第5話 正義

「何なんだ……、何なんだよ……」


 遊火隼人は立ち止まってびっしょりと濡れた額を拳で拭う。息はあがりきっていたし、汗が目に入る度に耐えがたい激痛に襲われる。だが、それでも走らなければならない。前を向いて足を踏み出そうとする。途端に体がバランスを失って崩れ落ちた。何が起きた? 動け! 声にならない叫びとは裏腹に筋肉質の体は生まれたての子鹿のように震えながら路地裏を這いつくばるしかできない。いつまで経っても呼吸を整えられない。水たまりに映った夕焼けを膝で叩き、汚れた壁に手をついて数センチずつ進む。脂汗が全身へと広がり、ビル風が吹くたびに寒気が走ってより激しく震え上がった。

 哀れな負け犬。逃げたことは数えきれないほどあるが、ここまでの醜態を晒したことはない。だが、面子を守る余裕はなかった。仲間を皆殺しにした化物から一ミリでも離れることしか頭に無かった。

 化物。絶対に逆らってはいけない存在。その言葉は自分たちのようなヤクザを表現するものだと思っていた。構成員は武闘派揃い。暴力に躊躇がなく、誰であろうと逆らう人間は始末する。だが、所詮は同じ人間だ。どれだけ腕っぷしが強くても、武装を重ねていようと、殺すことは出来る。真の化物はその次元にいなかった。銃弾を何発当てようと、刃物で何度刺そうと、平然と立ち上がる。殺せない。人間の手には負えない。怨霊のような存在が今も絶えず自分を探している。殺す為に。


「助けて……、誰か、誰か助けてくれ……」


 仲間の血で濡れた手で懐からスマートフォンを抜いた。電源をつけた瞬間に通話画面を開く。覚束ない指先で入力したのは、日本人であれば誰もが知っているであろう三桁の番号。仲間からすれば立派な裏切り行為だ。しかし、義理立てたところで状況は変わらない。組織は破滅する。あの化物に恨まれた以上、足掻いたところで死体が増えるだけだ。

 警察に自首するしかない。裁判で極刑を下されようと、仲間に暗殺されようと、あの化物に殺されるよりマシだ。息を深く吸い、ゆっくりと吐き出す。そうして覚悟を決めると通話ボタンに指をかざした。瞬間、全身の毛が逆立った。見えない手に押されるように横に飛ぶと聞こえたのはごとりという音。血飛沫が顔に降り掛かって、遊火は自身の腕が斬り落とされたことにようやく気付いた。


「ぁ……、あぁ……」


「何故避ける? 死ぬ前に苦痛を感じたいのか?」


 顔を上げると、若い青年が立っていた。すらりとした長身で、暗い瞳で自分を見下ろしている。目元以外を隠すスキーマスクに隠れて顔は見えない。だが、声はかなり若かった。おそらくは20代の男。彼の服装は喪服のようだ。ブーツ、スラックス、グローブ、スーツベスト、ネクタイ。白シャツを除く全てが黒一色だ。だが、遊火はそれら全てを無視した。大粒の涙を浮かべた瞳に映るのは一振りの日本刀。


「た、助けてくれ。警察には自首する。全部話す。だから――」


「だから? お前が警察へ自首をするとして、俺は褒めてやるべきか? 反省の色はなく、ただ死にたくないだけの罪人を救うべきか?」


 青年は切っ先を喉元に突きつけた。真っ白な刃が月明かりを受けて妖しく輝く。透き通るような表面には自分がよく見えた。右腕が欠け、その顔が恐怖で歪んだ男。負け犬だ。媚びへつらうよう青年を見上げる。マスクの隙間から除くのは夜よりも暗い瞳。その中心には業火のような光が瞬いて見えた。


「ち、違う。ちゃんと償う! 絶対に更生する! だから……、そ、そうだ。今持ってる金はアフリカの子供に全部寄付する。だから……」


「更生、か。お前はまるで人生を捨てるかのように更生すると言っているが、意味を理解しているのか? 答えてみろ」


 鳴り響く激しい金属音。残された腕にちくりとした痛みが走る。音の源を横目で見れば真っ二つに割られたスマートフォンから部品がまき散らされていた。答えを間違えれば同じ目にあう。遊火は震えながら必死に考えた。


