第3話 邂逅

 刃が振り下ろされる。速すぎて、もはや刀身を目で追うことは敵わない。迫りくる死の瞬間。だが、不思議なことに心は穏やかだった。後悔はない。自分は目の前で起きたことから逃げなかった。持てる全てを出し尽くして戦った。若手とはいえ自分の生き様を選べず無念に死んだ人を幾度と見ている。自分は幸せな方だ。自分の意思で道を選び、その果てで死ぬ。

 しかし、心残りが無いといえば嘘になる。脳裏に浮かぶのは母の顔。最後に交わした言葉は何だっただろうか。孝行は十分できただろうか。もう会えないと知っていれば、今朝はもっと話をしただろう。もしかしたら、父も同じ気持ちだったかもしれない。避けられない死を迎えこの世に別れを告げる瞬間、父は自分と母に何を伝えたかったのか。それは分からない。母は不幸な女性だ。今日も一人、家族を喪う。死に際の言葉を聞けないまま。自分の遺影を持つ母を思い、六徳は瞳に涙が浮かべた。


刹那、轟音と共にオレンジ色の閃光が激しく煌めいた。


 男の動きが止まる。その手にある刀は刃を根本からへし折られて、もはや使い物にならない。覆面越しにも分かるほど大きく見開かれるこの瞳。視線が六徳から外されて、哀れな愛刀に注がれる。

 瞬間、胸から血の雨が噴き上がった。焦げ臭い匂いと共に紅の煙が立ち込める。柄から離した手でレインコートの赤い染みを抑えながら、男が崩れ落ちた。虚しい金属音と共に膝が地につく。その体は小刻みに震えていた。しかし、それでも男は立ち上がろうとする。禍々しく渦巻く怨嗟の光を瞳に宿して。

 だが、それも束の間。すぐさま頭が水風船のように弾け飛んだ。頬に降りかかる血の雨。更に刺激を増す火薬の匂い。耳に鳴り響く銃の音。その全てを無視して、六徳は水面のように揺らぐ瞳で倒れた男を見つめていた。


「そんな……」


 目の前で、人が死んだ。

 彼は善人ではない。人を殺そうとした。ある意味では正義が執行されたのかもしれない。目には目を、歯には歯を、命には命を。だが、そんな事で誰が得をする? 誰も彼も目を失い、歯を失い、死ぬ。死屍累々の世界を望む者はいない。では、どうすれば良かったのだろう? どうしようもなく救えないこの結末がただ悲しい。誰も彼も傷つくことなく、幸せに生きることは本当にできなかったのか。


「すまない……守れなくて……」


「もう遅い、と言ったはずだ」


 悲しみが恐怖に変わる。六徳は息を呑んだ。眉から上が欠けた顔から、はっきりと返される言葉。瞳の光も生きている。ゴア描写が無駄に多いB級映画を見ているかのようだ。とても現実とは思えない。


「今回は見逃してやる。だが、蛆虫だと分かれば必ず殺す」


 男は手から何かを落とした。正体を確認するより先に、空気が抜けるような音と共に白煙が撒き散らされる。目と鼻の先ですら見えない白景色の中に遠のいていく足音が聞こえた。何が起きている。夢でも見ているのか。呆然としていると今度は足音が近づいてきた。複数だ。煙は薄くなり、おぼろげながらスーツ姿の男女が見えた。その手には現実では見たこともない小銃が握られている。


「一班から本部へ。容疑者は頭部、心臓部への着弾後に逃走。事象より容疑者をゴーストと断定。情報規制と追跡班への指示を」


 氷のように冷たくて鋭い声。だが、聞き覚えがある。どこで? 考える間もなく、一人の男が煙をかき分けてこちらへと歩いてきた。


「大丈夫ですか? 今手当を……」


 煙が晴れ、露わになった顔には見覚えがあった。忘れるはずがない。かつて父の部下であり自分が憧れた警察官、雲霧優は思いがけない再会に目を丸めていた。


―――

――


 あまり無理しないでね。

 うるせえ、誰がお前の為に無理なんてするか。

 立華は血のついたレインコートと覆面、武装の数々を捨てて、普通の青年へ戻っていた。柄のない白シャツに黒いスラックス。特徴を探すのが難しい服装。人混みの中から、その男を逃亡犯と見抜くことは不可能だろう。

