愚者が池に落とした石
@huguazarashi
第1話 慟哭
六徳優は満足気に頬をほころばせた。琥珀色の輝きを放つ味噌汁から立ち込める湯気。美しい白煙を吸い込むと、鼻の奥に旨味が広がる。自分が誇らしい。非の打ち所のない出来だ。続いて炊飯器をあける。こちらも上出来。窓から差し込む東日が白い米の美しさを際立てていた。鼻歌交じりにお椀によそう。すると、背後に気配を感じた。振り返らずとも誰がいるかは分かる。だが、六徳はおたまとお椀をキッチンに置いて背後を振り返った。明るい笑顔を忘れずに。凛々しく整った顔に僅かばかりの幼さを残した六徳はそれだけで女性の心を奪うことがある。しかし、今回はそうならない。独身で恋人のいない六徳でも目の前の女性との関係は不変だ。
「おはよう母さん。ご飯は出来てるよ」
「言ってくれれば私が作ったのに。これからお仕事なんだから」
口では呆れたようにそう言ったものの、母親は口の端に笑みを隠しきれていない。父も嘘をつくのが下手だった。二人から生まれた自分もきっと同じだろう。正直に生きよう。
人生の方針を決めた六徳は料理へと向き直り、盛り付けに取り掛かる。どうせなら丁寧に。とはいっても六徳優は料理人ではない。見栄えは気にせず、食べられる量を乗せるだけだ。だが、意図せずに朝食は美しく完成した。SNSをしていればハッシュタグを山盛りつけて投稿しただろう。そうすれば和食を売りにしているチェーン店がスカウトに来るかもしれない。しかし、六徳のスマホにアプリはない。学生時代、友人に誘われることはあったが始める気にはなれなかった。顔も知らない世間の声はあまり聞きたくない。20歳らしからぬ要望により、六徳が開花させた才能を知るのは天と地と我及びその母が知るに留まった。
「運ぶぐらいはするわ」
盛り付けが終わると、母が横に現れた。ゆっくりしていればいいのに。不要な小言は胸にしまった。助け合うのは当たり前。父がいなくなってから、ずっとそうしてきた。感謝や遠慮は言葉にしない。そういった類の感情は行動で伝えるのが二人の不文律だった。母と子はそうして生きてきた。味噌汁を持った母の背を見ながら、六徳はご飯を持つ。その時、びちゃびちゃと水音が響いた。何かが滴る音。六徳の耳はそれを味噌汁が溢れた音と捉えた。そして、考えるより先に体が動いた。両手に持ったお椀を手放し、母の元へと駆ける。背中から倒れる中年女性の体を六徳は難なく受け止めた。朝は必ず剣道の稽古を行い、仕事終わりにはジムでのトレーニングを欠かさない成人男性には造作もない。騒々しい音が遅れて響き渡る。六徳は視線を逸らすこともなく、母の軽い体を椅子の上へと座らせた。
「……ごめんなさい、せっかく作ってくれたのに」
「怪我はない?」
嘘をつくのが下手だからといって正直者とは限らない。目の前にいる女性が良い例だ。辛くても苦しくても、まるで悲しいことが何一つないかのように白い歯を見せて笑う。彼女はそういう人間だ。顔を見て痛みを感じていないことを察すると六徳は母から離れた。
「無いなら良いよ。片付けは俺がやるから少し待ってて」
後で食べられるようにと料理は多めに作っている。もう一度よそえば問題はない。台所に戻ろうとした時、一人の女性と目があった。生身の人間ではなかった。コルクボードに貼られた新聞記事の切り抜き。そこには神妙な面持ちの美女がいた。その下には『若き製薬ベンチャー、中世期製薬のエース。開発部長の石妖香さん』とある。
「若いのに凄い人なのよ、その人。お母さんも助けられているわ」
母の解説を聞きながら、プロフィールに目を通せば名だたる学歴が掲載されていた。羨ましい。学生時代の成績は良かった。数学が苦手だったが、赤点は一度もとらなかった。だが、優秀な人間との差は何となく感じていた。単純な努力では超えられない壁のような何か。石妖は向こう側にいる人間に違いない。もし同じ場所に立てたのなら世界はどのように見えただろう。
「へえ、そうなんだ」
