第4話 禍根

 腹に突き立てられたのは黒いジャックナイフ。恐らく刀身は十センチも無いだろう。だが、的確に急所へと刺さった刃は致命傷を生み出していた。それだけではない。上に向けた刃で押し切り、内蔵を引き裂くつもりだ。

 傷口から血が抜ける。軽くなった体が激痛の悲鳴を上げる。寒空に裸で放り出されかのように体の芯が冷たくなる。まるで底のない沼に深く沈んでいくような感覚が頭にまとわりつく。

 未知の感覚ではない。生前最期の記憶が爆発するように蘇った。黒のナイロンパーカー。顔全体を覆うスキーマスク。あの日と同じ光景。妹の尊厳が奪われた日であり、母を奪われた日であり、自分が殺されたあの日と。


―――ざわざわと虫の這う感覚。


 蛆虫だ! 立華は襲撃者の腕を掴んだ。刃の侵攻を引き止める。グローブが破るつもりで握りしめた。聞き心地の良い歪な音が響き渡る。肉が圧され、骨が軋む音が。襲撃者は悲鳴を上げた。情けなく、野太い声。耳障りな音に腹の底からマグマのような怒りが湧き上がる。

 人の腐肉を喰らう蛆虫の癖に人間らしいことをするな。この程度で痛みを訴えるなど許さない。お前たちは何も言えずに死ね。


「這いつくばえ! 蛆虫らしく!!」


 拳銃を引き抜き、安全装置を指で弾くと同時に銃口を腹へと向ける。スライドが独りでに引かれると同時に、素早く2発撃つ。豆を炒るような銃声と共に血を撒き散らし、襲撃者は力なく膝をつく。その額に迷わず1発。目を開けたまま仰向けに倒れる死体が一体出来上がる。

 蛆虫らしい姿。お似合いだよ。瞬間、首筋に鋭い衝撃が走った。重なる複数の足跡。忘れていた。蛆虫は群れる。隊列を成して、腐肉へと食らいつく。


「よくも兄貴を!」


 虫の家族構成など知ったことか。踏み潰せば皆一緒だ。振り向くと同時に引き金を絞った。数は3、一人ずつ頭と胸に4発。男達は血飛沫を上げて回転しきった駒のように崩れ落ちる。瞬間、背筋に灼熱が駆け抜けた。肩から腰にかけての裂傷、血が流れ落ちる音は体の奥へと響き渡った。命に届いていてもおかしくない。脳を溶かすような苦痛は屈辱的な最期を想起させる。


――ざわざわと、虫の気配がする。


「返せ!」


 歯が割れるほど噛み締め、立華は身を翻して背後へと蹴りを放った。黒シャツにサスペンダーを重ねた長髪の男が視界に映ると同時に足に確かな感触が返ってくる。順手に構えられたドスの刃が脛に食い込む痛みの感触だ。


「若いな。速いが、動きが直線的だ。止めるのは容易い」


 男は笑う。だが、それは一秒も保たなかった。足にドスが食い込んだまま強引に振り切られた足が男の頬に突き刺さる。爪先で頬を刺され、横合いに吹き飛ばされた男は歯を何本か飛ばしながら、コンクリートの壁へと叩きつけられた。


「足の一本で止められると思ったか。てめぇらが俺から奪ったものはこんなもんじゃねえだろ。蛆虫の群れめ、根絶やしにしてやる!」


 ドスの抜けた足を地につける。傷口が開き、じくじくと痛む。だが、気にならなかった。骨が折れれば、誰かに叩かれても気づかない。眼の前に蛆虫が這っている不快感はありとあらゆる苦痛を上回る。不快感を解消するには殺すしかない。拳銃は既に撃ち尽くした。立華は銃を捨て、バックパックからナイフを引き抜く。


「……うるさいな、マジになりやがって。大した根性だが意味はない。お前はもう終わりだ」


 男の声は気怠げだが、妙に自信がある。その意味を立華はすぐに悟った。手に力が入りづらい。恐らく先程の痛みは注射針を打たれたことによるものだろう。中身は麻酔の類か。このままでは柄を握れなくなる。


