三月十一日 黒い海

 遠くから変な音が聞こえてきた。

「……何この音」

 甲子園の時に聞こえてくるあの音に似ている。ちょっと長いハミングみたいな。不安になる音。不安に駆られて動けずにいたところに、三年前近所に引っ越してきた、五歳年上の頼れるお姉さん、美津子ちゃんが通りかかった。

「ちょっとつぼみちゃん何やってるの? 早く逃げないとダメだよ」

「あ、美津子ちゃん……何? この音?」

「つぼみちゃん知らないの? 津波警報。これから津波が来るからサイレンで知らせてるの。早く逃げないと津波に呑まれるよ」

「え……でもどこに行けばいいの?」

「避難所は少し遠いから、歩きで行けるここよりもっと高い場所。ここは少し標高が低いから逃げなきゃ。一緒に行こ。つぼみちゃん」

「うん」

 良かった。美津子ちゃんがいるなら安心だ。束の間、不安から解放されたかった私はそう思ってついて行った。

 歩いている途中、家から出てくる人をいっぱい見た。どうやらみんな警報を聞いて出てきたようだ。

「みんな出てきたね……でもホントに来るの? 津波。来る気配ないけど……」

「来るときは来るのよ。それにその言い方だと、つぼみちゃん津波は水かぶるだけみたいに思ってるでしょ。違うから。津波に呑まれるとね、海の底に一瞬で沈むの」

「ふーん」

 しばらく歩いていると、人だかりができている場所が見えた。

「たぶんあそこが高いんだね。みんないるし。あそこに行って津波をやり過ごそう」

 そこにいる人たちはみんな不安そうだった。家族は無事か、家は壊れていないかという声が聞こえてきた。その時、美津子ちゃんが言った。

「大丈夫! 私たちが無事なんだからみんな無事なんでしょ。きっと」

「それもそうだな」

 私たちはその言葉と、ここにいる人数が多いことに安心していた。

 みんなで不安を和らげるために他愛もない話をしばらくしていた時だった。なんなら津波も来ないし、一回家に帰って防災グッズを取りに行って避難所に行こうかとしていた時だった。

 また地震が来た。今度はさっきよりは小さいが、やはり大きい。びっくりしてみんなしゃがみ込んだ。しばらくして揺れはおさまったが、みんなの不安はおさまらなかった。

 本当に大丈夫だろうか、とまた落ち着かなくなる。

 それからしばらくして、また変な音が聞こえた。今度はさっきの警報じゃない。地面がうずくような音だ。

 こちらに向かって走ってくる人たちが見えた。私たちの姿を見るなり何かを言い始めた。

 え? なんて言ってるの? ……に……に、げ……にげて?

 ……まさか。まさか津波が来たんじゃ。

 その人たちの背後には、さっきまでなかった海があった。本当に、海が丸ごと来ているのだ。建物を容易に呑み込む。ものすごいスピードでこちらに向かってくる。

「あ……」

 怖い。足が動かない。どうしよう。どうしようたすけて。だれか。走っていた人たちはもう波に呑まれている。隣で美津子さんが呟いた。

「たくや……」

 お母さんお父さん、葉琉、ごめんなさい。……葉琉……最後にあなたに会いたかったな。


 海は、人々を恐ろしいほど優しく、包み込んだ。

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三月の紫苑 内月雨季 @misaki78

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