六徳は嫉妬を振り払った。石妖が自分の能力を世に示すように、自分にも夢がある。何も恥じることはない。そんな余裕はない。今は他人の人生ではなく自分の人生に集中する時期だ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
石妖香は水を飲んだ。朝食は食べる気になれない。大理石のキッチンには完成した料理。オーガニックのサニーレタスを中心に色とりどりの野菜を添えたシーザーサラダ。右手で皿の端を掴むと、ダストボックスに放り込む。緑の葉は魚の皮や卵の殻と同化していく。だが、一部は狙いを外れ床に散らばっていた。ああ、もう。拾う為に皿を置こうとする。そこで彼女は見た。皿にも葉がこびりついているのを。僅かだが、これも取り除ければならない。
――ああ、もう
石妖は皿を大きく振りかぶる。思いっきり叩きつけたい衝動は朝のアラームが鳴った直後の眠気に似ていた。しかし、動きはそこで止まる。海外から取り寄せた一点ものという事実が石妖の欲求にブレーキをかけていた。深呼吸をして、腕を元に戻す。冷静に考えれば今の自分はまともではない。コップと共に高級食器を食洗機へいれる。細かい掃除は後回しだ。今は気分を変えたい。一息をついてロングヘアーを掻き上げた石妖は一息吸い込んだ。
「コマンド、カーテンを開けて」
直後、ジャガード織のカーテンが開いた。展望台を思わせる大きな窓に都会の美しい景色が広がる。悪くない。機嫌が少し良くなる。ワインがあればなおよし。冷蔵庫の横にあるワインセラーに目を奪われる。先月買ったロマネコンティが甘く囁いてくるようだ。だが、無機質な通知音でスマートフォンが割り込んでくる。
――起きた?
メッセージアプリを開くと簡素なメッセージ。それは今日会う約束をした男からだ。
彼のこういった連絡は欠かさない。小さな指で返信を打ちながら、石妖はため息をつく。
男。資産家の両親と才能に恵まれ、高学歴と高収入を得ている石妖にとって悩みの種はそれだ。出会わなければ捨てずに済んだものは数えきれないほどある。輝かしい夢、それが現実になると信じた少女。
「ああ、もう」
石妖は頭を軽く左右に振った。今さら取り返しのつかないことを考えると胸が焼ける。何も難しく考える必要はない。自分が五歳の時、親にテディベアを買ってもらったことがある。幼い自分は大いに気に入っていて、抱かないと眠れなかった。それは今どこにあるのだろう。どうでもいい。今は眠れているというのに探す必要がどこにある? 若気の至りも同じだ。今必要ないものを得ようとする意味はない。腹は空いても、ゴミ箱のサラダを取ろうとはしないように。
――もちろんよ。遅れないから安心して
返信をしてスマートフォンを置く。差出人に『天道世正』と記された男のアイコンには俳優顔負けの美男が映っていた。もちろん実物は違う。写真では表現できない魅力を撒き散らす男は初な少女なら何もせずとも恋に落とせる程だ。隣に立つ役目は並の美女では務まらない。酒を酔っている余裕はなかった。石妖は一息ついて化粧室へと向かった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
殺せ。ざわざわと気配がする。蛆虫の気配がする。殺せ、一匹残らず殺せ、跡形もなく殺せ。立華禄はナイフを壁の写真に突き立てた。そこに映っているのは恥ずかしげもなく気取っている男。
天道世正と名乗る男は凄腕の青年実業家として評価されている。黄色い声を上げる女もいる。だが、自分の目に映るのは大きな蛆虫だ。列をなして遺体に群がる害虫。生きている価値など微塵もない。
「返せ……、返せ……」
穴だらけの写真と壁からナイフを引き抜く。半地下の窓から僅かに差し込む光が刃をきらりと照らす。
殺せ。立華は刃を自らの手首にゆっくりと押し当てた。雑巾を絞るような音と共に溢れ出る鮮血。鋸のように前後させると勢いが増す。ふと立華はナイフを離し、肉が露出した傷口にかぶりついた。筋だらけの肉を食べるような食感と共に鉄の味が広がる。体が強ばるような痛み。だが、立華は止められない。自らの手首を噛みちぎり、肉片と共に写真へ血を吐いた。ほとんど原型が見えない写真が赤く染まっていく。宗教的儀式ではない。これは現実だ。荒い息を吐きながら、立華は拳を握りしめ、目を瞑って天を仰いだ。
