れて急所に当たるかもしれません。そうならないように抵抗はしないでください」


 もはやゴーストを殺すどころではない。従わなければ、葛城は本当に撃ってくるだろう。割れるかと思うほど奥歯を噛み締めながら、手錠を掴む。恐らく不意打ちは通じない。無駄な抵抗は彼女に引き金を引く理由を与えるだけだ。いくら考えても従う以外の選択肢がない。だが、屈辱的な要求を呑む必要はなかった。荒い息遣いと引きずるような足音が葛城のカウントダウンを止める。


「なに……? なんなの……?」


 初老の女性だった。痩身に年相応の控えめな服装、どことなく見覚えのある顔立ち。血なまぐさい事件現場に女性はおろおろと足を震わせていた。だが、不安げに揺れていた瞳はゴーストを見ると色が変わった。


「優!」


 女性は倒れ込むようにゴーストの元へと駆け寄った。進路上にいた葛城は何も言わず道を開ける。いつの間にか、その手からは拳銃と警棒が消えていた。目線は女性に釘付けとなり、自分のことは見えていない。再び訪れた千載一遇の好機。床にある散弾銃は近くにあるし、予備の拳銃はいつでも引き抜ける。だが、冨嶽は何もしなかった。両手をぶら下げたまま、葛城と同じように女性を見ていた。

 あどけなさが残る若者の手を握りしめ、涙を流す姿を見れば彼女が誰かなど警察官でなくとも分かる。


 「どうして? 誰が、こんなことを?」


……いくら馬鹿でも、あの子は死んでいい理由なんかない!


 母親だ。自分の覚悟に従うのであれば、たとえ彼女の前でもゴーストを殺すべきだ。ゴーストも元は人間だ。当然、父と母はいるだろう。彼らにとって自分は家族を奪う悪魔だ。そんなことは百も承知。泥を被る覚悟は元々出来ている。そのつもりだった。


――貴方は立徳巡査をよく見るべきです。


 だが、その全ては無駄だった。頭の中で固めた覚悟は現実には通用しなかった。


……兄ちゃん!

……優!


 女性に対し状況を事細かに説明する葛城を余所に、富嶽は徐々に回復する若者をただ見つめていた。冨嶽は目を背け、壁に背を預けて倒れ込む。誰が人を殺したいと思うものか。それも母親の目の前でなど。冨嶽はきつく目を閉じて、湧き上がる涙を必死に抑えた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 鳴寺華糸。聞けば誰もが日本人と分かるその名前は、不仲な両親に与えられたものではない。大陸の裏社会を戦慄させた元の名はもう覚えていなかった。誰にも知られたくない過去を思い出す必要がどこにある? 過去は時に流され、人々から忘れ去れ、世界から消えた。誰にも知られなければ誰にも傷つけられない。その平和を脅かすものは誰であろうと殺す。


「消えろ」


 警察。そう叫んだ彼が持っているのはドイツ製の自動拳銃。それが支給されており、盗聴盗撮を仕掛けてくるような部署はただ一つ。

 公安。聞くまで正体がまるで掴めなかった。恐らくは表には出て来ない少数精鋭の特命部隊。何故彼らに目をつけられたかは分からないが、これ以上嗅ぎ回られるのは厄介だ。出来れば彼らから仲間の情報を引き出したい。だが、増援は間もなく来るだろう。聞き出すどころか連れ去る余裕もない。それに彼らは自分を睨みつけてきた。いつ自分に殴りかかるか分からない。いつだってそうだ。誰も自分が生きていることを望んでいない。生まれた時からそうだった。生き抜く方法はただ一つ、殺される前に殺す。

 照準を男の額に合わせた瞬間、アスファルトがタイヤを切りつける音が轟々と響き渡った。見れば眩い光が目をついた。徐々にくっきりとする視界に見えたのは一台のバイク、フルフェイスにライダスーツ。運悪く居合わせた一般人ではない。バイクは一切減速せずにこちらへと向かってくる。獲物を見つけた猛獣のように。


――殺される前に殺す

 

 標的が意識から消える。勝負は一瞬。外せば、時速100kmを超える鉄塊に真正面から激突されることになる。だが、殺せば済む話だ。死体は何もしてこない。川に突き落とすことも、包丁を向けてくることもない。照準を合わせ、引き金を三度引く。放たれた弾丸は正確無比に搭乗者の胸元へと飛び込む。刹那、金切り声を上がった。バイクが急に止まったかと思えば、搭乗者の体が宙へと投げ出される。


