『ありがとう』

うたた寝

第1話


「いよいよだな……」

 定時後。日付も変わろうと夜が更けてきた時間帯。会議室には二人の男女が居た。オフィス内にはもうほとんど人は残っていない。一部深夜作業がある人たちなどはまだオフィス内に残っているようであるが、大半の人たちはもう退勤済みだ。

 では会議室に居る彼らも深夜作業で残っているのか? 深夜作業と言われれば深夜作業ではあるが、業務ではない。思いっ切りプライベートな用件で残っている。そのため、残業扱いにならないよう、タイムカードはお互い既に切ってある状態だ。私用で残っているため会議室の電気も必要最小限だけ点けて電気代が掛からないように気を遣っている。

 会議室の机で手を組んでいる男性・高原は横の席に座っている女性・叶恵の方を見ながら呟いた。高原は叶恵の一個上の先輩。配属された部署こそ違うが、叶恵の新人研修を担当した縁もあり、叶恵の一個上の先輩の中では一番仲のいい先輩と言ってもいい関係性だった。

 この人こういう空気感作るの好きなんだよなぁ……、と。叶恵は口が緩まないよう手で口元を隠して世界観について行こうと、高原と同じく神妙な声を演じてみる。

「いよいよ、ですね……」

 笑いを堪えるのに若干必死ではあるが、叶恵は何とか笑わずに言い切った。高原は一回頷くと、

「全ての準備は整った。決行は明後日。しかし、この状況に至ってもまだ一つ、たった一つだけ、しかしかけがえのない一つがまだ済んでいない」

 ゴクリ、と。叶恵も緊張で喉を鳴らす。すると高原は机の上で手を組んだまま、目線だけ叶恵へと移すと、


「というわけでお前。明日任せた」


「………………」

 一瞬意味が分からなかった。コイツは何を言っているんだろうと思った。しかしやがて叶恵の理解が追い付いてくると、

「えっ!? えっ、えええええぇぇぇぇぇっっっっっ!?」

 世界観完全無視の素っ頓狂な声で叶恵は叫んだ。

「いやいやいやいやっ! いっちばん大変で大事なところじゃないですかっ!? えっ? それを丸投げぇっ!?」

「丸投げとは何だっ! その他諸々の大変な準備全部こっちでやってやったろうがっ!!」

「よく言うっ、半分以上手伝ってますよっ! 私がぁっ!」

「あったり前だろっ! 全部お前のためにやってんだからぁっ! そもそもこっちは何もやらなくたって文句言われる筋合いはねぇっ!!」

「うぐっ……っ!!」

 痛いところを突かれた叶恵は押し黙る。そう。そもそも善意で、もとい結構強めに押して頼み込んで手伝ってもらっている身だ。何なら結構業務で忙しい時も無理言って時間を作ってもらったりもした。文句など言えるわけもない。

「……ごめんなさい」

「いや、急に素直に謝るなよ……」

 俯いて謝ってくる叶恵の頭をポンポンと撫でながら高原は、

「本当言うと、その部分もこっちでやろうかとは思ったんだけどな……。流石に部署が違くて接点が無くてなぁ……。ちょっと難易度が……」

「そうですよね……」

 適任者は間違いなく叶恵の方である。何故なら叶恵は同じ部署だし、曲がりなりにも一年ちょっとの交友がある。高原よりは間違いなく接点がある。

 それに高原も言っていたが、これはそもそも叶恵のための作戦なのだ。であれば、一番難易度が高かろうと、一番重要な部分は叶恵が背負うべき役目であろう。

「分かりました……。私に任せてくださいっ!」

「頼んだぞ」



「遊びに?」

 コンビニで買って来たおにぎりを一口頬張りながら彼は叶恵の方を見て聞き返す。

 会社のお昼休み。昼食の取り方には大体3種類居る。お弁当を持参してくるタイプとお弁当を外に買いに行くタイプ、外に食べに行くタイプの3種類だ。

 叶恵の部署の人間は一度外に出たい人が多い関係か、お昼休みに買いに行く人と食べに行く人の数が多い。そして、彼が朝お弁当を買って来るタイプだと知っている叶恵がお昼休みの最初の10分程度、二人で話す時間を設けるのはそれほど難しくなかった。