 手を引かれたように足を止め、立華は上を向いた。どこまで続くような、澄み切った青い空。空は好きだった。店に金を払う必要はなく、家族に気を使う必要もない。何より、遠い旅に出たような開放感を味わえた。見えない先にも空は続いている。心を奮い立たせる晴天はどこで曇るのだろう、心を落ち着かせる曇天はどこで晴れるのだろう。十代の立華は暇さえあればそんなことを考えていた。

 だが、時は過ぎた。今はどうでもいい。前を向いて歩き始めた立華は喫茶店に入った。全国にチェーン展開している有名店。名前は当然ながら知っている。店に入り、席に座ったことは何度もある。だが、一人で訪れるのは初めてだ。砂糖を限界まで溶かしたような甘い飲み物。洒落の為に油気を犠牲にした食べ物。どちらも好きになれない。立華禄が唯一気にいったものが一つある。店員が心なしか不服そうに持ってくる水だ。

 しかし、今日は別のものを頼む。記憶を辿りながら、注文を店員に伝える。モンスターを召喚する呪文のような単語の羅列。正しいかどうか自信は無かったが、聞き返さずに厨房に戻った店員を見る限り立華の記憶に誤りはなかったようだ。支払いを現金で済ませ、立華はふと店内に瞳を巡らせる。早い時間のせいか、客の姿は片手で数えるほどしかいない。体をもとに戻すと、番号札もなしに商品が目の前に並んでいた。キャラメルたっぷりのドリンクに、色彩豊かなサンドイッチ。

 本当に頼んでいいの? 家にお金なんてないのに。

 うるせえ、ガキが生意気に金のことを考えんな。何も考えず食ってりゃいいんだよ。

 

「ありがとう」


 礼を言うと、店員は笑った。立華が胸焼けを覚えているとは思わず。数十分前に人を殺したとは知らず。だが、無理もない。見た目だけでは人の本質を見抜くことは出来ない。かつての自分もそうだった。蛆虫に頭を深々と下げたこともある。蛆虫。恥も外聞も捨てている、腐肉を食らい死者の尊厳を奪って生きる蛆虫に感謝をしていた。

 だから殺す。数ヶ月前から進めていたその計画は成功するはずだった。昼夜問わず尾行し、行動パターンを割り出し、襲撃地点を選定した。人通りが少なくなる道。今日に限ってはゼロになったというのに。よりにもよって、巡回中の警官に見つかるとは思ってもいなかった。その上、ゴーストに覚醒させるなんて。結局、彼は蛆虫だったのだろうか。もし違うとしたら……。立華は心の中で強く舌を打った。

 舌打ちなんかしちゃだめ。幸せが逃げちゃうよ。

 分かったよ、うるせえな。

 十年以上も前に聞いた言葉が鮮明に聞こえて立華は耳を抑えつけた。がたがたと気に障る音が響き渡る。それは自分の足が鳴らしていると気づいたのは回りの客が不審げに自分を注目してからだった。胸を貫くような焦りを覚えたが、すぐに冷静さを取り戻す。注目されているのは自分自身だ。手放したトレーが宙に浮いていることには誰も気づいていない。


「……すみません。体調が……、良くなくて……」


 消え入るような声で呟くと、立華は口元を隠して視線を足元へと落とした。害の消えた不審者にいつまでも構っているほど都会の人間は暇ではない。視線はなくなり、カフェの店内は何事もなかったのように日常へと戻る。世界とはそういうものだ。落ち着きを取り戻した立華はトレーを手に取る。そして二人用の席へとつき、トレーを反対側の端へと置いた。

 ありがとう、お兄ちゃん。

 慌てて食うなよ、取らねえから。

 立華はトレーに手を伸ばさない。未開封のドリンクとサンドイッチには目もくれず、誰も座っていない席から視線を動かさなかった。



―――――――――――――――――――――――――――――

 