「は?」


 急ブレーキによるバイクからの離脱。確かに弾丸は躱せる。だが、明らかな自殺行為だ。慣性の力でコンクリートに叩きつけられば即死だろう。何故そんなことを? その僅かな混乱が命取りとなった。空を飛ぶ刺客は体操選手のようにくるりと回り、左足を曲げて右足を突き出した。

 予想外の攻撃。反撃はおろか回避する余裕さえない。鳴寺はすかさず両手で防御したが、時速100kmの衝撃は想像以上だった。意思とは無関係に足が宙に浮く。慌てて銃とナイフを抱え込んだ。受け身を少しでも間違えれば自滅する。冷たく硬いコンクリートに叩きつけられながら、首を打たぬように衝撃を背で受けて何度も転がる。止まったのは柱に衝突してからだった。背中で受けたが、鈍い痛みがじわじわと上がってくる。


「安心して、殺しはしないわ」


 顔をしかめて見れば、刺客は鮮やかに着地していた。すらりと突き抜けた長身にスーツ越しでも分かる豊かな双丘。明らかに女のシルエット。それもまた意外。だが、その事実はどうでもいい。彼女は自分を睨んでいる。要するに敵だ。

  

「ただし泣いて謝るまで殴るのを辞めない」


 体中が痛むが、距離は作れた。立ち上がると同時に、照準を胸へと合わせる。およそ8メートル。遮蔽物はない。今度こそ蜂の巣に変えてやる。


「死ね」


 弾丸を放ったが、女は退かなかった。一直線に間合いを詰めてくる。ただし、頭を異様に低めて。地面にキスをしているかのようだ。弾丸の下を掻い潜って、人とは思えない速度で近づいてくる。怖い。銃口を下に向けたが、途端に手首が跳ね上がった。空気を震わせるアッパーに拳銃をもぎ取られる。見えたのは破片を撒き散らしながら遠のいていく武器、天に突き出された拳、フルフェイスの奥でこちらをまっすぐ見つめる女の瞳。そして、体の後ろで握りしめられた拳。

 まずい。咄嗟に横へ大きく飛んだ。激しい破裂音と共にその背に大量の礫が飛んできて、その一つに足を滑らせる。転んだらどうなるかなど考えたくもない。よろめく体を近くの車へと叩きつけて支えると、即座に振り返る。けたたましく鳴る車のアラートやクモの巣状に広がった柱のひび割れに意識を向ける余裕はない。女は既に目の前にいる。足を後ろに振りかぶって。放たれたローキックに横に飛んでかわす。だが、それは陽動だ。本命は左フック。半身を引いて紙一重で躱すと同時にナイフを振るう。狙いは首筋。鋭い刃は柔和な皮膚へと容赦なく食い込んだ。いくら体を鍛えようと、首の血管が強くなるわけではない。このままV字にナイフを走らせれば命を断てる。ライフルで撃たれたような衝撃が腹から全身に生まれ、激痛となって脳を揺らさなければの話だが。


(嘘だろ)

 

 力のほとんどを奪われ、動かなくなるナイフ。血を唇からこぼしながら、鳴寺は戦慄した。何が起きたかは分かっている。急所を狙った一撃。普通ならナイフを止めようとする。だが、この女は違う。むしろその場に強く踏み込み、全身全霊の右ストレートを叩きつけてきた。確かに理論上では最速の反撃だ。だがしかし、迫り来る刃を意識せずにいられるのか。そうとしか思えない威力。こんな危険な戦い方を警察学校で教えるはずがない。数多の死線をくぐり抜けてきた結果だろう。視線を感じて顔を上げると目があった。黒く澄んだ瞳には一切の恐怖は見えず、真っすぐとこちらと見据えている。


 ―――――


(嘘でしょ)


 命がけのカウンターだった。桜寺は固唾を呑む。死に急いでいるわけではなかった。普段であれば回避を選ぶ。だが、今は後ろで二人の刑事が血を流し続けている。一刻も早く止血しなければ救急隊員が来ても助からない。その為には刺客を無力化し、応急手当を行う必要がある。故に最速のカウンターで仕留めるつもりだった。しかし、男の体は岩のように頑強でびくともしない。腕が伸ばせない。黒く濁った瞳は恐怖に揺れながら、こっちをまっすぐと見据えている。刺客の力を見誤っていた。首元にはナイフ。首筋に痛みが走り、流れた血がひんやりとする。