「何も終わらない」

 

 立華は手の側面にナイフを突き刺す。これで根本まで差し込まれた刃は骨で固定された。握力を失っても蛆虫を斬れる。だが、麻痺が全身に広がってしまえば元も子もない。薄汚れた地面を蹴り上げ、男へと肉薄する。


「化物が」


 路地裏に響き渡る金属音。斬撃はドスで受け止められていた。ゴーストの力で文字通り押し切ってやる。瞬間、足に鋭い痛みが走った。思わず下を見れば男の足が傷口に叩きつけられていた。力が抜けると同時にドスが迫る。狙いは首筋。立華は腰を落とし、大口を開けた。頬が裂かれ、顔が潰れる。狙い通り。思いっきり噛みしめる。これで捉えた。刃の先端で男の心臓を狙う。刺突は肉を貫き、血が舞った。だが、命はまだ届いていない。左腕を盾にされ、心臓には触れられなかった。このまま押し切ってやる。力を込めるが、拮抗は崩せなかった。男がゴーストの力を上回っているからではない。自分の全身に力が入らなくなっている。


「やっと効いてきたようだな。おい、もういいぞ」

 

 声と同時、複数の足音が近づく。ざわざわとする虫の気配。震えると同時に新たな手に足が掬われる。焼け付くような激痛が全身を駆け巡る。それでも動けない。体が蛆虫に支配された。ざわざわと虫が蠢く感覚。耐え難い吐き気が喉元まで迫り上がる。

 殺らなくては殺らなくては殺らなくては。憎悪と屈辱で顔が潰れそうだ。だが、今は眉間にしわを寄せることもできない。抵抗できず、路地裏から引きずり出される。瞬間、放り投げられた。待機していたワンボックスカーの後部座席に。視界が白黒に点滅する。ドアが閉められる音だけが反響して聞こえた。


「早く出せ! 他の警察が来たらまずい」


 僅かな駆動音と共に車が動き出す。スモークが貼られた窓には何も写らない。

 恐怖。焦燥。湧き上がる負の感情は蛆虫に内蔵を喰われているようだった。殺さなくては殺さなくては殺さなくては。立華は深く息を吸い始めた。



―――

――


 彼らは既に亡き者、この世にいないものだった。

 ゴーストではない。警察庁警備局公安課特殊能力対策室に所属している職員だ。戦闘専門の第一係と調査専門の二係からなる組織の存在は厳重に秘匿されている。理由は2つ。1つには敵から報復を避ける為だ。ゴーストからは無論、ゴーストから狙われるような罪を犯した人間が保身の為に捜査官に危害を加えることがある。ゴーストと標的、どちらも警戒するべき敵だ。もう一つは敵と戦う際、法を超える必要があるからだ。発砲の許可を求めている間にゴーストに殺される。令状の請求が知られれば標的に殺される。そうして自然と超法規的活動を行う秘密警察が生まれた。

 第一係はゴーストを監視し拠点を特定する追跡班、追跡班に補足されたゴーストを逮捕する確保班、確保版の逮捕が困難と判断されたゴーストを殺害する急襲班から構成される。第一係の係長とその下部組織である急襲班の班長を兼任する雲霧優は息を吐いた。胸の隅から隅までを空にするような深い溜息。それでも表情は変えぬまま取調室の隣へと入る。直後、胸ぐらを掴まれて壁へと叩きつけられた。

 

「何を考えてるんだ? あれはゴーストだぞ!」


 追跡班長、冨嶽武。隣の部屋どころか建物全体に響き渡るかと思うほどの大声には迫力がある。入れ墨のように顔全体を覆う傷と鋭い目つきが加われば尚更だ。暴力団の組長と紹介されれば疑う人間はいないだろう。しかし、外見は彼の人間を正確に語れていない。元交通機動隊で顔の傷は暴走車から子供を守るときに負ったものだ。