 株式会社中世期専務、蜂須恵健人は病院の階段を素早く駆け上がった。

 皮膚に染みが増えた体が音を上げることはない。物心がついた時から武道家となり70年が過ぎた今も現役である彼にとっては苦もないことだ。エレベータは便利だが、やはり自分の足が何よりも信頼できる。特に戦っている時は。

 燕尾服をはためかせ、楽器ケースを背に蜂須恵は廊下を早足で進む。目的は株式会社中世期代表取締役、天道世正が入院している病室。だが、蜂須恵はまっすぐに向かわなかった。1階ごとにフロア全体を歩き、非常階段まで確認した。もちろん単なる探索ではない。刺客の動きを予測する為だ。勝敗は戦いの前に決まるもの。病室がある5階についた時、蜂須恵の頭には18通りもの侵入経路が浮かんでいた。病室の前に着くと制服警察官の姿が見える。丁度良い。蜂須恵は全ての侵入経路を検知する7ヶ所に監視を配置するように頼んだ。すると、警察官は驚きを見せた。


「その場所は既に人を配置しています。ご安心してください」


「……そうか。君たちの考えか?」


「いえ、社長の秘書からです。全く同じ場所を指示なさるなんて奇遇ですね」


 秘書。あの男がいるのか。溜息をつきながらも警察官に礼を言い、蜂須恵は病室へと踏み込んだ。最初に見えたのは天道の姿だ。入院着に身にまとい、腰から下までに布団をかけている。上体を起こしてタブレット端末を凝視していたが、一歩入るや否やすぐに目を離して顔を上げた。


「よう蜂須恵。見舞いのフルーツバスケットは持ってきたか? 皆楽しみにしてるぜ」


「そのようなもので手を塞ぐことは出来ません」


 皆。高いIQに反比例して笑えない冗談を言う天道を一睨みし、回りを見渡すと他にも知っている顔がいた。分厚い黒のレザージャケットで小柄な体を覆い尽くし、こちらと目を合わせようとしない中国人。質素な黒のシャツとスラックスを筋骨隆々の肉体に張り付け、青い瞳を真っ直ぐと向けてくるロシア人。黒いロングコートを細長い体にまとわせ、作り笑いを見せる日本人。


「毒を盛られる恐れもある。リスクは回避するべきだ」

 

 株式会社中世期秘書室長、鳴寺華糸。気に食わない男だが、信用は出来る。いつも何かに怯えている反面、敵意を察知する能力に長けていた。警戒するべき地点を導き出し、制服警察官を配置した手腕は評価に値する。


「鳴寺殿は気が回るな。しかし、蜂須恵殿の荷物に毒を仕込める人間がいるか? もしいるなら我々はもはや何も食えない。毒を受け入れるしかなくなる」


 民間軍事会社イサパラト代表取締役、ポレヴィーク=オーシェリア。気に入っているし、信用も出来る。元特殊部隊で軍事作戦の立案・実行において右に出るものはいない。風貌は屈強な海外軍人ではあるが力をひけらかすことはせず、営業部のように人を立てようとする。


「私は一緒にしないでいただきたいですね。業務を委託されているだけですから」


 顧問弁護士、天音響。気に食わないし、信用もできない。元検事で勝訴率は比較的高い。だが、新参者だ。不倫が露呈して自殺した前任の補填として事務所が用意した人員。仮面をつけるように常に同じ表情と声量で話す男は何を考えているかまるで分からない。


「そう寂しいことを言うな。もし警察に逮捕されたらお前が黒幕だって言ってやるから」


 天道は笑いながら布団を取り払って、床へと足をつける。入院着を脱ぐと、きつく巻かれた包帯が見えた。防弾ベストは弾丸の貫通を防げても衝撃までは防げなかった。本人はおくびにも出さないが、相当な激痛を感じているだろう。しかし、彼はその程度で大人しく泣き寝入りする男ではない。殴っても殴り返してこないと分かれば、死ぬまで殴り続けられる。舐められたら終わりという世界で生きてきた。だから自分たちが呼ばれた。殴り返すために。