「いってえな!」

 

 瞬間、ナイフとは反対方向に上体を真横へと倒した。標的を失った凶刃が空を薙ぐ。すかさず右足を振り上げる。狙いは三半規管。だが、返しのナイフが間に入った。このままでは斬られる。しかし、桜寺はかまわず蹴りを叩き込んだ。骨に響き渡る激痛。だが、致命傷にはならない。ケプラー製のライダースーツが裂傷を防いだからだ。歯を食いしばって足を振り切る。ナイフは弾き飛ばされて、からからと遠くへ飛ぶ。これで丸裸。次の一撃で決着をつける。体勢を整えようと着地した途端、激しい衝撃が全身に走った。刺客が肩をぶつけるように突進してきたのだ。威力は凄まじく不安定な体制は容赦なく弾き飛ばされて桜寺の体は宙を舞う。鉄山靠、八極拳の技だ。カウンターを受けても微動だにしないほどの踏み込みは震脚か。だが、今更わかっても遅い。受け身をとって前を見ればその姿は小さくなっていた。その手には銃を持っている。恐らく刑事たちが持っていたものだろう。


「待て!」


 距離が開きすぎた。撃たれずに間合いを詰めるのは無理だ。近くの車や柱に身を隠すことはできるが、それでは手当ができない。桜寺は一息つく。どうやら覚悟を決めるしかないようだ。体を低くしずめ、心臓を腕で守りながら駆け出す。直後に鳴り響く銃声。歯を食いしばる桜寺だったが、痛みが走ることはなかった。


「桜寺を援護しろ! 奴に撃たせるな!!」


 男の怒号と共に銃弾の嵐が刺客へと降り注ぐ。桜寺は進路を直角に捻じ曲げて力の柱に身を隠した。背後を見ればライフルと装甲服で完全武装した黒尽くめの集団。雲霧直属の部下が到着したようだ。犯人を生かす気のない彼らのやり方に思うことはあるが、危機は排除できる。そう思ったのもつかの間、桜寺は信じられないものを見た。


「……嘘でしょ」


 刺客は振り返らないまま銃を撃ちながら、弾幕を鮮やかに交わして非常階段へと飛び込んだ。雲霧の部下は軍人と遜色がないレベルで鍛え上げられている。その集団射撃を容易に躱すとはただものではない。だが、驚いている暇はない。当初の目標通り刺客を退けることは達成した。桜寺は駆け足で二人の刑事へと向かう。


 ――――――


 黒いスキーマスクで顔を完全に覆い隠した男はその上からレインコートのフードを目深に被った。

 絶対に顔を見られてはいけない。そんな彼が暗い瞳で見上げたのは、三階建てのオフィスビル。名の知れていない企業が借りていそうな建物には色並署管轄証人保護施設という名前がある。通称、隠れ家。この施設に連れてこられた証人はさぞかし自分の身が不安になることだろう。この国の警察官には危機感がない。証人保護なんて形ばかりで、本物の脅威を理解できていない。

 だが、それは杞憂だ。限られた予算の都合、外観や設備に無駄なコストをかけていないだけだ。中にいても分からないが、この建物には監視カメラ、赤外線センサ、重力センサが張り巡らされている。知恵を捻ってどれか一つを潜り抜けても必ず補足される。その情報は常駐の警察官へと直ちに伝えられる。数は十。いずれも銃を常に携帯し、いざという時に引き金を引ける者達だ。とはいっても彼らは侵入者を排除する必要はない。10分も耐えれば、完全武装の機動隊が外側から侵入者を追い詰める。つまり標的排除のタイムリミットは10分だ。