「やめなさいよ冨嶽!」


 確保班長、桜寺満。アイドルと紹介されても違和感を覚えない顔立ちと体型だが、190cmと並の男より長身となる肉体は一部の隙なく鍛え上げられている。急襲班長として屈強な部下を何人も持っているが、彼女に敵いそうな者はそういない。相手が凶悪犯やゴーストであろうと殺害を望まない穏健派だが、武装したゴーストを素手で殴りかかる度胸がある。


「落ち着いてください。どうかしましたか?」


「どうもこうもあるものか。さっさと殺せ!」

 

 おおよそ警察官とは思えない発言だが、部下の何人かは肯定するだろう。ゴーストは超人的な肉体と異能の力を振るい、銃器で武装した小隊すら突破する。

 三年前に起きた東京中央少年院襲撃事件はその事実を警察に知らしめた。犯人はたった一人の若者。凶器はたった一振りの日本刀。当直の刑務官と特別機動警備隊を峰打ちで無力化し、受刑者234名を殺害した。その後、通報を受けて駆けつけた機動隊とSATを振り切り今もなお捕まっていない。

 人の手には負えない怪物。だから、覚醒して間もない今の内に殺すしかない。冨嶽はそう考えているだろう。例外には例外、原則を無視した行動が正しい場合もある。


「殺しはしません。免責特権があるとはいえ、私達は法執行機関であることをお忘れなく」


「へぇ、随分とまともなこと言うじゃねえか。ただの人間なら今まで散々殺してきた癖によ!」


「冨嶽!」


 354人。SATとしての雲霧が残した殺人の公式記録だ。殺人警官と非難されてきたが、奪った命に対して負い目を感じたことは一度もない。いずれも愚かな選択を行い、他人を理不尽に傷つけようとした者達だ。何が悪い? この国では人を襲った獣は銃殺される。誇りに思うことではないが、誰かがやらなければならないことだ。人間の世界は放っておけば、ゴミが溜まって汚くなる。自分のように手を汚して綺麗にする人間が必要だ。

 おそらく冨嶽はそれと同じことだと言いたいのだろう。すべてのゴーストをこの世から消すべきだ。ゴーストに人生を破壊された者としてそう思いたいのだろう。

  

「桜寺。お気になさらず、私が説明しますから。冨嶽、物事には正しい順序があります。私達の仕事も例外ではありません。

 法を犯した者を容疑者として逮捕する。容疑者がゴーストであれば私達が動きます。その上で通常捜査が難しければ容疑者殺害を含めた超法規的措置に移ります。

 現時点で彼が犯罪者であることを示す証拠はありません。本来、私達の出る幕はない。まあ貴方の懸念も一理ありますから、監視は行いますが」


 だが、六徳に手出しはさせない。ゴーストに覚醒した理由は分からないが、彼が人を殺すとは思えなかった。強がっているが、気が弱くて優しい子だ。汚い血に染まった自分とは違う。悪意を向けることすら許さない。


「そうよ。あんな若くて素直そうな子によくもそんな酷いことを」


「……そういう考え方も大事ですね」


 論点が多少ずれているが桜寺の援護はありがたかった。直接戦闘に関わるのは急襲班と確保班だけだ。戦闘経験のない追跡班には戦闘のノウハウがない。彼らだけでゴーストに挑むのは自殺行為だ。冨嶽もそれを理解しているのだろう。縋るような目でこちらを睨んでくる。


「呑気な事を言うな、桜寺。彼が本性を隠している可能性を何故考えない。雲霧さんもどうしたんですか? 知り合いだからといって情を見せる人ではないはずだ。奴はゴーストです。放っておれば組織に取り込まれて殺人兵器にされる。そうなる前に殺さなくてはいけないでしょう。冷静になって考えてください」


 雲霧は表情を変えなかったが、怒鳴りつけられている時より強い焦りを感じていた。今、六徳と冨嶽を引き合わせるわけにはいかない。ゴーストに覚醒するとは一度殺されることだ。精神的な負荷は医学で定義される範囲を遥かに超えている。その上これほどの敵意に晒されれば、最悪の事態になりかねない。そうなる前に対処をしなければ。

