第6話 暴力
警察学校を卒業してから都内の実家に帰省するのは今朝が初めてだった。
避けていたわけではない。ただ時間が無かった。六徳の時間は警察官の仕事、肉体の鍛錬、昇給資格の勉強でほぼ埋まる。非番の日は警察官の仕事の代わりに炊事や洗濯、掃除をまとめて行う。理想の警察官になるという夢。追いかけるためには自分の私生活を犠牲にしても仕方ないと思っていた。だが、それは誤りだった。平和に生きていると勘違いしそうになる。人は急に死なない。朝に目が覚ませば、今日の夜には必ず眠りにつける。だが、命潰えた瞬間にそれは幻想だと気付いた。冷たくて暗い、水の底に沈んでいくような死の感覚。
恐怖より先に覚えたのは後悔だった。最後に母と交わした言葉は何だろう。伝えたいことはまだ言葉に出来ていない。背中を追いかけた父親を失う悲しみは消えなかったが、貴方のような母が隣にいて息子は幸せだったと。せめてもう一度会いたかった。今朝が最後のやり取りになったかもしれない。そう思うと無性に寂しさを覚えた。
錆びついた階段を2階分登る。こつこつと鉄が軋む音を聞くと、子供のころの記憶が堰を切ったように溢れ出す。どんなに嫌なことがあっても、この瞬間に心が軽くなった。実家に近づくと鉄壁に囲われているような安心感を覚えた。誰にも手を出すことが出来ない聖域。弱かった自分が大人に成長し警察官になれたのは守られていたからだ。そうでなければ、今とは違う自分になっていたかもしれない。
――この手で殺してやろうと思いました
やはり母には言葉にして伝えよう。生きている内に。もう二度と会えなくなる前に。考え事をしていると部屋の前まであっという間だった。胸に奇妙なくすぐったさを覚えながら、鍵を差し込む。だが、回らない。まさかと思いドアノブを回すと扉はそのまま開いた。こじんまりとした廊下は今朝から時間が動いていないかのようだ。だが、目を凝らせば廊下が薄汚れていることに気付ける。六徳は目を閉じ息を深く吸い込む。そして吐き出すと同時に目を開く。次の瞬間、靴を脱がずにゆっくりと廊下に歩き出した。気の所為であれば良いと思う。だが、父の事件でマスメディアに追い掛け回された母が鍵をかけ忘れるとは信じられない。想定できる最悪の事態は一つ、廊下の汚れもそれで説明がつく。
息を潜めながらリビングへと顔を出すと銀色の光が目に飛び込んでくる。正体は刃渡り一〇センチほどのジャックナイフ。かたかたと揺れる刃は腕を掴んでいなければ確実に突き刺さっていた。すかさず腹にフックを突く。鈍い音と共にうめき声。力が弱まった隙を六徳は見逃さない。腕を壁へと叩きつけ、こぼれ落ちたナイフを遠くへ蹴り飛ばす。
「どういうつもりだ」
確実に殺すつもりの一撃。防がれなければ確実に死んでいた。六徳の中で何かが音を立てて切れる。自分だからこそ良かった。警察官だから、ゴーストだから。だが、もし自分が家に帰っていなかったら?