「は、はい……これからはどんな仕事でも真面目に働いて……人の役に立って……それから……」


「もういい、分かった。つまり普通の人生に戻るということだよな。誰かを傷つけることも誰かに傷つけられることもない。殺しも盗みも同様。暴力に関わらず、平和に生きていく」


「そうです、そうです!」


 壊れた人形のように激しく首を縦に降る。この場限りの嘘ではない。この青年から逃れられるのであれば何でもできると思っていた。その気持さえ伝えればきっと許してもらえる。


「こ、これからは心を入れ替えて……」


「つまり何も失わない。そんな都合がいい話が、お前にあると思っているのか」


 静かな声に息が止まる。反省の弁に対する答えは冷たく刺すような鋭い怒りだった。


「お前達に踏みにじられた命は、切りさかれた魂は元に戻らない。被害者は理不尽に殺される絶望の中で死に、あるいは死ぬまで傷を抱えて生きていく。彼らの痛みを考えもせず散々暴力を振るっておいて、自分に矛先が向いた途端に逃げるのか。何が更生だ。働いて金を稼ぎ、人の役に立って感謝されて、今日も立派に過ごしたと健やかに寝る。そういうささやかな幸せを奪った癖にそれを得るから許してくれだと? ふざけるな。どこまで人を踏みつければ気が済むんだ」


「は、はい。おっしゃる通りです! 本当にすみませんでした!!」


 激昂する青年に遊火はアスファルトに額をこすりつける。自分より一回りも年下の男だが、頭を下げることに抵抗は無かった。プライドを砕いたのは凄まじい殺気。これに比べれば今まで相手にしてきたヤクザやマフィアなど赤子のようなものだ。全身を刺され続けられているかのような苦痛。いっそ殺されたほうがマシだとさえ思えてくる。


「どんな境遇だろうと、真面目で健気に生きている人間は大勢いる。人を人と思わないクズがいなくても世の中は回るものだ。お前たちの更生に人の命を賭ける理由などない。だから俺が片っ端から殺す。跡形もなく一人も残さずこの世から消してやる」


 青年が柄を握り直す。瞬間、遊火の左腕と両足が弾け飛んだ。閃光のような斬撃は瞳に映らない。遊火は四肢を全て失ったことに気づかぬまま意識を闇に奪われた。そして、戻ることもない。続けざまに数十の肉塊になるまで斬り刻まれた男の生死など、もはや確認するまでもなかった。


―――


「今日はゆっくり休むといい。異動の手続きは明日から行おう」


「分かりました! お気遣いありがとうございます!」


 対策室の拠点、登記簿上はIT企業のオフィスから外へ出た六徳は2日ぶりに散歩に連れ出された犬のように見えた。彼の笑顔は雲霧に父親の帰りを喜んだ息子を思い出させた。時は流れ、変わるものもあれば変わらないものもある。父と母の後ろに隠れていた子供は、人の前に立って戦う大人となった。しかし、真っ直ぐな心はあの頃のままだ。立派に成長したと思う。父親が生きていたのならどれほど誇らしく思っただろう。考えれば考えるほど胸が苦しくなる。人の道を捨てた自分にはもう彼と目を合わせる資格がないのだから。偽りの仮面は捨てて、全てを打ち明けるべきか?


「……優」


「どうかされました?」

 

 口を開いた途端に冷たい風が頬をじっとりと舐める。刺すように強い風当たりはまるで叱責のようだ。楽になろうとするな。責任を取れ。その声は全てを背負うと覚悟した自分から発せられたものか、もしくは全てを失うことに恐怖する自分から発せられたものか。それは分からない。


「……いや、何でもない」


 彼の視線から逃げるように空を見れば、暗闇の中に一つの月と無数の星が散りばめられていた。星のほとんどは小さな粒だが、比較的大きく目立つ塊もある。先人達が世界の動きを追う為に、見えやすい星の配置を道具や生物に見立てて目印をつけたのは正しい選択だった。しかし、今となっては同じことをするものはほとんどいない。少なくとも夜中に出歩く者は眠らない街の光に吸い込まれて、天上の輝きなど眼中にない。

 かつて六徳優はそのうちの一人だった。父親のいない日常から逃げるように家を飛び出した子供。夜の街には獣がいる。自分より弱い人間を獲物として食らう獣が。誰かが守らなくてはいけない。そう思うより先に体が動いていた。


「それにしても今日は寒い。私のグローブでもつけるか? まだ欲しければ、だが」


 最後の出会いは偶然だった。六徳が夜に出歩くことを辞め、もう会うことはないと思っていた時だった。なぜ休暇を取ったのかは覚えていない。なぜ街中を当てもなく歩いたのかは分からない。ただ、彼から突然声をかけられた衝撃だけは今も覚えている。この世界に神が存在するのなら、恐ろしく意地が悪い奴に違いない。


――俺、父さんや雲霧さんと同じ警察官になります。そしたらそのグローブください。なんか、かっこいいので!


