第2話 幽霊


 六徳の全身が震え上がる。刺された胸が熱くなったが、そこから指の先まで広がったのは寒気だった。声は出ない。痛みに叫ぼうとして代わりに喉から出たのはどろどろの液体だった。口の端から溢れてポタポタと滴り落ちる。戦え! 抗え! 残された力を振り絞る。だが、歯を食いしばる力さえ残っていなかった。からからと虚しい金属音が響く。それが自らが持っていた特殊警棒からなる音だと六徳は気づかない。たた、かえ。頭に霧がかかったかのように思考が消えていく。何も考えずに刃を掴んだ。じんわりとした痛みで意識が少し戻る。

 瞬間、刃を引き戻される。しゅっと小気味の良い音と共に皮膚が裂かれて左手がザクロに似た真紅に染まる。火のついた蝋燭を鷲掴みにしたかのような鋭い痛み。視界がくっきりと晴れる。その瞳に映ったのは血塗れの男の姿だった。その手に構えられた刃が陽光を受けてぎらぎらと輝いている。

 

「幽誅」


 激しい銀閃のまたたきと共に六徳の視界が回り巡り、空へと固定された。雲ひとつない大空。美術家が絵で伝えたくなるような美しい景色に癒やされるように痛みが消えていく。それでいて胸が潰されそうな圧迫感を覚えた。暗くて深い水の底に沈んでいく絶望。まるで天使の迎えだ。胸と首から命が流れていく感覚を覚えながら、六徳は静かに泣いた。父も同じ苦しみを味わったと知って、彼は泣いていた。


――父


 昔を懐かしもうとするといつも同じ過去に戻る。一二歳の秋だ。夏の暑さが鳴りを潜め、地球が穏やかになった日だった。

 父が死んだ。職務質問から逃げようとした飲酒運転者に轢き殺されて。冷たい地面に叩きつけられ、命の火を消した父は最後に何を思っただろうか。


――父が死んだ


 最初は泣かなかった。何が起きたのか理解してなかったから。葬式の記憶はあまり残っていない。ただ母が泣いていたことだけは覚えている。母は常に笑う女性だった。今も昔も涙を見たのはその時だけだった。次の日からは何事もなかったかのように笑い始めた。以前よりも増して、活発に、明るく。だから、何も変わらないと思った。自分の過ごしてきた日常は。子供らしい現実逃避。だが、時の流れは容赦をしない。父のいない時間は荒波のように幼い体へ強く打ち付けられた。陽や月が昇り、没する度に強さを増して。

 音を上げた。耐えられなかった。気づけば家に帰らなくなっていた。悲しみを乗り越えたふりをする母親を見ると気が狂いそうになるから。顔を合わせる度に袖を濡らして笑う母を見ると、胸がしめつけられる。それが自分の為だとは理解している。だが、怖かった。自分が迂闊に涙を見せたら何もかもが壊れて消えてしまいそうで。

 だから、外で過ごした。誰もいない場所に。誰にも見られない場所に。あてもなく歩き続ける。濡れた頬を撫でる冷たい風だけを友として。夜になろうと帰らない。やがて思春期の子供は人恋しくなって繁華街を歩くようになる。今思えば危ないところだった。子供を利用しようとする悪い大人は世間の想像よりかは多くいる。だが、六徳が道を踏み外す事はなかった。


「こんばんは。夜に出歩くのは良い選択ではないな」


 繁華街に足を踏み入れると決まって一人の青年がどこからともなく現れた。少女漫画から飛び出してきたかのような顔立ちで、天使のように優しい声を奏でる男だった。彼が傍にいると他に誰も近づいてこなかった。どことなく漂う警察官の雰囲気がそうさせたかもしれない。父親の部下だった青年は物静かな人だった。とぼとぼと俯く子供に合わせてゆっくり歩く。たったそれだけで、息の詰まるような苦しみが少し安らいだ気がした。


「そろそろ帰ろう、お母さんの元に。ああ、その前に晩御飯の材料を買っていこうか。私が作るよ」


 その一方、青年との出会いには羞恥を与えられた。家に帰らなくなった理由は自分が弱いからだ。死んだ父を蘇らせることは無論、母の悲しみを癒やすことさえできない。何も出来ない無力感は真綿で首を絞められるような苦しみだ。だから逃げた。そんな自分が更に嫌いになる。