居合わせたのは別の人間だ。夫を殺された悲しみを胸に抱えながらも、懸命に生き抜いた女性だった。親の心労も知らずに家を飛び出した馬鹿息子を見捨てることなく、帰りを待ち続けてくれた母だった。
「ふざけるな、クズ野郎!」
柔術、背負投。
胸ぐらを左手で捉え、勢いよく振り返る。力が抜けた体を投げ飛ばすのは容易だ。だが、腹に走った激痛が勢いを殺す。正面には同じ背格好の男。その手にあるナイフは深々と体に突き刺さっていた。だが、ゴーストにとっては致命傷ではない。構わず額を顔に叩き込む。肉が潰れる音と共に男は後ろ向きによろめいた。刃が抜けて血が吹き出す。増した痛みに顔をしかめた瞬間、掴んでいた感触が消える。見返したが、誰もいない。辺りを伺うと、台所から姿を表した。包丁を手に持って。それはありふれた安物だが、六徳にとっては特別が意味がある。かつて復讐の為に手に入れ、結局は母の為に使った包丁だ。長く使えるものでもないのに、母は丁寧に手入れをしてずっと使っていた。
「……返せ」
喉から出た言葉は自分のものとは信じられなかった。何かに取り憑かれたように自然と拳がきつく固められる。だが、背後から聞こえる足音が六徳を現に引き戻した。身を屈めて片膝を床に落とす。奇襲をしかけた男は空を突き刺し、六徳の体に引っかかってもんどり打って転がった。顔を上げれば、逆手で握られた包丁が振り下ろされる。尻もちをつくように後ろに飛ぶ。すかさず順手に持ち帰られた刃が眼前に迫る。かわせない。六徳は向かってくる男の胸を踏みつけた。蹴ると同時にこうてんし、壁に背を叩きつけて姿勢を立て直す。
刹那、男が再び肉薄する。避けるだけではいつかは捉えられる。策は一つ、立ち向かえ。左足を固く踏みしめ、腰を大きくひねる。目を刃に固定したまま。刃先が近づき、視界いっぱいに銀色の光が広がった瞬間に六徳はわずかに顔を逸らす。頬に迸る痛み。その全てを無視して、正拳突きを解き放った。
完璧なタイミングでのカウンター。まともな防御ができなかった男の体がくの字に曲がり、ぐちゅりと歪な音がなる。柔らかい内臓が潰れる音と堅い骨が潰れる音が響き重なって出来た音だ。六徳は我に返った。咄嗟に力を抜こうとした。だが、全身全霊をかけた一撃は今更止められない。男の体は紙吹雪のように容易く宙を舞い、向かい側の壁へと激突した。白い壁に走る無数の亀裂。跳ね返って床に崩れ落ちた男はそのまま起き上がらなかった。六徳は人間が泡を吹くのを始めて見た。
「そんな……」
自分の力とは思えなかった。信じられなかった。ただ武器を取り上げる為の隙を作るつもりだったのに。想像以上の惨状。死んでいても不思議ではない。自分が人を殺したのか? 人を守るはずの、この手で? 彼は犯罪者だ。母の家にナイフを持って侵入したことは許せない。しかし、だからといって殺して良いのか?失った命は戻らない。取り返しがつかない。その責任は自分一人で背負いきれるものではない。母は息子が殺人者という事実に耐えられるだろうか。雲霧は何かしらの責任を取らされないだろうか。最悪の想像が次々から溢れ出る。
瞬間、肉が裂かれる音と共に鋭い激痛が腹を突き抜けた。
「が……、ぁ……」
集中が乱れた一瞬が命取りとなった。思考を振り切った時にはナイフが根本まで刺さっていた。腕を掴んで動きを止める。だが、力が上手く入らない。じわじわと皮膚が引き千切られていく。制止できず二度と三度と刺された。蛇口を捻ったような血しぶきが上がり、視界が白黒と点滅する。
結局、何も出来ないのか。大切な人に守られてばかりで、その恩を返すことすら出来ない。こんな筈ではなかった。そう思いながら死ぬことがあまりにも悲しくて、悔しくて、やり切れない。鉄分を味わいながら、歯を食いしばる。そして残された力を振り絞って、掌底で男の体を突き飛ばした。四度目の刺突を構えていた男はよろよろと後ろに下がる。反撃にはならなかった。六徳は壁に背中を預けるようにその場に座り込んだ。
今度こそ死ぬのか? 六徳は追撃を覚悟して全身の力を抜くように息を吐く。瞬間、豆を炒るような発砲音が騒々しく響いた。雲霧の狙撃とは違う。数にして5回。それでいて、六徳は自分の体に新たな痛みを覚えることはなかった。
「急所は外しました、ご安心ください」
凛として、落ち着いた声。徐々に開かれる視界に見えたのはボブの髪型をしている女性だった。美しい青い瞳に整った顔立ち。濃い藍色のシャツに黒のジャケットとスラックス。それは夕方に出会った女性だが、華奢な両手に握られている自動拳銃のせいでしばらく気づかなかった。硝煙がうっすらと昇る銃口を刺客に向けたまま近づき、ナイフの柄を血塗れの拳ごと踏みつけた。絶叫が響く。だが、女性は顔色一つ変えない。男の体に視線を走らせ、挙動を具に観察する。