ずっと待ち望んでいた未来。それを今日、現実に変える。この手で必ず。失敗はしない。絶対に。必ず。大小様々なポケットがついた服に返り血がついていたが気にならなかった。頭の中に雑音が入り込む隙間はない。
「返せ!」
立華はナイフを懐のホルダーにしまう。これでは蛆虫を殺せない。立華は部屋の隅へと向かう。安物の机。その上に置かれたのは脇差、拳銃と予備の弾倉。その全てを手際よく仕舞っていく。
続いて向かうのはクローゼット。軋む音を上げる扉を強引に開き、中から黒いレインコートを引っ張りだす。身に纏うと武装は全て隠れた。これでいい。人は見た目で判断する。これで街中を堂々と歩くことが出来る。蛆虫が人前に姿を見せられるように。再燃する怒りを抑えながら、スキーマスクをニット帽のようにかぶる。顔を見られてはいけない。どれだけ頭が血に上ってもそれだけは忘れるな。立華は教えを忠実に守った。
「……返せ」
時間だ。準備を終えた立華は玄関へと向かった。作業靴を履き、靴紐をきつく締め上げる。作業は丁寧であればあるほど良い。万全の体制を整えた立華はゆっくりと立ち上がった。だが、そこから動かない。時が動かないかのように。しばらくして彼は一筋の涙を流した。
「……いってきます」
立華はドアノブを回して、玄関を開けた。傷ひとつない手首を陽光に晒しながら。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
石妖香は目を細めながら上を見た。雲ひとつない真っ青な空だった。日輪の輝きを邪魔するものは何もない。暖かさに全身を包まれる。タワーマンションからの眺めには劣るが、地上から見る景色も悪くない。
「どうしたんだ、香?」
耳が撫でるような優しい声。横から聞こえた声に振り向くと、男が甘い笑みを浮かべていた。すらりと縦に伸びた肉体を黒のスラックスとシャツ、白のジャケットで着飾っている。足元を見やれば革靴。何時間も磨いたかのように、黒い表面が陽光で輝いて見えた。アクセサリーの類は細い人差し指につけられているダイヤモンドの指輪だけ。派手な服装ではない。だが、本人の容姿と雰囲気を考えれば丁度いいように思える。
「気分が悪いなら休もうか? 近くに静かなカフェがある」
柔らかな物言いは初めて会った時と変わらない。だが、恐怖を抱いたことは覚えている。全身が震え、声を発することもままならなかった。そんな自分の手を天道は握りしめた。あの時の手は綺麗でなかった。汗だらけで、皮膚は荒れていた。だが、今は違う。雪のような真っ白な肌はカメラで拡大されても恥ずかしくない。そして、指にはダイヤの指輪。初めて会った時とは違い、石妖は自分から手を差し出した。昔のことを思い出すのはもうよそう。
「大丈夫。このままいきましょう」
天道は何も言わなかった。ただ静かに差し出された手を掴み取った。掌が重なり合い、指が絡み合う。寄木細工のような繋がりで更に暖かくなる。お互いに控えめな笑みを浮かべながら前へ向き直ったところで歩みは止まった。いつの間にか黒のレインコートで全身を覆った青年が道を塞ぐように立っている。
「お前たちは俺を知らないだろう」
低い声は獣が唸るようだった。覆面の上にフードを被されて、顔はほとんど見えない。目を除いて。夜の暗闇を思わせる黒い瞳の奥には月よりも強い光がこうこうと輝いていた。
「だが、俺はお前たちを知っている」
視界が遮られる。天道の姿が消え、ジャケットの黒色が視界を埋め尽くす。恋人が前にいる。自分を守ろうとしている。安心を得た胸にときめきが走る。瞬間、けたたましい音が鳴り響いた。豆が炒るような炸裂音が鼓膜を震わせる。一度ではない。重なって響き、頭が揺らされる。脳を直接殴られたような衝撃。思わず目を閉じて両手で耳を塞ごうとする。瞬間、重い何かが胸へとのしかかる。耐えきれず背中から崩れ落ちた。鈍い音と共に地面に激突し、無数の突起が皮膚に刺さる。痛みに喘ぎながら目を開く。レインコートの男が見えた。右手には微かな硝煙を上げる拳銃。下を向くと、同じように恋人が倒れていた。弱々しい息を吐きながら、自分の上から動かない。
