第15話・思い出のホットミルク
どのぐらいそうしていたのだろうか? ふと喉の渇きを覚えた。目元が気になって鏡台で確認すれば、化粧のはげた自分の姿が映った。泣きはらした顔は瞼が腫れて見えた。
「嫌だ。こんな顔で……」
部屋の燭台には明かりが点っていたが、辺りは静かだ。パーティーも終わったようだ。部屋から出て顔を洗う水を取りに行くついでに、水を飲もうと思った。
ドアを開けると驚いた。そこには壁に背中を預けるミランがいた。彼は立ったまま目を瞑っていた。わたしがドアを開けたことで、彼はその瞼を開けた。
「妃殿下」
彼と目があい、羞恥に顔が赤らむ。この時間なら誰にも会わないと思ったのに。こんな顔を見られてしまうだなんて。
「あの、ミラン。ごめんなさい。ずっとわたしの為に付き添っていてくれたのよね?」
近衛隊の隊長である彼が自ら、わたしの部屋の前で護衛役を買ってくれていたのだ。彼の立場なら配下の者に命じるだけで、従わせることが出来ると言うのに。
「お気持ちはおさまりましたか?」
「ええ。ちょっと喉が渇いて。それと、顔を洗おうと思ってね」
わたしは彼にかなり心配されていたようだ。腫れた瞼を見られたくなくて、俯くわたしに降りかかる彼の声音が優しかった。
「では女官を呼びます。妃殿下は中でお待ち下さい」
「そんな悪いわ。もう夜も遅いから自分で取りに行くわ」
「では私が取りに行きましょう。妃殿下は中でお待ち頂けますか?」
「ミラン。分かったわ」
ミランに強く促され、部屋の中に留まると、しばらくして洗顔用の盥の水と、1つのティーカップをワゴンに乗せてミランがやってきた。
ほてりを感じる頬に、用意された洗顔用の水は冷たく感じられた。でも、そのおかげで少し気が引き締まったような気がする。顔を洗い終えると、ティーカップを差し出された。匂いからして中身は、ホットミルクと分かる。でも、それはただのホットミルクではないように感じられた。
「あなたさまの記憶している味と、同じだと宜しいのですが」
そう言いながら、手渡されたティーカップ。口づけると、ほんのりとした甘い、想像通りの味が感じられた。
「これはエルメリンダさま特製の、ホットミルクね?」
思い出のホットミルクに、収まったはずの涙がこみ上げてきた。あの日の味がここにあった。
「嬉しい。もう一度、口に出来るなんて思わなかった」
良く落ち込んだ時や、泣いた後に今は亡き王妃さまが蜂蜜を垂らしたホットミルクを作ってくれたのだ。そのとっておきのホットミルクを頂きながら、エルメリンダさまに胸の内を曝け出すように話し出すと、悩んでいたことがどうでも良くなるぐらいに、気分が良くなっていたものだ。あの魔法のホットミルクが、また頂けるなんて思いもしなかった。
「どうしたの? これ」
「以前、エルメリンダさまから秘密の特訓を受けたことがあるのです」
「秘密の特訓?」
「はい。エルメリンダさまが、私に特製ホットミルクの作り方を伝授してあげるとおっしゃられまして」
「そうなの? 狡い~。わたしも教えて欲しかった」
思い立って何度か自分で入れようとしたことがある。でも、なかなか思うような味にはならなかった。エルメリンダ王妃さま特製ホットミルクには、何か秘密がありそうだと思っていたのだ。
「これからは、私が入れて差し上げられますよ」
「教えて欲しいわ」
「残念ながらこれは一子相伝なので、私の生きている限りは他の方には教えられません。次に教えられる事になるのは、私の子供になりますね」
「またまた冗談でしょう? ホットミルクで?」
一子相伝なんて言いすぎじゃない? と、思っていると、彼は人差し指を立てノー、ノーと、言いながら二度ほど横に振った。
「これは魔法のホットミルクですよ。そう簡単にエルメリンダ王妃さま特製の、ホットミルクの味を口外なんて出来ません。厳しく約束させられました。絶対、他の者には教えてはならないと。教えるのは後継者のみ。あの王太子殿下さえ、エルメリンダ王妃さま特製ホットミルクの、存在を知らないのですよ」
「え? 嘘。テレンツィオはまさか飲んだことがない?」
「あの御方は牛乳嫌いですから」
「そう言えば、そうね」
ミランとの会話で、気持ちがだいぶ上向いてきたような気がする。まさに魔法のホットミルク効果だ。こんなに美味しい飲み物を、牛乳嫌いな為に飲めないなんて、テレンツィオはかなり損していると思う。
「それにしても残念だわ。エルメリンダ王妃さま特製ホットミルクの味。是非とも教えてもらいたかった」
「お求めの時には、私をお呼び下さい」
「是非そうさせて頂くわ」
「はい」
ミランのおかげでくすんだ思いは、明るい気持ちに塗り替えられていた。
「では私はこれで失礼致します。お休みなさいませ」
「ありがとう。ミラン。お休みなさい」
退室する彼を見送り、寝台に寝転がった。お腹も心も満たされている。彼に元気をもらったような気がする。姿は見えないのに、ここにエルメリンダ王妃さまがいて慰めてくれたような気がした。
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