「離せ」
刺すような冷たい声。拳に加えて、両手両足の付け根を撃ち抜かれた男に抵抗する術はない。刺客は呻き声と共に力を抜いた。瞬間、女性は足を擦りつけてナイフを遠くへと滑らせる。続けて男の体を蹴って俯せにさせ、左手で手錠を取り出すや否や後ろ手に掛けた。
「葛城です。訳あって貴方を監視していました。怪我を見せてください。応急処置をします」
「俺は……大丈夫です……、それ、より……彼を……」
脇のホルスターに拳銃を仕舞った葛城は手を差し出すが、六徳は取り合わない。乱れた息をぜえぜえと吐きながら、震える指先をもう一人の刺客のほうへと向ける。自分が殴り飛ばした男。生死はどうだろう。今ならまだ処置が間に合うかも知れない。
「そうですね、油断しました」
葛城はそう言って顔色一つ変えずに手錠を引き抜いた。それを見て六徳は焦る。彼女は男の容態を知らない。ただ気絶しているだけに見えているのだろう。処置をしなければいけないというのに。急いで彼女に伝えなければ。だが、裂かれた腹には力が入らない。声が上手く喉を通ってくれなかった。
「かつら、ぎ、さん……」
「どうしました?」
それでも必死に声を出していると葛城が気付いた。男の真上に立ったところで振り返る。瞬間、男の体が飛び跳ねた。その手にはナイフ、刃先は彼女の後頭部を捉えていた。思わず息を呑む。慌てて叫ぼうとした瞬間、鈍い音が響き渡った。ナイフが刺さる音ではない。素早く振り返った葛城が手錠を男の脇腹に叩きつけた音だ。小さな悲鳴と共に軌道が逸れる。男はすかさず狙いを再びつけるが、葛城は返す刀で胸を殴りつけた。不意打ちで抜ける力。葛城はその隙を逃さない。凶器を持つ右手首に手錠をかけ捻り上げる。抵抗する猶予はない。
流れるように体の向きを変えさせられた男の左手首を捕まえ、葛城は対の手錠をかけた。鮮やかに施された後ろ手錠。これで男に自由はない。更に葛城は追い打ちと言わんばかりに尻を膝で蹴る。鈍い音と共に男の体が崩れ落ち、ナイフがからんと音を立てて床の上へと転がった。
「お待たせしました。それで、どうかしましたか?」
――――――――――――――――
「いたいた」
夜の埠頭を探し回ることする十数分、鉢合わせした男達を斬りながらようやく立華を見つけた。月明かりに照らされた夥しい量の血を被りながらうめき声を上げる男を。
鼻をつく強烈な火薬の匂いに鼻を震わせながら近づく。立華はそこらの死体より惨たらしい。全身が真っ赤に濡れて、ところどころが欠けている。無数の銃弾に食いちぎられた服から見えるのは焼け爛れた皮膚。正視するだけでも痛みを感じそうだ。素人目に見ても致命傷。普通の人間なら生きられない。だが、ゴーストであればこの程度では死ねない。
「か、しろ……」
神代、己の名を呼ぶ口から血と肉片を吹きながら、立華は冷たいアスファルトを芋虫のように這っていた。ゴーストは殺せないが、超人ではない。体の強度や痛覚は普通の人間とそう変わらない。鈍器で殴れば骨は砕け、刀で斬れば肉は裂け、銃で撃てば内臓は潰れる。人間との違いは死なないだけ。それでいて意識を失うこともない。だから、傷を負えば、それが治癒するまで苦痛を受け入れる必要がある。ゴーストは意識を失うことはないからだ。普通なら助からない重傷を負った際もただ視界が白黒に点滅するだけ。地獄から逃げる術は死しかない。
「立て。どんな目に遭おうと、罪は償ってもらう」
「わか……、た……」
立華がのろのろと上体を起こす。たっぷり濡らした雑巾のように血を滴らせながら、立華は時間をかけて立ち上がる。瞬間、首を斬り裂いた。首を両断することもできたが、そこまでしたとは聞いていない。続けて心臓に刀を突き刺す。両膝をついたまま立華は力無く項垂れる。
「お前が刺し殺した警察官は中世期グループとは何の関係もない警察官だ。発砲音を聞きつけて、何も知らずに守ろうとしただけだ。そういう事態を防ぐ為にお前には必ず襲撃地点で待機し、極力刃物を使うよう指示したはずだ。それを全部無駄にしやがって」
「……すま、ない」
口から血を吐きながら、立華は許しを請う。このぐらいでいいだろう。被害者は奇跡的にゴーストとして生き延びた。罪の罰はこれぐらいでいい。立華の体から刀を引き抜くと代わりに薬瓶を差し出した。
「これを飲め、楽になるぞ」
中身は鎮痛剤、成分を市販のものより数十倍強力にした劇薬だ。死への耐性が強く、体内の異物を再生能力の一環として除去するゴーストへの処方薬は大体そうなる。だが、薬瓶は容易く弾き飛ばされた。