 その時、扉が開く音が聞こえた。嘘だろ? 背筋に冷たいものを感じながら、振り返ると六徳がその場に立っていた。


「雲霧さん、そちらは同僚の方ですか?」


 迂闊だった。勝手に動く可能性を微塵も考えずに、手錠をかけずに置いておくなんて間抜けすぎる。彼はただ公安に異動になることを知って挨拶に来ただけだろう。だが、彼の人となりを知らない人間から見れば、ゴーストに覚醒したばかりの危険な存在が突然現れたということだ。

 つまり富嶽にとっては緊急事態。見れば、彼の無骨な右手がスーツの内側へと潜り込んでいる。後手には回らない。最善手を選択する。今この瞬間に。雲霧は素早く腰のホルスターに手を伸ばし、拳銃のグリップを握りしめた。冨嶽が銃を抜くより先に決着をつける。頭と心臓に一発ずつ撃ち込む1秒があれば十分だ。


「はじめまして! 六徳優です。階級は巡査ですが、精一杯がんばります!!」


 研ぎ澄まされたナイフのように鋭い殺気が激突した空間に、朗らかで明るい声が高々と響き渡る。二人は武器を服の内側で持ったまま動きを止めた。六徳の声に虚を突かれたせいもある。だが、それ以上に手首を抑える桜寺の握力が手錠の如く頑強で二人の男は動けなかった。


「いい心がけね。私は桜寺満。こちらこそ、よろしく」


 星空のような笑顔を六徳に向ける桜寺。新人警察官が照れて俯いた瞬間、顔に般若を宿して二人の男を交互に見る。背筋に寒気を感じて、雲霧は指先から力を抜いた。グローブで手首を覆っていなかったら危なかった。富嶽も同じく降参したのだろう。一息をついている間に手首が離され、両者共に戒めから解放された。


「……富嶽だ。よろしく」


「桜寺さんに富嶽さんですね! 改めてよろしくおねがいします!!」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「なぜ笑う?」


 蜂須恵の苛立ちが込められた言葉は同僚に向けられたものではない。幹部はそれぞれ得意分野の仕事をこなす為に病室を後にしている。残るはただ一人、地味な入院着から黒いシャツとスラックスに着替えた天道だ。

 彼の表情を見ていると状況を理解しているのか不安になる。街中で銃撃され、犯人は逃走中。今にも襲われるかもしれないという状況でにやにやと笑う人間の心情は理解できない。

 他人ならば馬鹿な奴だと無視をすれば済む。だが、この男は組織の心臓であると同時に頭脳だ。攻撃されれば致命傷となる。どれほど愚かだとしても、守らなくてはならない。


「嬉しいからだろ。例えば世界一の美女とデートするって時に仏頂面で待たないだろ?」


「お前みたいな表情はしない」


「おいおい嘘だろ。その歳で童貞か?」


 冷たい視線に天道は恋人を抱きしめるように広げた両手を天に向ける仕草で応える。らんらんと宝石のように輝く瞳は新しいテレビゲームを買ってもらった子供のようだ。つい数時間前に銃創の治療を受けていたとは思えない。


「俺のいじめっ子嫌いは知っているな? 人を傷つけるのは別に良いんだ。何をやったって誰かは傷つくわけだからな。悪意を持っているかどうかなんて大した差じゃない。でも、いじめっ子というのは決まって反撃された途端にヒステリーを起こすだろう? 自分は大したことをしていないのにお前のはやりすぎだってな。そんな情けない話を聞くとイライラする。自分が傷つく覚悟がないのなら他人を傷つける資格なんてない。たとえ子供を殺されたとしても、シマウマがライオンに噛みつくか? 馬鹿でも分かる当たり前のことが分からない馬鹿が世の中に多すぎる。三ヶ月前に潰した連中もそうだった。生活保護者の健康体を切り刻んで荒稼ぎしていた半グレだ。覚えているか?」


 覚えていた。生活保護者の医療費は本人ではなく国の負担となる。本人に支払能力がなくとも、料金を踏み倒される恐れはない。天道が話題に上げたのはその制度を悪用した詐欺グループだ。経営難に陥っていた個人病院を抱え込み、生活保護者を入院させ、必要のない医療行為を繰り返して荒稼ぎをしていた。