「さて、何から話そうか」

 

―――――――――――――――――――――――――――――

 

「さて、何から話そうか」


 六徳は言葉に詰まった。無機質な取調室で見る雲霧は能面のように表情がない。かつて、彼は笑顔が素敵な人だった。静かだったが、幸せを噛み締めて嬉しそうに口角を上げる人だった。それが今は見る影もない。仕事中だから? それは違う。人間はそれまで浮かべてきた表情によって顔が変わっていくものだ。いつも笑っている人は陽気に、いつも泣いている人は陰気に。雲霧の顔は8年間、ただの一度も笑うことも泣くことも無かったように見えた。自分が警察官を目指している間、彼はどのように生きていただろう。幸せだったのか、そうではなかったのか。あの噂は本当なのだろうか。ずっと背中を追い続けたのに、何も知らないことが少し寂しかった。

 ただ今は再会に複雑な感情を抱いている場合ではない。六徳は一息おいて、ゆっくりと口を開いた。


「雲霧さんは犯人をゴーストと言いました。ゴーストとは一体なんですか?」


「端的に言えば、命を奪われた人間だ」


 六徳は寒気を覚えた。胸を刺され首を斬られた時の感覚を鮮明に思い出す。暗くて深い水の底に沈んでいくような感覚。痛みも無ければ苦しみもない、ただ消えて何も無くなっていく。息が出来なくなるような恐怖は今でも体に刻まれている。


「意味が分からないだろう? 命は回帰しない。死んだ人間は蘇らない。だが、最近になってその常識を覆すものが現れた。それがゴーストだ。

 並外れた身体能力と再生能力を持ち、フィクションのような超能力も扱える」


 身体能力、再生能力、超能力。レインコートの男を思い出す。彼の一撃一撃は人のものとは思えないほど重く、胸と頭を狙撃されても動くことができた。加えて独りでに動き出した小刀。雲霧の荒唐無稽な説明は全て事実を表している。


「ゴーストと呼ばれる所以はそれだけではない。彼らの全てが復讐犯罪を行うからだ。生前の恨みを晴らそうとする。さながら怨霊のように」


――必ず、殺す!


 蘇る男の声。燃え盛るような怒りが頬を照らすようだった。それでいて、覆面の隙間から見える瞳は幼く見えた。今にも泣きそうな子供のような、悲しみに打ちのめされた人間の目。父の葬式を終えてから、毎日笑うようになった母が同じ目をしていた。犯人は一体何を失ったのだろう。あの被害者達は彼から何を奪ったのだろう。ざわざわと胸が騒ぐ。


「だから、君は警戒されている。君もまたゴーストだからだ。間もなく傷は癒え、体は元通り以上に動くだろう。その後、どうするつもりだ?」


 平手打ちをされたような衝撃。六徳の思考は一気に記憶から現実へと引きずり込まれる。瞬き一つしない雲霧。彼の質問で六徳は自分が置かれている立場を理解した。

 監視対象。ゴーストとして覚醒した以上、疑われているのだろう。六徳はすぐに答えられなかった。怒りを感じていないといえば嘘になる。殺されて喜ぶ人間はそういない。痛かった、苦しかった、悲しかった。とめどなく湧き上がる負の感情。唾を一つ呑んで、六徳は口を開く。


「いいえ」


 雲霧は何も言わなかった。否定することも、肯定することもしない。静かに流れる沈黙は問いかけだ。”理由は?”