「いるか! 体にうじ虫が湧くだろうが!」
獣のように絶叫する立華。それには構わず神代は裏拳で打たれた己の右拳を眺めた。じわじわと昇る痛み。これだけの力が出せるのであれば、無理に飲ませる必要はない。神代は一粒数万円の薬には目もくれず、立華の背中と膝裏に両腕を滑り込ませた。
「そうだな。悪かった」
軽々と立華を抱きかかえた神代は再び夜の埠頭を歩きだす。鍛え抜かれた成人男性の肉体は中々の重量だ。だが、神代は生前から日本刀を片手で振り回せる。ゴーストに覚醒した彼にとっては少女も同然だった。その扱いには立華の癇癪は爆発しなかった。彼はただ気まずそうに星空へと鋭い瞳を逸らす。
「……すまない、ありがとう」
「気にするな」
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警察官。その言葉を聞いて、どんな姿を思い浮かべるかは人の自由だろう。犯罪に巻き込まれた市民に寄り添う者。犯罪を行った容疑者に一切の容赦をしない者。殺風景な会議室の中で毅然と話す者。正義を嘲笑い、桜田門の紋章を私利私欲に利用する者。様々なものがいるだろうが、清掃員を装って民間施設に隠しカメラを設置する者たちの姿を想像することはないだろう。
「災難だな」
群青色の作業服からダークスーツに着替えた右田将一は息苦しさを我慢してネクタイを締めた。同僚を見る。公務員らしく髪を短く整え、髭を剃り、清潔感を保った男達に個性はない。村瀬、桑内、九重、真継。部下全員の年齢が等しければ、自分は彼らを判別できなかっただろう。次に卓上を見る。横一列に並べられた軍用ノートパソコンには画面を四区切りに映像が出力されていた。
録画されたものではない。非合法に設置されたカメラから送られているリアルタイムの映像だ。とある病院の入り口、裏口、地下駐車場。建物に出入りしているものはこれで一人残らず視認できる。それだけではない。病室のある一室に限っては室内、出入り口、廊下を死角が徹底的に監視していた。
「殺されかけた挙げ句にテロリスト扱いか」
監視対象は天道世正。中世期製薬が筆頭としたグループ企業の代表取締役であり、そのほとんどで利益を生み出している資産家だ。ここ最近の決算は全て順風満帆。資料を軽く見ただけで、彼の所得が自分の数十倍であることが分かった。羨ましい。職務中の刑事として私生活を慎むべきであるとは思っているものの、どうしても考えてしまう。
もし自分が彼のように働いていたのなら、妻と娘は去らなかっただろうか。冬が終わり、暖かな空気が肌を優しく撫で始めた日だった。20日ぶりの非番。ようやく家族との時間を過ごせると喜ぶ男に妻が突き付けたのは色褪せた結婚指輪と旧書式の離婚届。子供は部屋に閉じこもって顔を見せることもなかった。
――もう限界です。
初めて知り合った時よりも他人行儀な話し方をする妻の瞳は、取り調べを受けている容疑者と同じように見えた。市民からは感謝され、同僚からは信頼され、犯罪者からは警戒されている警察官はそこで初めて自分が大切な人達に憎まれていることを知る。妻や娘のことは愛していた。家に帰ることは自分にとって最高の幸せだった。正確に言えば、自分だけにとって。彼女たちにとっては地獄だったのだろう。何故? 分からない。考えようとしたが、最後に何を話したのか。それがいつだったかのさえ思い出せない。
もし、戻れるなら。右野はそこで過去を断ち切った。今も昔も、家族の気持ちを知らない男は求められていない。必要なのは事件の真相を知ろうとする刑事だ。良い父親にはなれなくても、その役目ならまっとうできる。
「集中。病室に出入りした人間は無論、廊下に映った人間も一人残らず見逃すな。医者や看護師もだ。他の箇所については不審者がいないかどうか徹底的に目視しろ」
右田は両手を二回叩いて、部下を鼓舞した。ここから先、一瞬たりとも目は離せない。煙のようにゴーストが突然現れて、病室付近にいる人間を皆殺しにするかもしれないからだ。その可能性を疑うものはこの場にいない。根拠となるのは三年前に起きた少年院襲撃事件。喪服を着た男が防壁を突破し、法務省直属の機動隊を薙ぎ払い、受刑者を手当たり次第に斬殺した。凶器はたった一振りの日本刀。法執行機関の監視下で200人以上を斬った犯罪者は今も逃走中だ。
その脅威が迫っている。態度には出さないが、緊張と恐怖がじわじわと胸の奥へと広がっていった。
「……こういう状況なのに、一係は何故近くにいないのですか?」