 中世期製薬の顧客にも生活保護者がいる。他人と事実を高みから見下ろす趣味を持つ天道は彼らの手術歴がやたらと多いことに気付き、真実へと辿り着いた。だが、警察には通報していない。代わりに鳴寺を連れてアジトへ襲撃し、幹部を二人殺害した。頭を撃ち抜かれた医者と喉を切り裂かれたケアマネージャーを前に半グレのボスは呆然としていたらしい。可哀想に。わざわざ鳴寺を連れて行くなんて蟻を潰すために戦車を走らせたようなものだ。腰抜けは生きるに値しないと思うが、この暴君に目をつけられたことには心から同情する。


「期待していたんだ。俺と同じ世界に住んでいると思ってな。命は金よりも軽い。飯の種になるならいくらでも消費される。自分の命を守るには全身全霊で戦わなければならない。だから、手に汗握る殺し合いができるとわくわくしていた。しかしまあ、敵は首に刃を当てればつまらないことしか言わないクズだった。大人から強く注意されないからと、机や教科書にくだらない落書きをするクソガキと何も変わらない」


 天道はそこで一呼吸ついた。ミネラルウォーターのボトルを開けるとテイファニーのグラスに並々と注ぐ。どちらも鳴寺に用意させたもので毒殺の恐れはない。


「だが、今回は違う。警察官が来ても逃げなかった本物の武人だ。全力で徹底的に戦ってやろうぜ」


「何を呑気な事を――」


 叱責の言葉は続かなかった。眼の前にグラスを差し出されて、蜂須恵は思わず言葉を失った。


「お前は何よりも強い武器だ。頼りにしている」

 

 高揚感。この男から期待されると応えなくてはならないと義務感に駆られるのは何故だろう。天道世正という男を一言で表すなら悪魔だ。人間としてあるべき姿からかけ離れているが、引きずり込まれるような重力がある。


「失礼します」


 ノックと同時に扉が開かれ、病院の清掃員が部屋に入ろうとする。蜂須恵は彼らを左手で制し、背後の警察官に目を配る。警察官は何も言わず静かに頷いた。


「どうぞ。私は外に出ますから」


「あ、俺も外に出るよ。じっとしすぎていると頭が回らなくなるからな」 


 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 中世期製薬総務部長、阿久良拳也は社内のガラスで唯一スモークの張られていないフロントガラスから空を眺めた。数千メートル先の世界。目を閉じると、そんな場所に行こうと歯を食いしばった昔の自分を思い出す。翼が生えているわけではない。それどころか親の顔を見ることさえできない。非行少年と非行少女の火遊びで意図せずこの世に生まれ落ちた子供が夢を見た。

 だが、夢というのは現実から最も離れたところにある。地上は狭く、汚く、息苦しい。特に学校は残酷だ。親がいることが当たり前の世界に孤児が一人混ざれば、胸糞悪いドラマが数作出来上がる。もし自分が物語の主人公ならばと考えた事がある。誰かが自分に手を差し伸ばし、一人また一人と自分に味方をしてくれる。そうして最終回ではクラスのマドンナと結ばれてハッピーエンドになっただろう。しかし、現実の阿久良は第二話を迎える前に拳で物語を終わらせた。男の癖に髪が長いと鷲掴みにしてきた同級生の顔面に渾身の一撃。竹とんぼのように宙を舞う馬鹿を見て周りは笑うのをやめた。その瞬間、嘲笑と嫌悪に満ちていた世界はがらりと変わった。結局、天涯孤独の自分に味方などいない。幸せになる為には、自由を得る為には戦うしかない。

 自由。食べたいものを好きな時に食べられることだ。気に入った服を着て街の中を歩くことだった。見下すような目で見られることなく、二人の親に育てられた子供と同じことができることだった。父親と母親に捨てられたことの何が悪い?自分ではどうしようもない出来事だ。なのに、たったそれだけで自分はゴミのように扱われた。