「俺の父親を殺した男を覚えていますか?」


「もちろん。殺すに飽き足らず、尊厳まで踏みにじった外道だ」


 飲酒運転を行った挙げ句に警察官を轢き殺した男は誰もが刑務所に行くと信じた。だが、弁護士は諦めなかった。警察官による過剰な取り調べを主張したのだ。男は恐怖を抱き、判断能力が鈍り、逃げようとして不幸な事故が起きたと。検事は鼻で笑った。裁判長は真摯に聞き入れ、執行猶予がついた。


「……私に非がないわけではないがな」


 雲霧は父の部下として現場にいた。父が轢かれた時、車を止めようとタイヤを銃で撃ち抜いている。日本の警察とは思えない強硬姿勢は弁護士の武器となった。射撃の正当性を問うマスメディアのインタビューに攻撃的な姿勢を見せたのも相手に力を与えたに過ぎなかった。


「貴方は悪くない。父の名誉を守ろうとしてくれた。でも、犯人は違う。彼は父を殺しておきながら反省もせず、保身の為に父の尊厳を踏みにじった。せめて正義が行われることを祈ったのに司法は私達を見捨てた。だから、この手で殺してやろうと思いました。そう思い母に内緒で包丁を買いました。でも、その矢先に男が死んだんです。妻子ともども、誰かに殺されて」


 事件を報道するニュース番組がテレビ画面に映し出された時、母はすかさず電源を切った。だが、無意味。黒い画面に切り替わっても、一瞬の画面が目に張り付いていた。被害者として、妻子と共に写真で映された男の顔は今でも忘れない。


「当然の報い、妻子も同罪だ。犯した罪は家族で背負っていくと言っていたからね。望みが叶い彼らも満足だろう」


 雲霧は眉一つ変えず吐き捨てた。彼は上司と共にキャリアを失っている。懲戒処分を受け、出世街道からは完全に外された。順風満帆な人生が変わったといっても過言ではない。


「俺は、そう思えませんでした」


 望みは叶った。しかし、喜びは一瞬たりとも感じない。ただ涙が止まらなかった。自分の父を殺した男とその家族を想って一晩中泣き続けた。


「ただ悲しかった。愛する家族がいるなら、私の父を殺さないでほしかった。でも、それはかなわないから私や母の悲しみを理解して謝ってほしかった。俺の望みはそれだけです。死ぬ必要なんてない。殺さなくてよかったと心から思います」


 殺すために買った包丁は料理で使った。母の誕生日に、母の好物を作る為に。肉や野菜が綺麗に切られたカレーを出すと、母は泣いて喜んでくれた。自分がいつもしていることの癖に。それを見た時、憎悪が消えた。氷が溶けるように、あっさりと。まだ世界は終わっていない。大切なものは今も手元に残っている。母の為になれることはいくらでも残っていた。


「そうか、それは良かった」


「今回も同じです。俺は復讐なんて望まない。でも、人を殺そうとしたことは許すつもりはありません。だから、捕まえたいです。誰も彼もが傷つかなければいいと思う。俺にゴーストになれたのは好都合です。彼はまだ人を殺していないし、この力を使って彼を止められる」


「……分かった」


 雲霧は静かに笑みを浮かべる。かつて傷ついた子供を救った暖かな表情。だが、あの頃とは違う。少し寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。


「優、公安部に来ないか?」



―――

――


 そろそろ動くか。


 立華は腕時計を見る振りをして、さりげなく周囲に視線を走らせた。客も店員も自分を見ていない。自分が入店した時のことなど忘れただろう。腰を屈めた立華は、椅子の下に置いてあるバックパックを引きずり出した。ありふれたデザイン。色は黒の無地でメーカーのロゴはどこにも見当たらない。初めて見るがジッパーを開くことはしなかった。中身は事前に知らされている。九ミリ拳銃が二丁に弾丸が八〇発。手榴弾と閃光弾が三個ずつ。小刀が一振り。黒のレインコートとスキーマスク、現金の入った財布とプリペイド式携帯電話。

 今度こそ殺す。

 手つかずのサンドイッチとドリンクをテーブルに残し、店の外へと出る。途中、振り返りたい衝動に駆られた。後ろ髪を引っ張るのは強い力。自分でも馬鹿げていると思うが、振り返れば彼女が笑っている気がする。