モニタに油断の無い目を走らせながら、真継が不満げに呟く。右田は静かに頷いた。ようやく二〇代前半を終えた若者の愚痴には中年刑事も同意見だ。二係の人員は捜査専門だ。銃を携帯しているものの、ゴーストが現れては太刀打ちできない。制圧するには戦闘専門の一係が必要だ。だが、彼らは誰一人として病院の近くにいなかった。馬鹿げている。だが、悲しいかな。ノンキャリア組の老人はキャリア組の若者に従うしかない。
「たとえ今ゴーストが現れても、彼らは駆けつけることもしないだろう。雲霧警部は前からそういう方針だ。万全の体制を張れない場所での戦闘は不利であり、無関係の市民を巻き込む恐れがある。ゴーストに狙われるような人間の為にそんなリスクは負えない。どうせ自業自得だとさ」
「何ですかそれ、おかしいですよ。人が殺されると分かっているのに何もしないんですか?人の恨みを買ったら死んで当然とでも? 犯罪者であろうと国民の一人です。無責任な市民なら分かるが、法を遵守する警察官がそんな事を言うなんて」
「落ち着け。彼らはゴーストを見逃すといっているわけじゃない」
今でこそ怒れる若者を宥めているが、右田は一時間前に全く同じことを雲霧に訴えていた。雲霧優。戦後、最も人を殺害した警察官。悪名高い年下の上司と話したのは電話越しだ。しかし、今も思い出すだけで背筋が冷たくなる。人を見殺しにする理由を話す雲霧は淡々としていた。躊躇や罪悪感どころか何の感情も感じられない。気味が悪すぎる。いっそのこと、人の恨みを買ったら死んで当然などと言ってくれればまだ理解できた。同じ血が通った人間とは信じられない。しかし、時間は刻一刻と過ぎていく。雲霧の人格を非難している余裕はない。それに戦術に関して自分は素人だ。特殊部隊の経験もある雲霧に感じている不信感は的はずれかもしれない。
「一係の任務は主に二つ。拠点への急襲、そして警察施設での防衛。今回の場合は後者だな。まず二係が何かしらの違法行為の証拠を掴み、天道や石妖を逮捕。拘置所へと移送する。普通の拘置所じゃない。特殊作戦用に整備された要塞だ。彼らはそこでゴーストを迎撃する」
「……なんかゴーストの為に動いているみたいですね」
右田は驚いた。そのような不満は抱いたことがなかった。
「なぜそう思う?」
「だってそうでしょう? ゴーストは自分の恨みを晴らす為だけに人を殺そうとした。なのに警察はゴーストではなく被害者を逮捕しようとしている。やっぱりおかしいですよ。こんなの、まるでゴーストの為に働いているみたいじゃないですか。馬鹿馬鹿しい」
言わなくても良いことを、言わずにはいられない。それも自分を評価する権利を持った者の前で。勤務態度が真面目で、頭の回転も悪くないこの若者の欠点はそれだなと右田は溜息をついた。対策室の警察官は優秀だが、無傷の経歴を持つものはいない。大抵は昇進が絶望的となっている。容疑者への暴行や越権捜査などの問題を起こした者。警察組織に馴染めず、人事評価と能力が釣り合っていない者。
真継は後者だろう。別に警察組織はイエスマンを求めているわけではない。臆せず上に発言することも必要だ。しかし、時と場合による。所構わず噛み付いてくる若手など、どんな組織にとってもトラブルメーカーでしかない。
「そう結論を急ぐな。一係は命懸けで戦う準備をしている。完璧ではないが、最善のやり方で。私達には理解できない事情や苦悩もあるだろう。私達がすべき事は対立じゃない。自らの役目を果たす事だ。今は彼らを信じてみよう」
納得したのか、不満を言っても無駄だと諦めたか。それは分からないが真継は了解といって仕事に戻った。この若者には未来がある。欠点は矯正すればいい。状況判断さえ出来れば、彼の胆力は大きな武器となる。右田は真継を出世ルートに戻して引退するつもりでいた。だが、残念なことに今はこれ以上の指導は出来ない。為さぬばならぬ仕事がある。右田は一呼吸置き、乾きがちになった瞳で改めてモニタを注視しはじめた。
「それにしても所轄の仕事が早いな」
病室に4人、廊下に4人。いずれもダークスーツに身を包んだ男達だ。周囲に走らせている油断のない目。彼らの正体は警察官であり、所属は警視庁色並署捜査一課ならびに組織犯罪対策課。訓練は受けているだろうが、戦闘の専門家ではない。通常は本庁の機動隊に応援を要請するはずだが、何故か彼らは報告もせずに所轄内の人間だけで事件を処理しようとしている。実績が欲しいのか? 命を懸けてまで? しかし、何にせよ今すべきことは変わらない。余計な思考を振り払い、再びモニタへと意識を注ぎ込む。その時、黒服の一人が特殊警棒を引き抜いた。鋭く伸びた黒い先端が一枚の画を全て塗りつぶす。
「……は?」
何が起きた? 何が?