「うそ……」
「いや、分かっていたはずだ。いつか、この日が来ることを」
男の声は石妖には届かなかった。姿も、その手にある銃も眼中になかった。何も聞こえない。何も見えない。体の震えが止まらない。瞳から涙が溢れる。縋るように恋人の手を握る。だが、握り返される力はほとんど感じないほど弱かった。
「今日がその日だ。死にたくなければ俺から奪ったものを返せ」
不意に感覚を取り戻す。だが、大粒の涙でぼやけた視界にはほとんど何も映らない。それでも、男が銃口を自分に向けていることは理解できた。彼が撃つつもりであることも。自分はここで死ぬだろう。死の間際、人は走馬灯を見るというがそれは本当のことだと知る。ただし、脳裏を過ぎった過去は3年前からだ。運命の日。自分が死んだ日であり、生まれた日。夢を捨て、姿を捨て、心を捨てた。過去が去り、現在が来る。そして、未来が潰えた。なんて愚かな選択をしたのだろう。のしかかる後悔で胸が潰れそうだ。だが、もう遅い。
「返せ!」
石妖は瞳を閉じて、体から力を抜いた。その瞬間、甲高い銃声が鳴り響く。想像を遥かに超える痛み。それを覚悟していた。だが、味わうことはない。恐る恐る目を開く。男は自分を見ていなかった。横にいる誰かに目を奪われている。その手に銃口はない。何も持っていない右手を小刻みに震わせていた。
「警察だ! 動くな!!」
声の方向を見ると、紺色の警察制服を身にまとった青年が見えた。帽子にあしらわれた旭日章を輝かせながら、両手で拳銃を構えている。
(助かった……?)
警察官と殺人者の距離は離れていた。殺人者に銃は拾える距離ではないだろう。間もなく両手を上げて投降するはず。ほっと胸を撫で下ろす石妖。だが、そうするには早すぎた。
―――
――
―
立徳優は全身を震わせていた。気を抜けば倒れそうになる。慣れたはずの反動は大男に殴られたように痛い。大半の警察官は訓練以外では引き金に触らず引退する。それが交番勤務二年目で経験するとは夢にも思わなかった。
両手で握りしめているのは装填数五発のリボルバー拳銃。残りは三発。暴発を懸念して初弾を装填していないからだ。予備弾薬はなし。増援はすぐに来ない。犯人が抵抗した時、彼の仲間が近くにいた時、この三発だけが命綱だ。
足がすくむ。筋肉が消えたかのようだ。気を抜けば倒れそうになる。滝のような汗をかきながら、照準を睨んだ。
「男には逃げちゃいけない時があるんだ」
頭に響くのは父の声。小学生の頃、演劇会の発表が怖くて、恥ずかしくて、逃げ出したかった。体調が悪いと嘘をついた時のことだ。10年以上も前の会話なのに、何故か今も鮮明に思い出せる。
「それは他人が決めることじゃない。優が決めるんだよ」
「そうなの? じゃあ僕が嫌だと思ったら、逃げてもいいの?」
「そうだよ。でも、たくさん練習しただろう? 優ひとりじゃない、お友達と頑張っ ただろう?他の皆は演劇会に出てるのに優は家にいていいのか? 悪いとは言わない。優が思ったことを教えてくれ」
「……悪いと思う。僕がいないせいで劇が出来なくなるんだ。それにせっかく頑張ったのに」
「なら行こう。優は偉いな。お父さんも見習って勇気を出してみるよ」
そう言って父は小さな鞄を取り出した。白の無地が革色の線に縁取られている。まるで海外から取り寄せた美術品を扱うかのように父は両手で慎重に握っていた。
「お母さん、喜んでくれると思うかな?」
――逃げちゃいけない時
六徳は足に力を込める。末端の若手だろうが自分は警察官だ。犯罪から目を背けられない。市民が危険に晒されているなら盾になる。命を懸けるのは当然だ。父のように。
「膝をついて両手を上げろ! 俺に撃たせるな!!」
