断崖
旗尾 鉄
第1話
新潟県の上越地方、富山県との県境に近い場所に、「
古くから、旅の難所として知られた場所だ。海岸線ぎりぎりまで、断崖絶壁がそびえ立っている。崖は、高いところでは数百メートル。
昔の旅人は崖下の狭い海岸を通り抜けるしか道がなく、運悪く波にさらわれて命を落とす者も多かった。幼い子を連れた親、老いた親を伴う子、そんな親子連れの旅であっても、親が子を、子が親を気遣う余裕もないほどの難所だとして、その名がついたという。
現在では国道八号線、高速道路の北陸自動車道、北陸新幹線が整備されて、命がけの旅ではなくなった。北陸自動車道は海上設置されていて、日本海の絶景を、空中から眺めるような感覚で楽しむことができる。
ある年の、夏のことである。
一人の男が、国道八号線を富山から新潟方面へと車を走らせていた。高速ではなく国道を使ったのは、高速料金を節約して少しばかり今夜のビール代を多めに捻出しようと思ったのかもしれない。
親不知に差しかかったのは、夕暮れ時だった。国道は、崖の中腹にへばりつくように通っている。新潟方面へ向かう場合、右は落石ネットが張られた崖がそそり立ち、左のガードレールの向こうは数十メートル下の海へと落ち込む断崖である。
車は、覆道へと入った。
このあたりは落石の危険があるため、半トンネル状の覆道が何か所か設置されている。海側は壁ではなく支柱で支える構造なので、ドライバーは美しく広がる海を眺めながら走れるというわけだ。
男はオレンジ色に染まった日本海を見ながら車を走らせていた。時間帯のせいなのか、たまたまなのか、自分以外、車の影は一台もない。
だが突如、男はぎょっとして慌ててブレーキを踏んだ。海側の支柱の下方、事故防止用のガードを掴んでいる人間の手が見えたのである。
見えたのは両手の拳と手首までだったが、明らかに外側から掴んでいた。つまり、誰かが断崖にぶら下がっている状態である。なぜそんなことになったのか分からないが、いまは考えている場合ではない。
とにかく、一刻も早く救助しなければならない。男はすぐに車を降り、手を目撃した場所へと駆け戻った。
ぶら下がっていたのは、男性だった。黒い僧衣を着た、初老の僧侶だ。このあたりの寺の住職だろうか? 青ざめた顔で、僧衣は汚れ破れ、腕とこめかみから出血している。
「あ……、うあ……」
助けを求めようとしているらしいが、うまく言葉にならない。
「大丈夫かっ! いま、助けるからな。ほら、しっかり掴まれよ!」
学生時代からスポーツで鍛えて体力には自信があった。男はガード越しに右手を伸ばし、僧侶の右手首をがっしりと掴んだ。
「よーし、いまから引っ張り上げるからな。せーのっ!」
男は体重を後ろにかけ、僧侶を思いきり引っ張り上げる。ぐいっと手ごたえがあり、僧侶の体が持ち上がった感じがした。
だが次の瞬間である。突然、僧侶の体が何倍にも重くなった。重力で崖下へ引っ張られている。耐えきれず、男の体がガクンと前につんのめった。
男は事故防止ガードにしがみついて、かろうじて転落を免れた。ガードの外へ落ちそうになった瞬間、男には崖下の様子がはっきりと見えた。
ぶら下がる僧侶の足首に、別の男が掴まっていた。道中合羽を身につけ、時代劇に出てくる渡世人のような姿をしている。
その渡世人の足首には、また別の人間が掴まっている。赤ん坊を背負った母親だ。その母親の足首には、また別の者が。
そうやって、ずっと下まで、足首を掴み掴まれした人々が鎖を垂らしたように連なっていたのである。すでに日は沈み、あたりは暗闇に支配されつつある。
「うわあああああっ!」
男は恐怖の叫び声をあげた。このままでは引きずり落される。僧侶の手首を掴んでいた手を離した。
だが、状況は変わらなかった。こちらが手を離しても、今度は僧侶のほうが男の手首を掴んでいる。振りほどこうにも、ガードにしがみつくのが精いっぱいで思ったように身動きがとれない。
「は、離せ! 離してくれ!」
そのときはじめて、僧侶が意味のある言葉を発した。
しわがれた、生気のない声で。
「あんさん、頼むから、落ちてくれやぁ。そうすりゃあ、わしゃあ、楽になれるんじゃ……」
男を見上げる僧侶の左目が、不自然に動いた。眼球が糸を引いて、ボトリと落ちた。眼窩を押し広げるようにして、ヒトデが這い出してくる。
こいつらは、ここで命を落とした死人なんだ。俺が落とされれば、きっとこの坊さんは成仏できるに違いない。そしてその代わり、俺ははるか崖下の、この列の最後尾について、何年も、何十年も順番待ちをするのだ。誰かの足首に掴まり、ぶら下がりながら、次の犠牲者を待つのだ……。
男の腕はしびれて、もう限界だった。
あきらめて身をゆだねようとした、そのときである。
けたたましいクラクションの音、地響きのようなトラックの轟音、急ブレーキの音が重なって響きわたった。ヘッドライトが夜の国道を照らしだす。
ブレーキが間に合い、トラックは男の数メートル手前で停車した。
「なにやってんだバカヤロー! 危ないだろうが!」
窓から顔を出した運転手が怒鳴る。
我に返ると、体は自由になっていた。恐る恐る崖下を覗いてみたが、僧侶も、渡世人も、ぶら下がる死者たちも、すべては跡形もなく消え去っている。
路上にへたり込む男の目の前にはただ、暗く波を打つ夜の日本海が広がっているばかりだった。
断崖 旗尾 鉄 @hatao_iron
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