 話す時間を設けること自体は難しくないのだが、問題はここから、

「……誰が行くのよ、それ」

 彼は怪訝な顔で聞いてくる。

「私と、キヨと、それと高原さんです」

「その面子、明らか俺だけ浮くじゃん……」

「いえー……、そんなことはー……」

 叶恵は語尾こそ濁しながらも、目がそっぽを向いている。嘘が吐けない性格なのだろう。

 叶恵とキヨは同期。同期内で唯一の同性同士ということもあり同期で一番仲が良い。高原は叶恵とキヨの一個上の先輩で新人研修を請け負った関係性もある。対して彼は叶恵とは同じ部署の二個上の先輩、という関係性があるが、キヨと高原に至っては、彼は正直顔と名前が一致するか怪しいレベルで接点が無い。明らかに面子の中で彼だけちょっと浮いているのである。

「その二人に気を遣わせても悪いしな……」

「いえー……、そんなことはー……」

 ある。何せ、キヨも高原もほとんど彼とは初対面である。厳密に言えば、高原やキヨの新人歓迎会の際、ちょっとだけ挨拶したことくらいはあるが、それだけである。ある程度コミュ力の高い二人ではあるが、彼が先輩ということもあり、気を遣わないというのは難しい話であろう。

 そもそも、何故叶恵が二個上の先輩である彼と接点を持てているのか? それは叶恵が部署に配属された際の、ちょっと特殊な事情がそうさせた。

 部署に配属後に行う新入社員へのOJT。大体は一個上の先輩が行うものなのだが、叶恵の部署ではその一個上の先輩が辞めてしまっていたため、そのもう一個上の先輩である彼が叶恵のOJT担当となっていた。

 大体新入社員は質問を一個上の先輩にしたりするので、二個上ともなるとそれほど接点が持ちづらかったりもするのだが、彼と叶恵は前述の特殊な関係もあり、接点を持てていた。

 だから叶恵はよく知っているのである。彼がこの手の誘いを渋ることを。何なら結構容赦無く行かないと断ることを。だが、彼はちょっと後輩には優しいところがあるため、叶恵からの誘いを無下には断ろうとはしないみたいであったが、

「うん。俺だけ気まずそうだし、二人にも悪いし、今回は遠慮しておこうかな」

 言い方が普段より大分マイルド、というだけで、結果断られそうである。マズい。ここで断られてしまうと、一か月程度に渡った準備が全部水の泡である。何とか粘らなくては。いやしかし、どう粘ればいい?

 話終了、とばかりにおにぎりを再び齧り始める彼。話まだ終わってない、いや、終わらせたくないんですけど……、と横で呆然と立ち尽くす叶恵。何か、何か無いかな、と叶恵は言葉を探し続けた結果、

「…………ダメ、ですか……?」

 明らかに彼が断わったことに対して困った顔を浮かべながら彼の方を見る叶恵。それを見て、おにぎりを齧ろうとしていた彼の手が止まる。

「………………」

 この聞き方、彼はすっごいズルいと思う。これで断ろうものなら彼がものすっごい悪者みたいではないか。シンプルな泣き落としである。が、案外物事を頼む時というのは泣き落としが有効だったりするものらしい。

「……まぁ、何か予定があるわけでもないし。そんなに誘ってくれるなら行くよ」

「ホントですかぁっ!?」

 パァッ!! と明るくなる叶恵。コイツ、さっきの暗い顔演技じゃないだろうな? と彼は一瞬疑ったが、いや、嘘が吐けないタイプだったな、と思い直す。



 当日。彼は待ち合わせ場所に時間を見計らってから合流することにした。彼の性格上、交通機関などを使う場合、トラブルなども考慮して一時間前程度には待ち合わせ場所の近くに既に居たりするのだが、それを後輩との待ち合わせでやろうものならただの圧であろうと、近場にだけ来ておいて、待ち合わせ場所には時間を潰してから行くことにした。

 結果、最後に来ました、みたいな雰囲気になるのが若干納得のいかない部分ではあるが、後輩に圧を与えるよりはマシであろう。これでも待ち合わせの5分前だし、文句は言われまい。というか、5分前にも関わらず、既にみんな居るのか、と彼は若干驚きもした。

 特に、

「あっ、お疲れ様ですー!」

 真っ先に彼に気付いて笑顔で挨拶してきたキヨ。キヨと彼は前述の通り、ほとんど初対面ではあるのだが、キヨの噂程度は彼も聞いたことがある。結構な遅刻魔らしい。入社して以来、時間通りに着たことが無いとかなんとか。

 流石に都市伝説だろ、と彼は思わなくもないが、以前気になって調べたキヨの日報を見た際、その月の出勤は全部遅刻していたようであった。あながち都市伝説でも無さそうだな、と彼は認識を改めたところだった。よく今日待ち合わせに遅れず、さらには5分前になんて来たものである。プライベートでは時間を守るタイプなのかもしれない。