 男は何も持たないまま入り口まで歩く。そして足を振り上げ、靴底をドアに叩きつけた。騒々しい音を立てて、ガラスが粉々に砕け散る。そうして建物に突入するなり、二人の警察官と鉢合わせた。彼らの選択は速かった。男の姿を見て、警官達は一斉に拳銃を抜く。その動作は遅かった。銃口を向けられた瞬間に男は手首を蹴り飛ばす。銃口が逸れて、銃弾があらぬ方向、同僚の肩へと飛ぶ。舞い上がる血に目を見開く警察官。その喉にすかさず貫手を差し、意識と拳銃を奪い取る。スイス製の自動拳銃で装弾数は八発、残りは七発。男は肩から血を流す警察官に照準を合わせて引き金を絞った。狙いは右膝。関節を的確に破壊され、うめき声を上げて悶える警察官。足元に転がった拳銃を蹴り飛ばし、男は何も無かったかのように建物内へと進み始める。


「銃を捨てろ!」


 階段の踊り場から聞こえた声に向けて即座に発砲する。弾丸は警告者の右肘を撃ち抜いた。悲鳴が上がり、隣にいた警察官は即座に物陰に隠れる。彼を警戒する必要はない。銃の向きを変えて4発撃つ。一階の物陰から飛び出した二人の警察官の右膝と右肘に。警察官たちは一発も撃てずに崩れ落ちる。そして、狙いを元に戻して再び引き金を絞る。

 遮蔽物から姿を表した警察官の手首から血が噴き出し、拳銃がもぎ取られて宙を舞った。男は弾切れとなった拳銃を放り捨て、踊り場から飛んできた拳銃を掴み取る。


「茨木から本部へ! 隠れ家が襲撃されている! 大至急、応援をーーー」


「石妖さん! 避難しますからここを開けてください!」


 頭上から聞こえてくる怒声。叫んだところで警察車両が加速するわけではない。残り8分37秒、余裕はある。歩いて二階へ登ろうとすると血まみれの手に足首を掴まれた。下を見れば警察官が痛みに耐えながら、力を振り絞っている。素晴らしい選択だ。足を振り上げて払いのけ、そのまま顎を蹴る。鳴り響く鈍い音。サッカーボールのように跳ねあげられ、階段から落ちていく。男はその体を掴み、腰回りのホルダーから弾倉を一つ奪うと踊り場へと寝かせる。殺すつもりはなかった。コラテラルダメージ、標的以外への副次的被害は最小限で済ませるべきであり、命を奪うことがあってはならない。二階に人は見えなかった。見向きもせずに三階へ上がると、微かな音が聞こえてきた。曲がり角の先から荒い息遣い。数は四。まだ動ける者達が防御態勢を整えたのだろう。賢明な選択だ。だが、意味はない。男は床を蹴り飛ばして、廊下へと飛び出した。警察官は即座に反応する。複数の発砲音と共に弾丸が体を掠めた。それを無視して通りすがりに二発。ろくに狙いの定まっていないはずの弾丸は二人の肘を貫き、射撃能力を奪った。突き当りに肩を激突させ、残りの二人へと狙いを合わせる。その時、警察官が肘から血を流しながら、警察官が突進してきた。


「援護しろ! 俺ごと撃て!!」

 

 己を犠牲にしても職務を全うする。素晴らしい選択だ。死なせるわけにはいかない。

 ――コラテラルダメージは最小限で済ませる。

 男は天井に照準に向けて二度引き金を引いた。放たれた銃弾は照明を割って方向を変えると、それぞれ二人の警察官の手首へとそれぞれ食らいついた。猪突猛進の構えを見せた警察官は背後からの悲鳴と暗転した視界に動きを止める。瞬間、その左腕を掴みくるりと回す。大柄な体は紙吹雪のようにふわりと浮いて地面に叩きつけられて動かなくなった。


「この銃には弾丸は4発残っている。この銃を空にするか、仲間と共に下で救急車を待つか。好きな方を選ぶと良い」


 たとえ警察官達が抵抗しようと撃つ気は無かったが、彼らはそう思わなかった。震えながら仲間に肩を貸してこの場を後にする。残り3分28秒、予想より手強かった。警察官達が扉を守ろうとしたその先には人はいない。柑橘系の甘い香りが微かにするのみ。襲撃を予測して逃げたのか? 疑問の答えを探して扉を蹴り破る。瞬間、激しい炎と衝撃をうけて男に襲いかかる。右手はもぎとられ、床から足を離した体は背窓を突き破って外へと放り出された。甘い香りの正体はニトログリセリン。まさかブービートラップを仕掛けてくるとは夢にも思わなかった。男は地面に着地すると、何事も無かったのかのように歩き出した。

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愚者が池に落とした石 @huguazarashi

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