 どこまで暗闇に落ちていきそうな悪循環。抜け出す為には変わらなければならない。幼い六徳はおのずと青年の背中を追うようになる。強くて優しい男は兄のように思えた。自分とは違う、自分がなりたい姿が彼だった。


――抜け出す為に


 警察官になるといった時、母は笑顔を浮かべながら手を震わせていた。日本の警察官で殉職する者は年間に10人程度、約30万人の総数から見れば0.003%。だが、悲劇を味わった者にその数字は意味を持たない。息子の死を想像するなと言う方が無理な話だ。だから、止められるかもしれないと思った。

 しかし、母は息子の夢を応援した。否定をされたことは一度もない。恐怖を殺すのではなく、共に生きることを彼女は選択した。息子の将来を信じて。暴漢に刺されて斬り殺されるとは夢にも思わず。


――母の悲しみを癒やすことさえできない


 死ねない。親より先に死んでたまるか。夢を叶えたい。誰よりも強く生きる。泣いてばかりで助けられるだけの弱い子供には戻らない。憧れた大人になる。誰かに笑いかけるほど優しく、誰かを助けられるほど強く。

 自分が死ねば、二人が殺される。青年が殺してしまう。助けが必要だ。目の前にいるなら、その役目は自分が負う。母や警察官がそうしてくれたように。もう子供ではない。涙では終わらない。時は過ぎ、自分は大人になれたのだから。


―――まだ、死ねない


 血溜まりに浸かった指がぴくりと動く。意識が覚醒した途端、首と胸に強烈な痛みが走った。堰と共に血飛沫が噴水のように吐き出され、顔に降り掛かった。湿り気のある不快感。生きていなければ味わうことのない感覚。止まるはずの心臓は脈打ち、致命傷を負ったはずの体はゆっくりと立ち上がる。



―――



「石妖!」


 人間の喉から出せるとは思えない獣の咆哮。天道に肩を貸して逃げようとしていた石妖は足を止める。振り返れば、その背後には血に濡れた警察官。正気か? 警察官を手に掛けるなどまともではない。何を考えているのか? 理解できることは唯一つ。彼は絶対に諦めないということだ。逃げれば文字通り地の果てでも追ってくる。

 ならばここで殺すしかない。石妖は片手で銃を構えた。逃げる寸前で拾った犯人の銃。だが、当たるのか? 銃を撃った経験など現実どころかテレビゲームの中ですらない。震えていると不意に手が暖かく包み込まれて動かされる。横を見れば口角を高く釣り上げる天道。


「今だ、撃て」


 甘い声には常日頃から逆らえない。何も考えずに引き金を引いた。すると肩を殴られたような衝撃と共に青年のレインコートから血飛沫が舞う。一歩退く犯人を見て石妖は達成感に包まれた。非日常の危機は去り、贅沢な日常に戻ることができる。その考えが甘いことを石妖は一瞬の内に思い知った。


「遠慮するな。もっと撃てよ」


 男は倒れない。それどころか両手を広げて近づいてくる。慌てて数発撃つ。弾丸は全て胸を貫いた。レインコートが赤く染まる。しかし、それだけ。男はまるで蚊に刺された痒みを耐えるかのようにうめき、歩みを続けた。何故? なぜ? 胸に巣食った疑問は恐怖となって一瞬で全身に広がる。震え上がった石妖は天道を巻き込んで地面へと崩れ落ちた。横から声を響くが、もはや何を言っているか聞き取る余裕さえない。


「気が済んだなら返せ」


 瞬間、強い力に襲われた。そうとしか表現が出来ない。銃が見えない何かに引っ張られている。抗えずに手を離すと、銃は真っ直ぐと男の手元へと収まった。何が起きている? 何も分からない。それでも男が銃を撃つことを躊躇わないであろうことは理解できた。


「蛆虫らしい姿だ、そのまま死ね」


 石妖は涙を封じ込めるように瞼を閉じて、震える体を必死に抑えつけた。どうせ死ぬ。下手に急所を外れて苦痛を味わうことは避けたい。脳裏にある光景が浮かぶ。絶対に助からない、それでいて即死することが出来ず苦しんでのたうち回る男。あんな風にはなりたくない。銃で頭を撃たれる方がましだ。殺すなら早く殺せ。心の中で悪態をついた瞬間、銃声と共に肉が弾ける音が響いた。何も感じない。痛くもなければ苦しくもない。これが死か? ゆっくりと目を開くと、緋色の後ろ姿が見えた。