「良いんですか!? ありがとうございます!」


 輝いた瞳は幼いころと何一つ変わらない。冗談のつもりだったが、彼はそう受け取らなかったようだ。気圧されてグローブを外すと強盗のように手元から持っていかれる。早速身につけた六徳は新しい玩具を買ってもらった子供のようにまじまじと熱い視線を手に落とした。

 だが、それもつかの間。何かを思い出したように顔が曇り始める。


「あの、雲霧さん……」


 言いよどむ声に雲霧は訝しむ。彼は何かを話す時、堂々と爽やかな声を出す子供だった。取り調べのときもそれは変わらなかった。それが今でも言葉を詰まらせている。言葉が見つからない様子には見えない。彼は言うべきかどうかを迷っている。


「どうした?」


「……いえ、なんでもありません。気にしないでください」


「そうか」


 雲霧は追求することしなかった。彼の行動を選択する権利は彼のみにあり、一度決めたのなら他人に許されるのは尊重することだけだ。彼が言わないと決めたのなら、聞くべきではない。


「ではご連絡お待ちしております。今日はありがとうございました」


 そう言い残して六徳は去っていった。結局、彼は自分に何を言おうとしたのだろう? それについて深く考えることは雲霧の役目ではない。自分の役目は彼を守ることだ。特に隣に立った男、冨嶽から。


「彼を殺そうとしたことは時期尚早でした。そのことについては謝罪いたします。ですが、貴方のように彼を信頼することについても同様だと思っています。ひいては彼の監視を実行いただきたい」


 横目で富嶽を見る。幾分か落ち着いたようだが、殺意は消えていない。ここで憂いを断つべきか? 元特殊部隊と元交通警察では勝負にならないだろう。だが、雲霧は動かなかった。人の命を奪ってでも断つべき憂いではない。


「監視であれば妥当でしょう。それは私も賛成です。既に私の部下へ指示を出していますが、あなたが担当しますか?」


「いいえ、それでは貴方が納得しないでしょう。かといって、貴方直属の部下が担当しても私が納得できません。従って、桜寺の確保班が適任と考えます」


 異論は無かった。桜寺とその部下であれば最悪の事態になることもない。富嶽が言葉通り監視に関わらなければ、だが。


「良いでしょう。私の部下は引き上げます」


 その懸念は口に伝えなかった。分かりきったことを確認するほど親しい間柄ではない。対策は勝手にすればいいだけの話だ。



 ――――――――――――――――――――――――――



「お姉さん、一人?」


 野太い割に幼稚さを感じる声。葛城加蓮は暮れなずむ大通りの下で早足を止めた。経験上、頭が悪そうな男と気が弱そうな女とトラブルは同じ場所にいることが多い。聞こえたからには助けなければ。後ろを振り返る。西洋人の青い瞳に映るのはモーセの十戒のようにこちらを避ける通行人とにやにやと笑う男二人組。救助対象なし、葛城は前を向いて再び歩き出した。


「ちょっと! ちょっと待ってよ」


 片割れが慌てて目の前に立ちはだかってきた。その横を通り過ぎようとしたが、もう一人の男が遅れて横につく。外国人モデルとして来日したフィンランド人の母からは美しさを、彼女に何故か惚れられた真面目な日本人の父からは勤勉さを授けられて才色兼備の女性に育つことが出来たが弊害もあった。美しい花には醜い虫が寄ってくる。