 星のようになりたい。目がくらむほどの輝き、そこにいるだけで認めざるを得ない存在に。だから戦った。手を出されれば必ずやり返し、喧嘩自慢をする者がいれば即座に叩きのめす。ボタンのなくなった制服はいつも破れ、血がついていた。誰にも負けなければ、誰よりも強ければ、自分のことを認めざるを得ないだろう。しかし、現実は阿久良が思い描いた物語とは違う。18歳になるより先に学校と孤児院から追い出され阿久良は路頭に迷った。

 願いとは裏腹に後ろ指を差された若者に、手を差し伸べてくれたのは極道だった。あてもなく繁華街を歩いていると強面の男達に飯屋へ連れて行かれた。腹をすかせた食べ盛りの少年にとって焼肉は何よりのご馳走だった。気前よく払ってくれる大人達から子分になるように言われ阿久良は即答する。暴力が許される裏社会でようやく自分の人生が始まる。そう心が踊ったのも束の間だった。警察に捕まるどころか命の危険すらある仕事の数々をこなしても、兄貴達は口先で褒めるだけで僅かな小遣いをくれるだけ。組にとって使い捨ての駒に過ぎない存在だと馬鹿でも気づく。それでも組を抜けなかったのは手遅れだからだ。逃げたところで組か警察かには捕まってしまう。死ぬか刑務所で余生を過ごすか。それよりマシだと自分に言い聞かせて人並み以下の生き様に耐えた。耐えるしかなかった。歯を食いしばって、上を目指すしか。そうして、20年ばかりの月日を駆け抜けてようやく若頭になれた。次期組長も夢ではない。ようやく自由を手に入れられる。その矢先、組が消滅した。先代の跡をついだ息子が就任から一時間も経たないうちに解散届を警察に提出したせいで。


「口座も作れねえで何がシノギだよ馬鹿馬鹿しい。俺がもっといい稼ぎ方を教えてやる」


 血を継いでいるというだけで組長になった男は闇の世界を生き抜いていた獣に頭を下げることは無かった。そんな男が殺されるどころか拳の一つも振るわれなかったのは、先代よりずば抜けて優秀だったからだ。仕事が危険なことには変わりないが、報酬が圧倒的に違う。末端の構成員でさえ車を買えるほど潤った。

 古株が蔑ろにされることもない。息子は元幹部の自分に表の社会的地位と多額の報酬を与えてくれた。都内のタワーマンションに住み、高級車を乗り回し、美しく若い妻を自分の言いなりに出来る。不満は何一つない。

 だが、心は空っぽなままだった。どれだけの贅沢をしても満たされることはない。子供の頃は自由が欲しかった。でも、大人になっても手にすることは出来なかった。今の生活を守るためなら、それぐらいは我慢できてしまう。自分は弱い人間だ。自分より一回りも年下の男から金を貰う為なら、恥も理性もかなぐり捨てて調教済みの犬より言うことを聞く。星のようになりたいという夢は文字通り手の届かないものだった。世の中を知らない子供が無邪気に描いた、泡沫の夢。今更思い出す必要もない。金は使えきれないほどある。つまらないことは忘れて使い道を考えるべきだ。ヘッドレストに首を預けて目を閉じた瞬間、背後から鈍い音が鳴り響く。


「……ちっ、うるせえな」


 ルームミラーを覗き込む。黒いカーテンで遮られた後部座席の向こうからは騒々しい音が絶えず漏れていた。骨が折れる音、肉が潰れる音、そして断末魔の叫び声。それは標的となった哀れな男が嬲られている証拠だった。本来ならただ殺して運ぶだけだったが、先陣を切った兄貴分が銃撃を受けて重傷を負った為に制裁を加えている。元がつくとはいえ極道の掟は捨てられない。身内がやられた時は、必ず”返し”を行わなければならない。そういきり立つ部下を表向きは褒めたたえたが、心の中では馬鹿にしていた。いい歳の癖に感情をむき出しにして恥ずかしくないのか?