「誰も死なせない。俺の目の前で」


 決して大きくはない声だが、力強い。警視庁の文字が描かれた後ろ姿は大きく見えた。手足の震えは和らいでいる。乱れていた呼吸は落ち着いている。胸が透き通るような安心感が全身を優しく包み込んでいた。



―――


「どうして……、お前が……」

 

 殺したはずだった。この手で潰えたはずの命だった。刺突は心臓を刺し貫き、斬撃は大動脈を断ち切っている。致死量の血が流れた体に生命を維持する機能は残されてない。


「ちゃんと止めてあげられなくて、ごめん」


 だが、その男は立っていた。健康的な麦色の頬に一筋の涙を流しながら。紅に染まった致命傷から血を流しながら。腹に空いた風穴も彼の命を奪えないだろう。それは彼が特別頑丈な人間だからではない。間違いなく一度は死んでいる。そして、ゴーストとして覚醒した。ゴースト、そう言われて世間一般の人間は夏の怪談でも思い浮かべるだろう。昔から創作に使われてきた古典的な題材だ。しかし、自分にとっては現実の存在だ。来世に向かうはずの魂が死の淵から超人的な能力と共に現世に還ってくる。馬鹿げた話だが真実だ。当事者でなければ、自分も信じられなかった。


「なら邪魔をするな。もう遅い」


「そうかもしれない。でも、俺は今、君の目の前に立っている。過去を後悔するのは後でいい。今は出来ることをするだけだ」


 瞬間、警察官は駆け出した。即座に銃を放つ。弾丸が額をえぐり取る。だが、足を止められない。2発目を放つ前には間合いを詰められていた。脇差に意識を切り替える。だが、それは遅かった。斬撃を放つより先に手首と胸ぐらを掴まれる。目で捉えきれなかった。寒気が走る。全身を氷漬けにされたような、血の流れが止まる感覚。暗くて、冷たい。生から死へと堕ちる感覚が脳裏に蘇る。

 

「離せ!」

 

 咄嗟に振り払おうとする。だが、またも遅れをとった。警察官がアスファルトを豪快に蹴り飛ばして、再び風を切って走り出す。鞭で叩かれた馬の如き勢い。抗えず十数歩も背後に走らされた。前と後では走りやすさが違う。男の踵は音を上げていた。背中は仰け反り、後一歩進めば体を地面へと押し倒されただろう。だが、そうはならなかった。その一歩を踏みしめ、男は半身を翻す。受け流される突進。慣性の法則に従って二人は投げ出された。

 直後に響く鈍い音。アスファルトに打ち付けられた体の悲鳴だ。何度も転がり、その衝撃で銃は手放した。だが、脇差はどうにか手の内にとどめた。即座に膝を立てて、地を蹴る。警察官は倒れたままだ。その胸に切っ先を合わせて、振り下ろす。

 刹那、警察官がダンサーのように右足でくるりと地面に円を描いた。狙いは軸足。足元を掬われた男は背中から崩れ落ちる。


「蛆虫が」


 左掌を地面に叩きつける。腕の一本に全体重がのしかかった。肉が縮み、骨が割れる。迸る痛み。だが、ゴーストにとっては掠り傷。強引に体勢を整えた立華は体を回転させて着地する。


「俺に触るな!」


 轟音が響き渡る。立華が舗装された地面を踏み抜いた音だ。砕かれたアスファルトの欠片が小雨のように散りばめられる。釘を刺すように固定された体勢に足払いは通じない。依然倒れたままの警察官。その体に向けて、刃を無慈悲に振り下ろす。

 再び轟音。それは男の斬撃が地面へと叩きつけられた音だ。身を転がして躱した警察官は間合いを取り素早く立ち上がる。


「もうやめろ。君が得るものは何もない。ただ魂が傷つくだけだ!」


 男の動きが止まる。安っぽい言葉に怯んだわけではない。警察官の瞳に宿る光。太陽のように眩く激しい輝きには力があった。視線が交差する。警察官は目を逸らさず、ホルスターから手錠を抜いた。かちりと両方の輪を外すや否や、一方を自分の左手首へと嵌める。