疑問の答えは出ず、長年刑事を勤めた男からは間抜けな声が漏れるだけだった。思考が現実を受け止められない。現実は思考を待ってくれない。花火が弾けたような爆発音が扉の外から響く。身が震えるような物々しい破裂音。その源を辿れば穴だらけの蝶番が吹き飛んでいた。
「敵襲!」
村瀬が叫ぶ。元銃器対策部隊の耳は音を銃声と判断し、太い腕は軍用ノートパソコンを軽々と振り投げる。漆喰の扉が荒々しく蹴り破られた瞬間、重さ3kgを超える特殊金属の塊が突入者の肩に激突した。鈍い打撃音と短い悲鳴を上げて崩れ落ちる。すかさず拳銃を引き抜く村瀬。室内に反響する銃声。後続の突入者が持つサブマシンガンから矢継ぎ早に放たれた無数の銃弾によって蜂の巣にされた刑事の体中から血飛沫が舞った。だが、村瀬は倒れない。避けもしない。廊下を塞ぐように仁王立ち、血濡れた銃で数発撃ち返す、額を撃ち抜かれるまで。最期まで呻き声すら上げず戦った男は、瞳を見開いたまま仰向けに倒れた。
「村瀬!」
命がけの抵抗は、遮蔽物に身を隠す時間を仲間へ与えた。遮蔽物から飛び出す覚悟と共に。同僚を他人と思う警察官はいない。家族も同然だ。少なくとも死と隣合わせの部署において。桑内が身を乗り出して銃口を突入者に突き付けた。瞬間、その左肩が無数の紅い粒となって弾けた。バックショット、散弾。爆発音と共に8つに分裂した銃弾の破片が皮膚を裂き、肉を潰し、骨を砕く。
「い、てえ……」
血反吐と呻き声を吐きながら、桑内は引き金を絞った。交差する二つの銃声。濁った悲鳴が響き渡る中、胸から首まで紅く染まった男の目から光が消える。だが、倒れない。同僚の死体を盾に久重は銃弾を放った。素早く三発、胸と首に。悲鳴が消える。ショットガンを持っていた男はぐるりと向きを変えて、崩れ落ちた。
「うるせえ! 今更退けるか!!」
銃のマガジンを差し替えたのだろう。村瀬を殺した突入者が入れ替わるようにして姿を現した。だが、初撃とは違う。戦闘態勢を整えた三人の刑事に集中砲火をくらい、あらぬ方向に銃弾をばらまきながら倒れた。
長年の刑事生活で人を撃つのは初めてだ。しかし、右田は恐怖と緊張を胸の奥へと仕舞い込む。そんな余裕はない。二人の部下を庇うように前へと出て、拳銃を汗まみれの手で握りしめる。戦場。血の香りは鼻を潰れるほど生臭く、焦げ臭い火薬の匂いと混ざり合って吐き気すら覚えた。それでもグリップから手を離すことはしない。喉を気力で締め付け、扉のない入り口を睨みつける。新手は現れなかった。右田は拳銃を構えたまま無線を繋ぎ、通信が開始されると同時に叫んだ。
「特13から本部へ。武装集団から襲撃された。二名死亡、これより退避をーーー」
『特05から特13へ。退避待て』
報告を遮る雲霧の声。あいも変わらない平坦さに右田は全身の血が昇るような感覚を覚えた。
ーーこういう状況なのに、一係は何故近くにいないのですか?