 周りを見渡す。人通りは決して少なくない。このままいたちごっこを続けていれば事故が起きる恐れがある。話し合いが最善手だ。


「何の用ですか? 一人かどうかはもう分かったでしょう」


「いや、そうじゃなくて……。お姉さんハーフ? 綺麗だねぇ、一緒に飯食おうよ」


「お断りします。ということで、お別れですね」


 話し合いは無事に終わった。論理的な脈絡のない話は聞くに堪えない。だが、男達に道を譲る気配は現れなかった。顔は笑おうとしていたが、頬が引きつっていた。大学の新歓で無理やり酒を飲ませようとしてきた先輩の腕を蹴り飛ばした時と似ている。非難と賞賛の叫びが半々ずつ流れる中、泡で濡れた男は肩を震わせていた。感情が言語化できずに泣くことしかできない新生児のように。


「そんな釣れないことを言うなって。ちゃんと楽しませるからさ」

 

「それは無理です。私とあなた達は初対面、私の人となりを知らず、趣味嗜好を把握しているわけではない。それなのに私をどう楽しませると? できそうにないことをできると断言する人間は信用に値しません。もし仮にあなた達が驚異的な洞察力の持ち主であり、私のプロファイルを把握できたとしても見ず知らずの男二人と一緒に過ごす時間そのものが私にとって苦痛でしかありません。というわけで、私が楽しむ可能性はないでしょう。道を開けてください。これ以上の進路妨害は軽犯罪法28号によって処罰される恐れがあります」


「……まあまあ、落ち着いて。ムキになるなよ。お姉さんがついてくりゃいいじゃん」


「私は落ち着いていて、感情的になっておりません。私があなた達についていく義務はありませんが、あなた達が私に道を開ける義務はあります。もう一度言います。道を開けてください。さもなくば、前述の軽犯罪法28号を適用して逮捕します」


 男達の顔から薄ら笑いが消える。葛城が服を脱ぐ素振りを見せず、愛想を振りまいてくれないことから優しくすることを損だと考えた。


「うぜえな、いいから来い」


 一人の男が手を伸ばす。豪華な装飾の指輪が3つほどつけられており、掴まれたら跡が残りそうだ。傷害未遂も追加、葛城はそう考えたが彼女の腕が掴まれることはなかった。成金小僧の手は黒い革手袋をつけた青年によって握られていた。


「何をするつもりですか?」


「話してるだけだ。絡んでくんな」


 青年がちらりとこちらを振り返る。歳は20代前半に見えた。顔立ちは大人びて整っているが、幼さが抜けきっていない。青年は軽く会釈をして再び男へと向き直る。

 

「かなり怖がっているじゃないですか。もうやめてください」


「はぁ?」


「えっ?」


 葛城は自らの頬を触る。この表情筋を最後に動かしたのはいつだろう。感情の揺らぎは自分で処理できるから他人に向けて出力する必要はない。気味が悪いと言われたこともあるが、他人の気味を良くする義理もない。そう思い特に直そうともせず生きてきた。


「いやいや、すました顔してんだろ。俺達は女を口説いていただけで」


 現に男達の目には無表情に見えている。青年は自分の顔に何を見たのか。なぜ自分が怖がっていると思ったのか?


「途中から聞いてましたけど見事に振られていたじゃないですか。何故自分から恥を晒すんですか? これ以上、彼女を困らせるなら自分が代わりに話を聞きます」


 考えている内に男達はそそくさと背中を向けた。青年の心無い言葉に傷ついたからではない。懐から取り出された警察手帳を見て蜘蛛の子を散らすように消えていった。なるほど、桜田門の代紋は育ちの悪い成金に効果抜群のようだ。自分も最初からそうすれば良かった。


「ありがとうございます。助かりました」


「いえいえ、近くにいれて良かったです。物騒な世の中ですから危ないと思ったらすぐに通報してくださいね」


 感じの良い青年だ。新人時代の配属先があのような男ばかりだったら良かったのに。そう思ったのも束の間、メールの通知音が鳴り響く。仕事用の携帯電話からだ。葛城は慌てて画面を開く。それは尾行の指示だった。対象と現在の足取りが記されている。だが、足取りを見る必要はなかった。対象の顔はついさっきまで見かけた顔だったから。



 ――――――――――――――――――――


 まるで牢獄の中にいるようだ。

 石妖香は使い捨てに見える薄い生地のカーペットを幾度となく踏みつけた。簡素なメタルフレームに載せられた薄いシングルベッド、パソコンと本を置けばキャパシティを超えるであろう木製のデスク、数時間も座れば腰を痛めるような合皮のチェア。部屋で目を引くものといえばそれぐらいで、四方は白色の壁材で覆われている。窓はなく、LEDの照明は今が昼か夜かも教えてくれない。体の中で蛆虫が這いずり回るかのような感覚。一匹残らず吐き出すかのように叫びたい。だが、扉の向こうに人がいることを忘れるほど理性を失ってはいなかった。