「だからやめてくれ。俺は君と話がしたい。出来ることはする」


 立華は固唾を飲む。雪山に裸のまま放り出されたように、全身の細胞が殺気立っていた。恐怖を感じているからだ。警察官だからではない。ゴーストだからではない。

 体の内側、心の根底にあるもの。魂の叫びが鼓膜を突き破るほどに聞こえてくる。脅威だ。百人の兵隊よりも、目の前の一人が怖くてたまらない。そんな自分に怒りが湧く。蛆虫を恐れるのは弱い男だ。だから何も守れない。一生を懸けても無駄だった。だが、それは人間だったころの話。ゴーストとなり、恐れることはもう何もない。


「蛆虫と話すことなどない、ここで死ね」


 瞬間、立華は跳躍した。離された間合いを一息で零まで詰める。警察官は咄嗟に両腕を構えた。力強い瞳は刃ではなく腕を見ていた。ゴーストに覚醒して間もなく特性を活かしている。あまりにも冷静で的確な判断。自分が感じた恐怖は間違いではない。だが、弱点は分からないだろう?

 立華は肩を下げて滑り込む。警察官は腕を空を掴んだ。瞬間、小刀を振るう。横一閃。斬られた膝から血の粒が飛散する。体を支える視点への攻撃に体が怯む。その隙を見逃さない。刃の先端を警察官の首に向けてすかさず射出する。だが、刺突は届かなかった。かちりという金属音と共に重くなった手首。警察官が腕で半円を描く。男の腕は釣られ、斬撃はあらぬ方向へと逸れる。

 刹那、視界に拳が広がる。爆発するような激痛。肉が潰れる音と共に、視界が白黒と点滅を繰り返した。


「殴られたら痛いだろう。なのに何故こんなことをする!?」


 腕が引き戻される。指についた血がぽたぽたと地面に零れ落ちた。再び放たれる拳。痛みを覚えた頬が雷に打たれたように引き攣った。

だが、眼光が消えることはない。膨らんだ憎悪は痛みでは揺るがない。


「痛むからだろうが」


 立華は腕を引き戻す。手首の繋がりは拳打に衝突し、軌道を捻じ曲げた。すかさず刃を振るう。狙いは首筋。警察官は咄嗟に腕を振り上げた。斬撃が天に翔ぶ。血のついた刃が月明かりを受けて宝石のように輝く。

 その時、男は掌を開いた。支配を失った凶器が水滴のように溢れた。だが、地に落ちることはない。左手で柄を受け取り、間髪入れず斬撃を放つ。刃は警察官の脇に叩きつけられる。皮膚に食い込み、血の雫が滴り落ちた。

 

「いい加減にしろ!」


 つま先に激痛が走る。腕の力が鈍り、凶刃が取り外された。右足が動かせない。恐らく踏みつけられているのだろう。分かりきったこと。だから見ない。歯を食いしばり、前を睨む。

 最速の反撃だ。立華は額を警察官の鼻に叩き込んだ。ぐしゃりと重たい音が頭の中に響く。呻き声と共に足が軽くなる。すかさず腕を振り、手錠越しに引き寄せる。しかし、動きは止まった。警察官が拳を握りしめて流れをせき止めた。


「他人を不幸にしたところで、君が幸せになれるわけじゃない。むしろ更に不幸になる。もうやめろ。自分を傷つける必要はない」


「幸せ? そんなものは求めていない」


 拮抗する二人の力。ぎちぎちと手錠の鎖が悲鳴を上げる。握り拳を震わせながら、二人の男は視線を激突させた。

 

「一人の愚者が池に投げた石は、百人の賢人が集まっても取り返せない。もう手遅れだ。俺の失ったものが二度と戻ってこない。絶対に、永遠に。

 だから奪う。あの蛆虫共は便所の隅まで追いかけて殺す。必ず、殺す!」


 瞬間、金属の断末魔が轟いた。限界を迎えた手錠が引きちぎられた音だ。破片が砕け散り、対抗を失った二人の男は紙のように吹き飛ばされる。地面に背を叩きつけられ、転がされる。裂けた皮膚から血が流れた。