『戦術部隊を向かわせた。15分で着く。室内に留まり防御態勢を整えろ』
「ふざけるな! こんなところにいられるか!」
正気か? 奇襲を受けて既に二人殺されている。この状況で待機するなど正気の沙汰ではない。雲霧と雲霧直属の部下であれば最善手だろう。潤沢な重火器と豊富な戦闘経験に恵まれた彼らであれば、軍隊が襲ってこようと返り討ちにできる。だが、今室内に残っているのは拳銃が3丁。服務中に発砲する経験を済ませたばかりの刑事が3人。まともに戦えるはずがない。上司の命令と部下の生命。どちらを守るべきか迷う人間はクズだ。
「……退避する。他に選択肢などない」
『待て。それでは敵の思う――』
無線機の電源を落とし、右田はイヤホン端子を根本から引き抜いて放り捨てた。聞くに堪えない。経歴が犯罪者とそう変わらない警部と、信頼の置ける巡査部長。部下は目の前の上司を信じた。久重と真継は真似をするように無線機を切断する。これで彼らを邪魔するものはもう何もない。
「行くぞ」
弾倉を差し替えて、右田は廊下へと進んだ。誰もいない、敵も味方も、民間人も。死体は無視した。虚ろな瞳を開いたままの者を怖がる意味はない。そんな余裕もない。廊下を出て、非常階段の入り口へとたどり着く。扉を開けると同時に銃口を素早く走らせた。敵の姿は見えない。だが、物陰から突然現れた人影が銃弾を放ってくるかもしれない。
――室内に留まり防御態勢を整えろ。
雲霧の指示は奇襲を考慮してのものだったのだろう。確かに移動はどうしても隙が出来る。もしかしたら彼が正しかったかもしれない。自分は感情に任せて判断を誤ったかもしれない。どくどくと不気味に痙攣する心臓の音を聞きながら、右田は一歩ずつ慎重に階段を降りた。誰とも会わぬまま地下一階へと着く。そのまま扉を開けて、地下駐車場に向けて銃口を突き出す。無機質な白照明が照らす広大な空間。見通しは悪くないが、死角が無数に存在している。柱、車、角。誰かが身を潜めていたとしても、ここからでは確かめようがない。
「時間がありません。援護してください、右田さん」
言い終えると同時に久重が駆け出した。銃口を下に、脇目もふらずに車へと一直線に。伏兵を炙り出す為とはいえあまりにも無謀で危険な行為。だが、戦場に最適解はない。少なくとも右田には分からない。部下を制することも出来ぬまま、銃口をせわしくなく動かす。撃つべき標的は現れない。そのまま久重は車へと乗り込み、運転席へと乗り込んだ。攻撃はない、安全は確認された。ようやく脱出できる。背後の真継に声をかけながら、勇敢な部下の元へ一直線に駆け出す
刹那、音が消えた。
「え?」
逆鱗を傷つけられて怒り狂う龍のように、炎が燃え盛り車から飛び出した。周囲に停めてある車両の窓ガラスは全て叩き割られ、嵐のようにが吹き荒れる。咄嗟に腕で目を覆う。無数の破片に切られ、傷ついた肌を熱風がじんわりと焼いた。遅れて轟く爆発音。つーん、と壊れたラジオのような耳鳴りがいつまでも鼓膜に残った。
ーーそれでは敵の思う……
敵の思うつぼ。まさにその通りだった。自分達は逃走するように誘導されたのだ。車ごと爆殺する為に。甘かった。捜査を妨害する為にここまでするとは思わなかった。その事を雲霧は予測したのだろう。愚かにも自分はそれを無視し、また一人部下の命を落とした。だが、懺悔の時間はない。右田は素早く振り返ると同時に、銃口を先程開いた扉へと向けた。
「背後を警戒しろ、真継!」
ーーうるせえ! 今更退けるか!!