 それにしても、と阿久良は溜息をつく。今日は多くの仲間を失った。敵が銃を持っているとは聞いていたが、4人の部下を失うとは思わなかった。筋弛緩剤を打たせていなければ自分も殺されていたかもしれない。凄まじい戦闘能力と恐るべき執念。あれほど厄介な標的は初めてだ。やはり汚れ仕事にはリスクがある。いつか自分の悪運が尽きる日が来るだろう。だが、今日ではない。騒音を意識から遠ざけ、再び目を閉じる。訪れた睡魔を歓迎するように、大きく欠伸をした。


 刹那、無骨な掌底がその口を塞ぎ五本の指が左頬を掴み取る。


「あがっ……!?」


「死ね、蛆虫共が」


 口元を塞がれたまま低い男の声が耳元が囁かれる。背筋を悪寒が駆け抜けた。脅しは初めてではない。実際に殴られた事も、刺されたことも、撃たれたこともある。だが、この一瞬の恐怖はその全てを上回った。研ぎ澄まされた刃のように鋭い怨嗟。皮膚がひりひりと痛む。全身の震えが止まらない。高級料亭の食事が喉元まで迫り上がった。だが、吐いている場合ではない。生きるか死ぬかの瀬戸際では動かない人間から死んでいく。

 懐のドスを握りしめる。瞬間、顔の痛みが激しさを増した。鼻が潰れ、唇が歪み、歯が軋む。動けない。唯一自由に動かせる目で見えたのは、ハンドルに差し込まれる血まみれの左足だった。


(こいつ、正気か!?)


 強引にきられたハンドルの動きに合わせて、車体は唸りを上げて勢いよく回転した。体が窓へと吸い寄せられるのも束の間、歩道との段差に激突して鉄の塊が宙を舞う。ぷちんと何かが切れた。手にもっていたドスがシートベルトを切り裂いたのだ。筋肉隆々の肉体がフロントガラスを突き破る。美しく巡り回る満点の星空。見惚れている余裕はない。全身がガラスの雨に晒され、アスファルトへと叩きつけられた。

 絶叫する。鮮血に濡れた体は指先一つ動かすことですら対価として激痛を要求してくる。耐え難い。だが、阿久良は安堵していた。何はともあれ、あの怪物から離れられたから。倒れたまま車を探す。直後、爆発音が響き渡り焦げ臭い熱風が皮膚をぬめりと舐めた。月まで届きそうなほど火の粉が飛び跳ね、ドアを失った車は絶えず炎を吐き続けている。流石に死んだだろう。ほっと一息をつきながら、阿久良はゆっくりと起き上がった。しかし、ここまで抵抗するとは。筋肉弛緩剤を注入したというのに、何故動けるのだろう。その疑問は一瞬で頭から吹き飛んだ。炎の中から姿を表した人影に全身が凍りついたせいで。


「嘘だろ……」


 運が良い悪いの話ではない。火は衣服へと確実に燃え移り、標的の全身を数百度の熱で焼き尽くしている。だが、男は立っていた。すす焦げた全身を引きずるようにして。爪先と視線をこちらへと向けて。

 視線。死にかけている者の瞳ではない。全てを呑み込むような深い闇が自分の姿を捉えている。死ぬ。確実に死ぬ。逃げようとするが足が動かない。体が目の前の現実を受け入れることを拒否している。一歩。また一歩。距離が詰められていく。それはカウントダウンに思えた。ゼロになった瞬間に、死ぬ。残り8メートル、歩数にして10歩。終わりだ。阿久良が目を閉じた瞬間、けたたましい銃声が鳴り響いた。


「阿久良殿! 離れろ!!」


 怒号に目を開く。標的の体は真横によろけ、血に染まっていた。衣服と皮膚が飛び散り、肉が露出している。それでも男の眼光は消えない。姿勢を保ち、足を前へと突き出す。そこへ銃弾の雨が降り注いだ。爆発にも似た激しい銃声の正体はアサルトライフルによるものだ。7.26mmの鋼鉄弾は慈悲も容赦もなく人体を食いちぎる。