 先に動かぬば! すかさず起き上がり、刀の切っ先を警察官に向ける。左手で柄の先端を握りしめ、右手を赤子を撫でるように優しく添えた。


「幽誅!」


 大気が揺れる。全身全霊で踏み込んだ体は弾丸を超える速度で駆け抜けた。雪山で暴れまわる吹雪の如き刺突。触れただけで人の命を奪う災禍の刺突。

表面にこびりついた血潮を振り払いながら、真っ白な刃を空を切り裂いた。

 空。手応えがない。気づいた瞬間、脳内にけたたましい轟音が炸裂する。警察官は体を横に向けて刺突を躱していた。紙一重の回避。反撃の好機。体を回転させた警察官は肘を男の耳に叩き込んだ。それが音の正体。三半規管を狂わされた男の体から力が抜けて、よろよろと引き下がる。

 警察官は綺麗事に反して容赦をしない。手首に手刀を放つ。腕が痺れ、掌を開かされた。金属音を立てて落ちた脇差。拾う余裕はない。咄嗟に左手で殴りかかる。


「こんな事をして、何が楽しい」


 だが、無意味だった。敗者が放った苦し紛れの反撃は、勝者に届かない。掌底が胸の中心に叩きつけられる。衝撃は瞬く間に全身に響き渡った。踏ん張れない。宙に浮いた体は何メートルも飛んで地に叩きつけられた。何度も地面を転がり、レインコートの表面がアスファルトに抉られていく。浅くなった呼吸。すぐに回復するだろうが、警察官の反撃はそれより速いだろう。

 絶体絶命の状況。打つ手は何もない。ゴーストでなければ。


「楽しいよ。蛆虫の死に様を見るのはな」


 立華は笑う。笑いながら、開いた掌を警察官へと差し向けた。


―――


 六徳優にとって、拳の痛みは致命傷とは比べ物にならないほどの苦痛だった。柔らかい肉が震え、硬い骨が軋む。音も感触も不快でしかたない。自分が与えた痛みに他人が苦しむことが、とにかく耐え難かった。

 そして怖かった。他人の苦痛を感じられなくなりそうで、そうして他人を支配する快感に溺れそうで。


「終わりにしよう」


 目の前の男はそうなっただろうか。彼は人を殺した。何が彼を凶行を走らせたのか。理由は何かしらあるのだろう。もし彼と同じ立場なら、自分も同じ選択をしたのかもしれない。

 だが、殺人は殺人。命を奪う行為を肯定することは誰にもできない。今の自分に出来ることは満身創痍の男を拘束することだけだ。魂を救済する術はない。


「本当に、すまない」


 男は膝を地面に預けたまま、右掌をこちらへと向けていた。制止のつもりだろう。だが、六徳の足を引き止めることは出来ない。予備の手錠を抜き、ゆっくりと歩く。大鎌を持つ死神のように。そして、差し出された腕に手錠をかけようとする。その瞬間だった。

 肉が裂ける音と共に背筋に激痛が駆け抜ける。思考が寸断される。白黒に明滅する視界。揺らぐ世界の中で見えたのは右手でナイフを構える男の姿。


「蛆虫の謝罪などいらない」


 腹へと深く突き刺さる凶刃。斬り上げられ、激痛が胸まで駆け抜ける。気づけば背中から地面に倒れこんでいた。男の左手には振り落としたはずの脇差が握りしめられていた。刃が血に濡れている。恐らくあれが背中を突き刺したのだろう。だが、どうやって? 男は倒れたままで、背後に回る余力はなかった。仲間の気配もない。刀が勝手に動いて刺してきたとでもいうのだろうか。

 男は脇差を振り上げようとした。だが、途中で動きをやめた。一息をついて、回りを見渡す。


「そこで見ていろ。蛆虫の王が死ぬのを――」


 言葉を自ら遮り、男の動きが止まった。ほんの、僅かな、一瞬だけ。直後、男は慌てて首を左右を振り始めた。体がせわしなく回る。見つけられない。覆面で隠れていても焦燥が手にとるように分かった。

 カップルは隙を見て逃げたのだろう。それを知って、六徳は安堵した。再び刀を振り上げた男が近づいてくるにも拘わらず。


「やってくれたな。まずはお前から死ね」


 刃に陽光に照らされて、己の血がよく見えた。全身が震え上がるような激痛の記憶が脳の奥から引きずり出される。だが、何も出来ない。六徳は振り落とされる斬撃をただ待ち続けた。

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