刺客が最期に遺した言葉。今思えば、独り言ではなく確実に誰かへ話しかけている。誰か。おそらく襲撃犯の仲間だろう。トラップで殺すことを見越して撤退命令を出した男。だが、仲間を殺された男はそれを拒否した。そんなところだろう。つまり、まだ刺客はいる。3階から地下1階。鍛え抜かれたアスリートであっても降りるには相当の時間がかかるだろう。少なくとも自分達が部屋から出て階段の踊り場にたどり着く時間で降りきることは不可能だ。あの時は神経を研ぎ澄まして警戒していた。もし全速力で走っている者がいれば必ず音で気づく。つまり、生き残りは降りていない。階段を一段だけ昇り、上に隠れていたと考えるのが妥当だ。つまり、刺客は背後にいる。
「私が先行する。援護をーー」
「させない」
踊り場の暗がりから一人の男が姿を現した。スキーマスクで顔を隠した黒いレザージャケットの男。唯一見える瞳から鋭い眼光が飛ぶ。それだけで皮膚が刺されたように痛んだ。生きるか、死ぬか。背筋に冷たいものを感じた右田は迷わず引き金を引いた。豆を炒るような発砲音と共に弾丸が数発射出される。だが、血は流れない。
「こわい、こわい」
素早く身を捻って躱した男は逆手に構えたナイフを真継の胸へと突き刺した。一瞬の出来事。真継は目を見開き、口から血を流して、手をだらりとぶら下げる。
「真継!」
狙いを定め直す。だが、もう遅い。刺客は反対の手で拳銃を構え、照準を自分に向けていた。指の一本でも動かした瞬間に死ぬ。兵士でなくとも理解できる。言語化できる理屈ではない。生を望み、死を忌む。人間だけでなく生物全てに備わった本能が右田の動きを完全に封じる。
「銃を捨てて。僕を傷つけようとしたら二人共殺す」
男の声は震えていた。まるで強盗に刃物を突きつけられた細い女性のように怯えている。だが、油断も隙もない。真継を刺したナイフは揺らがず、右田を狙う照準はぶれない。警察がよく捕まえるような犯罪者とは違う。裏社会で暗躍するプロの殺し屋だ。
「話をしよう。僕が知りたいことを教えてくれたら、命は助けるし金も払う」
右田は迷った。もし自分一人であれば沈黙を貫いただろう。だが、責任はその限りではない。真継豊。20代半ばの若者。その犠牲は許せない。警察官として、人として、子を持つ親として。だが、義憤を募らせたところで何も変わらない。神に祈っても無駄なのに、悪魔に祈る理由がどこにある?無力感が肩にのしかかる。妻子を見る最後の日、言葉どころか視線すら貰えなかった時と同じ無力感。それだけ家族を蔑ろにして警察官としての経験を積んでいる癖に、大切な部下の一人さえ守れない。
「誰の指示でここにいるの? 僕がそいつに会えるような情報は全部教えてほしいな」
ゴーストに狙われるような人間。やはり模範的な市民というわけではないようだ。中世期製薬。ただのベンチャー企業ではない。ヤクザか半グレのフロント企業か? 計画的に捜査官を殺害するとは、よほど知られたくない秘密を抱えているらしい。
「ちなみに報酬は? 倍額払ってあげる。言い値でもいいよ。いくらでも――」
商談は唐突に終わった。銃を持つ腕を真継に掴まれ、殺し屋が体を震わせる。胸を刺された真継の顔は真っ青だった。しかし、目は宝石のように輝いていた。
「ふざ、けるな!」
襟首をつかみ、身を翻して殺し屋の体を振り上げる。決死の反撃は抵抗を許さない。黒尽くめの体が中を浮き、コンクリートの床に叩きつけられる。地下空間に鳴り響く鈍い音。刺客の体が床に転げ落ちると同時にナイフが真継の胸から抜かれる。傷口から噴き出す血の雨。足元に出来た赤黒い水溜りを踏みつけながら、真継は床に落ちた拳銃へと震える手を伸ばした。
刹那、銃声が鳴り響くと同時に肩が爆発した。血の線が鞭のようにしなり、真継はその場に膝をつく。
「真継!」
すかさず男へと照準をあわせる。瞬間、鋭い痛みが走った。膝から始まり、一瞬で腰まで達する。右田は踏ん張ろうとしたが、撃ち抜かれた足では自重を支えきれず、背中から崩れ落ちた。その衝撃で拳銃は手から離れ、近くに停めてあったスポーツカーの下へと滑り込んでいく。
「怖い怖い。もう後戻りはできないね、さようなら」
「後戻り、出来ねえのは……、てめぇらの……、ほうだ」
ナイフで刺され、銃で撃たれた。傷は深いだろう。だが、彼は自分の信念を曲げなかった。言わなくても良いことを、言わずにはいられない。それも自分を評価する権利を持った者の前で。警察官としての欠点は山程あるだろう。だが、彼にはそれ以上の大切なものを持っている。矜持。警察官としての責任を持ち、犯罪を絶対を許さない。その為ならばいかなる犠牲も厭わない。
「そんなに知りたいなら、教えてやる。俺達は警察官だ。賄賂を受け取るぐらいなら死ぬ。そして警官殺しは絶対に逃げられねえ、お前らはもう終わりだよ!」
「警察、か。それは怖い」
刺客はゆっくりと起き上がる。目覚まし時計の音にうんざりしながら目を覚ますように。誇りを守り、命を賭して、全身全霊で反撃をした。だが、刺客にはかすり傷一つ負わせられない。
「だけど、君からは逃げられるようだ」
男は笑う。笑いながら、照準を真継の額へと合わせる。躊躇いなど一切ない。待て。声にならない命乞いは届かなかった。刺客は息を深く吸って、ゆっくり吐く。そして、死刑囚の首に縄が食い込むように引き金にかけた指へと力を込めた。
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