「……助かったのか?」


 銃を撃った男達は黒づくめで人相が分からないが、おそらくポレヴィークの部隊だろう。全員、従軍経験のある兵士達だ。狙いを外すことは有り得ない。阿久良は立ち上がって標的を見る。破片に全身を犯され、自らの血で出来た海に身を沈める男がいた。

 胸の中にあるものを全て吐き出すように改めて一息をつく。怯えていた。それは認めよう。だが、もう大丈夫だ。後もう少しで日常に戻れる。殺人は罪だ。だが、死んだ人間は生き返らない。亡霊など幻想だ。呪うどころか、誰かに訴えることもない。生者の目さえ誤魔化せば無事に済む。裁かれるとしたら、それは死後だ。生きている今は遊んで楽しく暮らせるだろう。

 だから生かしてはおけない。必ず殺さなくては。阿久良は拳銃を引き抜き、倒れた標的の額へと照準を合わせる。躊躇などない。そのまま引き金を引いた。銃口が火を吹き、螺旋状の溝を彫られた弾丸が撃ち出される。目では捉えきれぬほど加速した弾丸は一直線に標的へと向かい、激突した。飛び散る破片の数々。


の破片が阿久良の膝を力なく叩きつける。


「俺を見下すな。お前らは這いつくばえ、蛆虫らしく」


 天空からの声。見れば標的は跳躍していた。吹き出る血は翼のように見え、月と重なる体は天使のようだった。堕落してしまった人間を罰する為に、数千メートル先の世界から現れた神の使い。綺麗な放物線を描いて、鮮やかに地上へと舞い降りる。銃を持った男達の眼前へと。


「撃ち方用意、撃て」


 傭兵達は冷静だった。瞬時に散らばって銃口を一斉に男へと向ける。恐らく最適解となる行動だったに違いない。しかし、化物に対しては何の意味も持たなかった。先頭に立っていた男の銃が真下から蹴り上げられる。強引な力に男の手から銃が引き剥がされた。くるくると回った銃は二回転で動きを止める。標的に構えられ、男に銃口を突きつけた状態で。

 引き金が絞られると同時に血飛沫が舞い上がった。背後から仲間を援護しようとした二人と同時に地面へと崩れ落ちる。生き残りの内、一人は側面へと回っていた。的確に狙いを定め、標的の頭を吹き飛ばす。それでも標的は止まらない。目から上を失ったまま銃を真後ろに向けて振るい、傭兵と銃身と同時に叩き割った。


「な、なんだ。何なんだよ!」


 運良く生き残った最後の一人が無我夢中で銃弾を放った。けたたましい銃声が鳴り響き、男の全身から血飛沫が次々と散っていく。ただそれだけ。傷を新たに負った化物は平然と振り返り、全長の半分を失って血に染まったライフルを手にゆっくりと歩き始める。


「くるなっ……、くるな!」


 傭兵は拳銃を引き抜き、即座に撃つ。弾丸は全て命中した。だが、それも意味がない。流れる血の量が増えても標的は倒れることもなければ、引き下がることもなかった。ゆっくりと近づいてくる。そして。かちりという金属音が夜の闇へと広がっていく。弾切れ。その瞬間、標的はライフルの残骸を顔へと突き立てた。月明かりに影を落とす飛沫。赤い血肉と白い脂肪が骨の欠片と共に地面に飛散する。傭兵はぶるぶると小刻みに震えながら、両手をだらりとぶら下げた。


「あ……、あっ……」


 雪山の嵐に囚われたように阿久良は震えだす。そして、筋肉に包まれた手から拳銃が離れた。助かるわけがない。爆撃機に竹槍に挑むようなものだ。人の手で対処できる範囲を超えている。走馬灯は流れなかった。記憶は全て黒く塗り潰されている。5分にも満たない地獄の恐怖に。


「蛆虫、蛆虫の気配がする」


 拳銃がアスファルトとぶつかり、僅かな金属音が鳴る。化物は敏感に反応した。振り返る。血に染まった歯を剥き出しにしながら、黒ずんだ瞳に無力な獲物を捉えた。阿久良は慌てて足を引く。だが、背を向けるより先に化物は跳躍し間合いをゼロに詰めた。

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