「……クソっ!」

 

 代わりに椅子を叩き潰すかのように乱暴に腰掛ける。安物の家具は軽い体重を難なく受け止めたが、軋み音を立てる。まるで文句を言われているようだ。叩きつけて壊さなかったのは女の力では出来ないからだ。もし男に生まれていたのなら、椅子は見るも無惨に散っていただろう。世間では男女平等を求める声が多々あるが、生物学には届かない。殴られれば許しを請うことしかできないし、首を絞められれば殺意が消えるように祈ることしかできなかった。


――ごめんなさい。許して。もう言わないから。

 

 必要のない記憶が執拗に付きまとう。原因は明白、考えることが他にないからだ。やはり家の中で何もせず過ごすことは性に合わない。冒険がしたい。とはいっても山を登るわけでも海を渡るのとは違う。ペントハウスよりも高価な実験室で顕微鏡を覗き込んで目に見えない世界を歩きたかった。

 目に見えない世界。人類は生まれてからしばらく細菌の存在を知らなかった。16世紀後半にようやく顕微鏡(現代のような精密機器ではなく、拡大鏡を2枚重ねた単純な構造)を手に入れ、17世紀後半に細菌の存在を知った。腐敗、発酵、化膿、そして、感染。家に帰れば手に洗う習慣は少し前の人類には存在しなかった。幼い石妖もそうだった。当時、彼女は盛んに外へ出かける子供だった。あの角を曲がればどんな景色が広がっているだろう? あの店には何が売っているのだろう? まだ見ぬ世界に魅せられ、幼い少女は街中を探索した。だが、楽しい時間の終わり、家に帰れば母に必ず手を洗えと言われる。大人にとっては苦もない作業でも子供にとっては友達の友達と遊びに行くように気が乗らない。石妖は母を意地悪だと思った。必要のないことを懲りずに毎回毎回頭ごなしに無理強いする性悪婆さん。とは面と向かって言う勇気のない石妖は不平不満を父親に訴えた。手に石鹸ではなく、買ってきたばかりのアクセサリーをつけたい子供のわがままを父は笑わなかった。世界には小さな生物がいて、それが可愛いアクセサリーにつけない為に手を洗うんだよ。そう優しく諭されたが、石妖少女は嘘だと癇癪を起こした。我ながら手のかかる子供だと思う。だが、父は起こることなく次の日に電子顕微鏡を買ってきた。使い方を一通り説明され、その通りに動かしてみると自分の常識が崩れ去った。目玉一つほどの小さなレンズの向こうには存在しないはずの世界が広がっている。新たな世界は幼子の心を掴んで離さなかった。

 細菌の歴史を知ったのもその時だった。かつて偉人と呼ばれた賢い人間が見えなかった世界を今の自分は見ている。そう思うと胸が高鳴った。もっと先に、自分だけの世界を見てみたい。幸運にもその願いを叶える環境は揃っていた。医者の父と弁護士の母は可愛い一人娘の望みを叶える力――豊富な財力とそれを子供に費やす親心――があった。車を数台買えるほどの高価な機材の数々が並んだ部屋で、石妖は青春のほとんどを過ごした。女子校の同級生とは趣味が合わない。中身のないアイドルに何も買わないショッピング、頭ではなく時間を使う娯楽に興じる人間を心底見下していた。

 

――対等な人間はいない


 中学校、高等学校、大学校。いずれも世間的に難関と呼ばれるレベルの学歴を積み重ねてきた。進学する度に同級生の質は上がっていったが、対等な人間は一人もいない。秀才と呼ばれる学生達の中でも一際目立っていた。大学の研究室に配属されると教授のほうから助言を求められたぐらいだ。冷静に受け答えはしたが、内心は飛び上がりそうなほど嬉しかった。世間一般では賢いと言われている男でも自分の足元に及ばない。自分の倍も生きている癖に、同じ視線に立つことは叶わなかった。


