ブラックコーヒー

朝比奈爽士

Bitter&Black


 僕は大人になってしまった。

 別になりたいだなんて願った覚えは、これっぽっちもないんだけど。


 まるで他人事のような自分の思考に、自虐的に小さく笑う。

 その微笑は、だんだんと色を濃くしていく夕焼けに溶けていった。


 僕がぼんやりと立っていたのは会社のビルの屋上だ。

 その場所は何か嫌なことがあったときの隠れ家であり、僕の秘密基地だった。


 なんてことはない。

 ただ部下のつまらないミスの責任を押し付けられ、仕事量が数倍近くになっただけだ。

 

 ただただ、何も考えたくなくて。

 何もしたくなくなって、今ここにいる。

 

 僕は全てを飲み込んでしまいそうなほど、ドーンと広がる夕焼け空を見上げた。

 夕日はもう沈みかけていて、今にも消えてしまいそうだった。

 茜色に染まった空にはカラスが飛んでいて、カァァ、カァァとしつこいぐらいに鳴いている。


 ふんわりとした優しい風が吹き、まるで僕を慰めるように撫でていく。

 その風の中に、カレーの匂いが溶けていることに気が付いた。

 

 どこの家の夕食なのだろうか。

 そう考えると何だか幸せな気分になって、自然と笑みが溢れてくる。


「さて……と」


 そう呟いた僕は、スーツのポケットからタバコの箱を取り出した。 

 箱を丁寧に開けると、細長いタバコがぎっしりと詰まっている。

 

 僕はそのうちの1本をそっと手に取った。

 火はつけずに、パクッと口にくわえる。

 消えかけの夕日は火の代わりのように、赤々と燃え上がっていた。


 そのまま奥にある自動販売機まで歩いていく。

 そしてサイフからひんやりと冷たい100円玉を取り出し、硬貨投入口へ入れた。

 

 チャリンと音が鳴る。

 その瞬間、自動販売機の押しボタンがそれぞれピカピカと光り、僕の視界を埋め尽くした。


 僕はその光へ、ゆっくりと手を伸ばす。

 ピッと短い音が鳴り、光が一つだけに集中する。

 ガシャンッ!と派手な音を響かせて光の正体……ブラックコーヒーが落ちてきた。


 あんまり好きじゃないんだけどな。

 

 そんな心の底からの声を必死に無視しながら、カシュッと蓋を開ける。

 鼻には空気とともに、恐ろしく濃厚な香りが入ってくる。

 

 僕は思い出したように、くわえていたタバコを口から外す。

 そのまま手のひらでぐしゃっと握り潰して、強引にポケットに入れた。

 

 僕は空を仰ぎながら、コーヒーを流し込んだ。

 泥によく似た液体が、僕の喉をごくごくと音を立てて流れていく。

 その黒い液体に甘さなんてあったもんじゃない。

 どこまでいっても苦くて、苦しくて、辛かった。

 

 やがて、コーヒーが流れて来なくなった。

 僕は一旦正面を向くと、カラカラと缶を振る。

 どうやら中身はほぼ無いようだった。

 

 それを確認した僕は、はぁーと大きなため息を吐いた。

 口の中には苦味ばかりが残り、カフェインのせいで変に目が冴えている。


 思わず空を見上げた僕の目に映ったのは、ブラックコーヒーのようにどこまでも漆黒の空だ。

 先ほどまで空を焦がしていた夕日はすでに沈んだようだった。


 子どもの頃は泥のようなコーヒーの苦さが理解できなかった。

 その苦さは大人になったら理解できるはずだと信じていた。

 相も変わらず苦い泥のままだけれど。


 大人になったらこの味が分かると期待していた。

 大人は自由で強いと信じていた。


 僕にもこの泥の味が分かる日は来るのだろうか。


 僕は手に持っている空き缶を、ゴミ箱に向かって投げつける。

 真っ直ぐに投げた缶はゴミ箱に当たって、カラカラカラという音とともに地面に転がった。


「まあ、そう上手くはいかないよな」


 転がる缶を見つめて、苦笑いをしながら僕は呟いた。

 缶を拾ってゴミ箱に入れてから、僕は階段を静かに降りていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ブラックコーヒー 朝比奈爽士 @soshi33

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