「制服警察官が無理をするな。銃が見えただろう? 手に負える相手じゃねえって分からねえか?ここにいても死ぬだけだ。蛆虫と心中したくなければ今すぐ逃げろ。そうすれば追いはしない」
「逃げるわけないだろう! 警察を甘く見るな!!」
――他人が決めることじゃない
いざという時は覚悟しなければならない。こちらに撃つ気がないと分かれば、犯人は迷わず襲撃を再開する。だが、それは最終手段だ。犯人射殺は事件の解決ではない。また弾丸が逸れて二人に当たる可能性もある。
「君は自分が何をしているのか分かっているのか?」
まずは説得する。交渉術の訓練は受けておらず、自分に素養があると思ったことは一度たりともない。主な目的は時間稼ぎだ。犯人の注意をできるだけこちらに引き付ける。そうして増援が到着するまで耐える。だが、微かな期待もあった。彼は自分に逃げろと言った。関係のない人間を無闇に傷つける気は彼にない。その程度の良心が残されている。今は賭けるしかない。誰も死なない為に、誰も殺させない為に。
「君が奪おうとしているのは二人の命だけじゃない。彼らにだって家族がいるんだ。幸せになってくれと祈る人がいるんだ。頼む。想像してくれ。昨日まで生きていた家族を突然奪われる悲しみを。家族のいない時間を過ごす苦しみを。君なら分かってくれるはずだ。十字架を背負う必要なんてない。今ならまだ取り返しがつく。俺が力になる」
男は何も言わなかった。だが、六徳には伝わった。目は口ほどに物を言う。その事実を彼は体に叩き込まれる。黒い瞳から理性の光が消えるのが見えた。そして、殺意の光が宿るのが見えた。刃のように鋭い明確で強烈な光。
「蛆虫の気配がする」
男は前に倒れる。だが、姿勢を崩す寸前に右足を出した。そのまま狼のような前傾姿勢で肉薄してくる。まずい。咄嗟に銃を構えたが、射線上にカップルがいる。確実に当たらないように撃つことは不可能だ。だが、不幸中の幸い。カップルからは引き離せた。銃はもう必要ない。安全装置を指でかけて放り捨てる。
――逃げちゃいけない時
間合いを詰めた男は懐から小刀を抜いて一呼吸で斬撃へと繋げた。首筋を狙った凶刃。速い。一歩後ろに下がって躱す。直後、男の手首がひねられ燕返しの一撃が胸へと襲いかかる。だが、六徳の心臓が裂かれることはない。寺の鐘を思わせるような金属音が激しく響き渡る。右手で腰から取り出した特殊警棒。合金の塊が刃を防ぎ、犯罪者の手から警察官の命を救う。瞬間、左手でレインコートの襟を掴んだ。振り返ると同時に足をかけて遠心力で男の体を軽々と投げ飛ばす。手を離さぬように歯を食いしばりながら地面に叩きつけた。骨と肉が震える鈍い音が響き渡り、小さな嗚咽が男から漏れる。
取り押さえる好機。逃すわけにはいかない。急いで男へ肉薄する。その胸ぐらが掴まれるとは夢にも思わず。人とは思えない力。力任せの投げ技に抗えず、六徳優の体が宙を舞う。目まぐるしく回る世界。体中を駆け抜ける痛み。地面を転がり、アスファルトの尖った表面に全身を容赦なく削られる。だが、呻いている暇はない。既に体勢を整えた男が刃物を光らせながらこちらへと向かってくる。手首のスナップで伸縮性の警棒を引き伸ばす。迎え撃つ為に。そして、斬撃と打撃が再び激突する。
「こんな事をして何になる! もうやめてくれ!!」
「なら返せ! 今すぐ返せ!!」
男は峰に左手の掌底で圧す。機械のような力。負けじと警棒の端で左手で掴むが、じりじりと押し負ける。力比べは不利だ。相手の土俵に立つ必要はない。警棒を傾かせ、横合いに受け流す。強い力は引き戻せない。出来た隙に乗じて鳩尾に叩き込んで気絶させる。その戦略は滑らかな放物線を描いた刃に腹を裂かれて露と消えた。全力ではなかったのか。恐怖と驚愕に見開かれる瞳孔。そこに映るのは自分自身に向けられた鋭利な切っ先。
「幽誅」
下端に添えた掌底で男は刺突を放つ。傷を負った警察官に躱す術などなかった。自分の心臓を貫く刃に、六徳は死に至る痛みより先に燃えるような熱さを覚えた。
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