――賢い人間が見えなかった世界


 全ての単位を最高評価で獲得し、卒業論文は学内の最優秀賞にとどまらず学会の話題となった。日本人女性初のノーベル賞も近いと言われメディアの取材を受けたこともある。当時のインタビュー記事はまだ残っているだろうか。検索をしようとスマートフォンを手に取ると同時に通話が鳴り響いた。

 画面に表示された発信者は『天道世直』。石妖は予め知っていたかのように応答ボタンへと指をスライドした。


「……どうしたの?」


『ちょっと心配になって。元気?』


 言葉が出ない。ただスマートフォンを強く握りしめる。元気も何もあるものか。誰のせいでこんな目にあったと思っているのか。喉から出かけた言葉は荒い息と共に消えていく。

 ――殴られれば許しを請うことしかできない


『まあ、そんな訳ないか。巻き込んでごめんな。香には手を出させないから安心してくれ。全部落ち着いたらデートの続きをしよう。欲しい物があれば何でも』


 石妖は胸に手を置いて深く息を吸う。さしあたって警戒するべきは天道ではなくレインコートの男だ。銃で何度も撃ったのに倒れなかった化け物。警察の保護下にある今でもまったく安心ができない。


「じゃあ、研究室にある機材と血管拡張薬の在庫をあるだけこっちに届けて」


『どうした? 胸が痛いのか?……あー、そういうことか。分かった。すぐに手配しよう』


 じゃあまた、といって通話は途切れた。天道の気に入っているところが頭の回転が早いことだ。自分よりは劣るが、会話に追いつくことはできる。石妖はベッドに背中から飛び込むと、再びエゴサーチの作業へと戻った。

 


――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「ゴースト相手に日和見やがって、馬鹿共が」


 特殊能力対策室第一係追跡班長、富嶽武は捜査車両のハイエースに乗り込むや否や悪態をついた。所属が公安警察の中枢であることを考えれば軽はずみな行動だが、富嶽は気に留めなかった。聞きたければ聞かせてやる、遠慮はいらない。

 雲霧の手前、折衷案を提示するしかなかったが本心でいえばゴーストにありったけの銃弾を叩き込みたかった。ゴースト、六徳優。印象としては好青年。話を信じるならば、制服警察官とは思えない能力を持っている。銃で武装した犯罪者に怯まない精神力。即座に銃を発砲する判断力。ゴーストと互角に渡り合える戦力。

 対策室にとっては喉から手が出るほど欲しい逸材だ。だから、庇うのか? 富嶽からすればそれが六徳を危険視する理由だ。ゴーストは枷をつけられない猛獣だ。彼らは法も秩序も全て無視して、己の判断基準で悪と決めた人間を手当たり次第に殺し回る。要は優秀な敵がいるだけだ。叩き潰さない理由がどこにある?


――ごめん、兄ちゃん


 だが、自分一人では迂闊に動けない。雲霧優の存在が厄介だ。かつてSATの小隊長として作戦成功率を限りなく百に近づけた男。地下組織が山に籠城した時には狙撃銃と四〇発のライフル弾を担いで突入し、四三人の頭を吹き飛ばした。原子力発電所にテロリストが侵入した際には、サブマシンガン片手に建物内を走って五六人を蜂の巣に変えた。その過程で彼が撃たれたことは一度もない。射線を避けるだけ、部下からの質問に彼はそう答えた。

 元はキャリア採用で入庁したが、現場へ配属される若手時代に発砲事件と傷害事件を立て続けに起こして自らの経歴を破壊した男。警察を辞めさせようにもその圧倒的な暴力の才能を裏社会で発揮することを恐れられて、首輪をつける意味で懲戒解雇を免れた問題児。あわよくば殉職してくれと上層部に祈られ危険な現場に放り込まれ続けたが、今の今まで生き延びてきた。

 ゴーストとの戦いにおいてはこの上なく頼りになる味方だが、六徳に関しては敵側だ。先程も彼を守ろうと拳銃に手をかけていた。桜寺が止めなければ自分は確実に撃たれていただろう。このまま六徳を狙えば殺される。追跡班の全員が銃で武装したところで我々は命を失い、雲霧は1時間を失うだけだ。だからこそ、まずは雲霧に対して六徳殺害の正当性を示す必要がある。