 ありがとう、お兄ちゃん。また連れて行ってね。

 テストの点が良かったらな。

 だが、立華はそうしなかった。体の向きを変えることはおろか、歩幅を下げることもしなかった。

 妹はいない。兄はいない。存在するのは、理性を失くした怪物。その牙が狙うのは蛆虫の王、天道世正。その后、石妖香。それに群がる蛆虫共。殺す。殺す。殺す。気づけば拳が握りしめられ、爪が掌に食い込んだ。胸の内側で何かが燃え上がる。皮膚が熱を帯びてじっとしていられない。抗いがたい衝動。今すぐ拳銃を二丁握りしめて、所構わずぶっ放したい。駄目だ。駄目だ。駄目だ。立華は湧き上がった欲望を慌てて抑え込んだ。ここに蛆虫はいない。仮にいたとしても、自分の駆除対象ではない。

 溜息を吐き出し、立華は人混みから逃げるように裏路地へと駆け込んだ。落ち着かない。ざわざわと虫の気配がする。蛆虫は必ず殺さなくては。バックパックを下ろす。室外機の巣窟には、ゴースト一匹しかいない。それでも立華は中身が見えないように、慎重にバックパックを開く。

 手を差し込むと、運が良いことに目的のものをすぐに掴めた。拳銃でも小刀でもない、プリペイドSIMの入ったスマートフォンを。電源を入れ、ロック画面に妹の誕生日を打ち込むとホーム画面が表示される。立ち並んだアプリケーション。男はその中から、テキストアプリを選択した。入力されているのは無機質な文字列だった。


 天道世正……色並区立医療センター、東棟505号室。(A)中世期の社員と(B)色並署の警察官が護衛。(A)殺害可(B)殺害不可

 石妖香……警視庁色並署管轄証人保護施設『隠れ家』、302号室。(A)当直職員が護衛。(A)殺害不可

 

 まずは王から殺す。地図アプリのブックマークに登録されている天道の居所を選ぶ。迷うことはない。番地まで入力されている上、移動ルートまで表示されている。

 急がなければ。蛆虫は素早い。明日には違う場所に逃げるだろう。今日中に殺す。だが、どうやって? 正面突破で皆殺しにするか?否、警察も馬鹿ではない。それこそ逃げられる。殺せるのは末端の蛆虫だけ。それでは意味がない。王族を根絶やしにしなければ、蛆虫の国は瓦解しない。

 ごめんね、お兄ちゃん。

 何故謝る? 自分が悪くないのなら謝るな。

 どうすればいい? 警察の目を掻い潜り、射程距離内に近づくには。立華は頭を抱えた。襲撃の計画を考えるのは生まれて初めてだ。退屈な義務教育を終えてから、立華はすぐさま働きだしている。朝から夕方までは広々とした倉庫でひたすら荷物を探していた。夕方から深夜までは狭苦しいコンビニでレジを打ち商品を並べた。他人と争ったことなどない。倒すべき敵は常に自分自身だった。

 同級生は青春を楽しんでいるのになぜ自分だけがこんな目に合わなければいけないと喚き散らす心。必要十分なカロリーは摂取した癖に、まだ足りないと欲しがる腹。覚めた時、鎖に縛られたかのように動こうとしない体。貴重な睡眠時間を削ってまで、涙をとめどなく流してくる瞳。

 戦いの毎日。降伏しようと考えた時は数え切れないほどある。唯一の武器は深呼吸だけだった。息を七秒吸い、七秒かけて吐き出す。それだけで辛勝を積み重ねてきた。だが、今回の敵はあまりにも強大だ。深呼吸とは別の武器が必要だ。銃や刃物だけではない。他人を出し抜く為に必要なもの。

 頭脳。状況を把握し、選択を判断し、行動を実行する。それも素早く、正確に。考えろ。一発でも撃てば、標的は裸足で逃げ出すだろう。その前に近づきたい。泥棒のように人目を避けて侵入するか、警官を殺して服を奪い堂々と侵入するか。

 結論はなかなか出ず、立華は思考に没頭していた。だから、反応が遅れる。バックパックから拳銃を取り出そうとした時には、ナイフの刃が脾臓を貫いていた。

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