 遅刻はするが、仕事の能力は高く、同期内では一番仕事が早いらしい。その証拠に、遅刻してきたにも関わらず、キヨは業務をちゃんと業務時間内に終わらせて残業せずに帰るらしい。

 能力も高く、社交性も高いので社外の打ち合わせなどをゆくゆくは任せたいとのことだったが、遅刻癖がネックとなって上司が悩んでいるらしかった。

「お疲れ様です」

 続いて頭を深々下げて挨拶してきたのが高原。正直彼は高原の顔はあんまり覚えていないが、高原であることをすぐに認識する程度のことはできる。何故か? 着ているTシャツにデカデカと何かのアニメの女性キャラの顔がプリントされているからである。彼はもうそれを目印に高原だと認識している。

 何を着ようが基本的には本人の自由だと彼は思うが、自分だったらあれは着れないな、とは思う。着れて近所のコンビニまでである。服にそれほど頓着しない彼ではあるが、人の視線を集めそうな服は中々着れない。

 アニメキャラの服を着ているせいか、高原本人もどこかアニメキャラクターっぽい振る舞いをするらしいが、この高原、相当優秀らしい。通称・地獄とまで言われている会社内で一番厳しい部署、厳しい上司が居る場所に配属されており、早い者だと本当に一週間持たずに辞めるか異動の申し出があるのだが、辞めなかったどころか結果を出し続けたほどの人物である。

 これに関して、彼は素直に高原を尊敬している。彼なら1時間持たない自信がある。高原の役職を上げよう、という話も出ているらしく、早ければ年内にでも高原は彼より上の役職者となるだろう。

「お疲れ様です……」

 最後に挨拶してきたのが、どこか緊張気味の叶恵であった。彼がこの中で唯一まともに話したことのある、接点のある後輩である。彼としては、叶恵以外とはほとんど初対面であるし、自分からは積極的に話し掛けられるタイプでもないので、叶恵に間を取り持ってもらいたいところなのだが、どういうわけか、前述の通り、ちょっと緊張気味である。挨拶が済んだ後、落ち着かなそうに俯いている。

 え? 何? と彼が不思議がっていると、

「先輩ってー」

 キヨが横から話し掛けてきた。突然の話し掛けに驚きはしたが、彼は別にコミュ障というわけではない。最初の第一声を話し掛けるのが苦手、というだけなので、その一声さえ誰かが発してくれれば、後は普通に話せるのである。

 キヨと彼が雑談をしている間、高原が叶恵にそっと近づきその肩に触れた。触れられた彼女は何回か自信なさげに頷いていた。そんな様子を彼はキヨと話しつつも横目で気になって見ていた。



 どこかずっと様子のおかしい叶恵のことが彼は気になっていたが、高原が傍に居て様子を見てくれていそうなので、彼からは特に聞こうとはしなかった。機会があれば声を掛けようかとも思ったが、基本的にはずっと高原の傍に居たので邪魔するのもな、と思い、声を掛けることはなかった。

 声かけする余裕が無くなった、というのも理由としてはあるかもしれない。

 四人が来たのは遊園地。ここに彼が叶恵の誘いを渋った理由が一部あったりする。

 彼、乗り物にそれほど強くないのである。

 会社などに出勤する程度の短時間であればそれほど問題も無いが、2時間、3時間と乗っていると、アトラクションでもない通常の乗り物でも酔う。戻したりすることは滅多に無いが、それでも下車後しばらく駅のホームで休憩したりはする。

 故に彼は遊園地など自分で行ったことはほとんど無い。理由は単純。絶叫系などに乗ろうものなら単純に酔うからである。コッソリ乗り物酔いの薬を飲んで参加したのだが、4つ乗った辺りくらいで彼は若干気持ちが悪くなってきた。

「ちょ、ちょっとトイレ行ってきまーすっ!」

 乗り物から降りた直後、キヨがそう言ってダッシュした。彼と一緒に乗り物酔いをしてトイレに駆け込んだ、というわけではない。単純に生理現象だろう。乗る前、列に並んでいる時からトイレに行きたい、と言っていたし、結構切羽詰まっているのかもしれない。