 その為に六徳の監視を始めた。葛城からの報告からゴースト殺害を正当化する材料を必ず引き当てる。特殊作戦用の周波数を設定した無線機が低い唸りを上げた。


『葛城です。対象の動きについて報告します』


「何か動きが?」


『はい。対象は業務スーパーに入ると籠を手に取り、青果コーナへ入りました。籠に放り入れたのは玉ねぎ、じゃがいも、人参。現在、精肉コーナへ進行中です』


「……それで?」


『晩御飯のメニューは肉じゃが、もしくはカレーのどちらかと推定され……』


 通信を切断する。何も聞こえなくなった無線に向けて、富嶽は重々しい溜息をついた。

 葛城加蓮。キャリア試験を主席で通過した才女。注目すべきは集中力の高さであり、どんな些細な情報も決して見逃さない。些細な情報。確かに間違ってはいない。『逐一報告しろ』と指示を出したのは紛れもなく自分だ。悪いのは自分だろうか。今度、室長に部下への指示方法について教えを請う必要があるかもしれない。そんなことをぼんやりと考えていると、悩みのタネ選りすぐりの人員の連絡を受けて無線機が再び唸りを上げた。


『葛城です。対象は精肉コーナにて、牛肉を購入。そして、香辛料コーナーでルーを購入したのでカレーで確定です』


「……牛肉の情報いるか?」


『重要です。カレーに牛肉を使うという事実から対象は西日本の出身と断定されます』


「ふざけるな! 真面目に仕事をしろ!」


 我慢の限界だった。人の命が懸かった緊急事態に下らない報告を聞かされ続けるのかと思うと冷静ではいられない。


「それはこちらのセリフです、冨嶽警部補。彼がゴーストに覚醒し、監視が必要なことは理解しました。しかし、逐次に報告する目的はなんですか? 窃盗の疑いであれば手元を、痴漢の疑いであれば目線を警戒します。そういった目的もなく、犯罪の兆候が見られない非番の警察官を監視すれば報告は日常的な動作になります。私の報告がお気に召さなかったようですが、それ以外に言えることはありません。情報の選別がお望みであれば、基準を教えてください」


 冨嶽は目を丸くした。即座に言い返されるとは夢にも思わなかった。反射的に怒鳴り声が出そうになるが、言葉にならない。荒い息を何度か履いていると、血の気が引いて頭が冷えてきた。


「……悪かった、申し訳ない。情報の選別はこちらでするから気にするな。変わらず報告してくれ」


『承知しました。念のため報告の事実は雲霧警部と桜寺警部補にも共有します』


 額に嫌な汗が流れたが、止めることはできない。この論客を言いくるめるぐらいなら雲霧を殴り飛ばす方が簡単だ。


「分かった。それと六徳優は東京出身だ」


『えっ?』


 通信を切断する。張り詰めていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。対象は民間人が多い施設に長時間居座っています。危険だから殺しましょう? そんな報告をするぐらいなら雲霧に撃たれるより先に自分の頭を撃つ。座席に背を預け、深い溜息をつく。六徳優。覚醒したばかりのゴーストがスーパで買い物をしているとは想像も出来なかった。

 だが、不思議なことではない。人として生きている以上は飯は食うし、疲れたら眠るだろう。人の何倍も素早く動こうが、魔法のような能力を使おうが、彼らは人間だ。生きている。自分はそんな彼らを殺そうとしている。この社会を脅かす存在として。

 社会を脅かす存在。雲霧が狙撃したゴーストは間違いなくそう言える。殺人未遂の現行犯。だが、六徳についてはどうだ。彼はゴーストから被害女性を守り抜いただけ。誰も殺していない。仮に殺していても、立証が出来ていない。それなのに殺すのか? ゴーストだから? 恨みがあるからと見境なく人を殺すゴーストのように?


「……俺は間違っていない」


 呪うように呟くと富嶽は懐に手に入れた。取り出したのは古い型のスマートフォン。手慣れた様子でメッセージアプリのブックマークを開く。登録されているのは一件のみ。件名はない。本文にはただ次のように書いてある。


 ――『会いたい。話したいことがある』

 

 文面を見つめたまま富嶽は僅かに震えた。雪山の洞窟で寒さを耐えしのぐ遭難者のように。記憶は残酷だ。忘れたい過去ほど、脳裏に焼き付いて離れない。


「奴らは、殺らなきゃいけねえんだよ」

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