 そのおかげなのか、元々足が速いのか、キヨの背中はあっという間に見えなくなった。休憩できてちょうどいいな、と彼が思っていると、

「私も行ってきますね」

 高原が手を挙げてそう言った。高原がトイレに行っている間に、ちょろっと叶恵に様子がおかしいことについて聞こうかとも思ったが、高原は叶恵の肩をポンっと叩くと、

「トイレ行かない?」

 と叶恵に促した。叶恵は一回頷き掛けてから、ふと彼の方を見た。彼だけこの場に残すことに抵抗を覚えたのかもしれない。

 彼は一回肩をすくめると、

「荷物見てるから行ってきな」

 そう言って、二人を促した。どこか近い距離感で、二人で談笑しながらトイレへと向かっていく二人の背中を、彼は何となく眺めていた。



「お待たせしましたー」

 キヨが手を豪快に空中で振りながら帰ってきた。キヨが合流した後、彼は地面に置いていた自分の荷物を担ぎ直すと、

「……さて。じゃあ俺は帰るから、適当に伝えといてくれる?」

「え? え? え?」

 急に帰ると言い出した彼に困惑するキヨ。何か怒らせるようなことしたかな? とキヨは自分の行いを省みたが心当たりが無い。トイレ行って手を洗ったはいいものの、それを拭く物が無く空中で手を振って自然乾燥させているキヨに幻滅でもしたのだろうか? だからって帰ることはなくない? とキヨは思ったのだが、幸か不幸か、キヨが何かをしたわけではないらしい。

「俺が居てもお邪魔だろうしな。キミは……、どっかで席外した方がいいのか、よく分からないけどな」

 よく分からないのはこちらの方なのですが、貴方は先ほどから何を仰っているんですか? という表情をキヨが浮かべていたからだろう。彼が衝撃の言葉を付け足してきた。

「付き合ってるんだろう? あの二人」

「………………へっ?」

 キヨは固まった。どう答えたものか頭を回転させる。確かに、叶恵と高原は仲がいい。社内でも二人で話しているところはよく目撃される。付き合ってるんじゃね? なんて面白おかしく噂されたりもしている。

 その噂からの印象の話をしているのであれば、キヨの方で『仲いいだけですよー』と軽めに否定を入れることもできるが、彼の言葉はどこか、噂程度ではなく、どこか確信めいて言っているような気配がキヨはした。なので、

「ち、ちなみに……、何故そのようにお考えに?」

「ん?」

 彼は少し言うべきか考えた後、叶恵と同期で一番仲がいいキヨならば恐らく高原と叶恵が付き合っていることは知っているだろう、と勘違いしてくれたのか、彼がそう思った理由を説明し始めた。

 ふーん。なるほどなるほど。へー。

 と、キヨは彼の話を表面上は必死ににこやかな笑顔を保ちつつ、内心はとある人物への怒りに燃えていた。

 あのバカ……ッ! そりゃあ勘違いするだろう……っ!!



 こう見えて、運動神経が抜群にいいキヨは園内を全速力で駆け巡っていた。その辺の男子と駆けっこしても負けはしない俊足を活かして疾風のごときスピードでバカを探し回るキヨ。

 そうしてようやくバカの背中を見つけたキヨはその背中に飛び蹴りしたい気持ちを必死に堪えつつも、とりあえずドーン! とバカの背中、高原の背中に勢いそのままぶつかることにした。

 突然の背後からの衝撃に受け身も取れずに吹っ飛んだ高原は地面を転がりながら呻いているが、キヨは完全無視して、

「こぉんのバカァッ!!」

 感情そのままに叫ぶキヨ。何? 何? 何事? と。どうやら何かマズいことが起きているらしい、と察した高原は痛む体を押さえて起き上がる。起き上がった高原の両肩を掴みながらキヨは、

「完っ全に誤解されてますよっ!!」

「…………何が?」

「二人の関係っ!!」

「…………ん?」

 あまりにも理解の遅い高原にキヨは一発ぶん殴ってやろうかとさえ思ったが必死に堪え、

「こぉんのっ! 高原さんと叶恵が付き合っているって勘違いされてますぅっ!!」

「………………」

 は? と高原は思った。この女は何を言っているんだろうと思った。しかしやがて理解が追い付いてくると、

「はぁぁぁっっっ!? なっ、何でっ!? 何でそうなるのっ!?」

「何でってそりゃ当たり前でしょっ! 定時後にわざわざ二人で会議室で話してるわ、有休合わせてどっか行ってるわ、挙句露骨に二人っきりになろうとするわ。端から見たら完全に付き合ってる二人ですよっ!!」

「全部この日のためにやってることだぜぇっ!?」

「そんな事情あの人が知っているわけないでしょうっ! 気遣ってどっか行っちゃいましたよっ!!」

「止めろよっ!!」

「どう止めろって言うんですかっ!? 全部ネタバレしていいなら止めれますけどっ!!」

「あーっ! もうっ! くそっ!! 何だってこう面倒くさいことにっ!! こんなんだったら段取り全部お前に任せるべきだったっ!!」

「仕方ないでしょうっ! 私は私で急ぎの仕事やらされてたんですからぁっ!! 私だってあなたがこんなにバカって分かってたら日付ずらしてでも私がやりましたよぉっ!!」

「何て言い草だぁっ! 不慣れにも関わらず一生懸命頑張ったんだぞぉっ!?」

「その結果致命的な誤解生んでるじゃないですかっ!!」

「ええいっ! とにかく探せぇっ! 園の外に出られたらもうお終いだぞぉっ!!」



 園の出口へと向かう彼の足取りは速いようでどこか重たかった。

 今日彼が呼ばれた理由がイマイチよく分からなかった。明らかに二人の邪魔だったと彼は思う。何故、叶恵は彼を誘ったのだろうか?

 キヨが呼ばれている理由はまだ分からないでもない。二人っきりだと緊張するから、サポート役として欲しかったのかもしれない。だけど、彼が呼ばれる理由とは一体何だ? 何も思いつかない。

 社内恋愛していることを彼に報告でもしたかったのだろうか? 上司にならともなく、一先輩である彼にわざわざ報告することもないと思うが。

 誘われた時から率直に言って、邪魔じゃない? と思ってはいた。その言葉を直接的には口にせず、婉曲で断ったのだが、予想外に粘られてつい、行くと行ってしまった。

 だが、結局はやっぱり邪魔だったではないか。実際、二人はトイレに行く、という口実を作ってまで二人きりになろうとした。だったら最初から呼ばなければいいじゃないか。そう思わずにはいられなかった。

 そもそも、本当は来たくなどなかった。

 遊びに来たくなかった、という意味ではない。叶恵と高原のデートの場に来たくなかった。

 邪魔したくなかった、という意味よりも、彼自身がその場に居たくない、という意味で。

 最初はただの後輩だった。何だったら、物覚えの悪い後輩だな、とちょっと印象は悪かった方かもしれない。

 けど、物覚えは確かに悪いが、何事にも一生懸命だった。そこまで丁寧にやらなくてもいいのに、と思うほど、彼が感心するほど丁寧に仕事をしてくれていた。

 その頑張っている姿勢がどこか放っておけなくて、彼は自分の仕事などそっちのけで手伝った。誰も責めやしないミスをして、酷く落ち込んでいたようなので、付きっ切りで慰めもした。

 どこか特別な感情が混じっているような気もした。けど、後輩だから一生懸命面倒を見てるんだ、と思ってもいた。

 けどある日、彼が仕事のフォローをして、そのまま席を離れようとした時、不意に手首を掴まれた。驚いて振り返ると、とても不満げな顔がそこにはあった。

『…………いつもそうですよね』

『な、何が……?』

『いつもお礼を言わせてくれないことです』

 お礼を言われるようなことなどしてないからな、と彼は思ったが、そう返す前に、

『いつもありがとうございます。本当に、感謝してます』

 彼に面と向かってそう言ってきた。とても嬉しそうな笑顔を浮かべて。

 どういたしまして、とも口にできず、彼は曖昧に頷き返した。


 それ以来だったと思う。


 それまで何も気にしなかった、叶恵と高原が楽しそうに話している様子を、どこか複雑な心境で眺め始めたのは。それまでふーん、と聞き流していた、二人が付き合っている、という噂が、どこか意味を持ち始めたのは。

 叶恵には彼氏が居る。だから、叶恵が彼に向けてくれる好意は全て、職場の先輩としての好意。決して恋愛感情ではない。それは彼も分かっているのだが、叶恵に『ありがとう』と言われた言葉が、ずっと耳から離れなかった。その時の笑顔が、ずっと瞼の裏に浮かび続けていた。

 先輩としての好きを、どこか勘違いしたくなる自分が居た。『付き合っています』と叶恵の口から直接聞いていないのをいいことに、そう都合良く思い込みたい自分が居た。けど、現実は違う。

 彼が深夜作業で残っていたある日、叶恵と高原が業務時間外にも関わらず、会議室で二人で話しているのを偶然見かけた。覗き見ようと思ったわけではない。トイレへの通り道で視界にどうやったって入るのだ。何だったら、彼としたって見たくなかった光景であった。

 向こうは話に夢中で気付いていないようであったが、定時後まで二人で話している。定時内であれば、一緒に話している理由も、『仲がいいから』くらいで済ませられたかもしれないが、わざわざ定時後に時間を作ってまで話しているのであれば、それはやはり特別な関係だからであろう。少なくとも、家に帰るよりも、こんな時間まで二人で話している時間の方が、二人には大切、ということだろう。

 叶恵が有休を取った時、ふと気になって高原の出勤状況も見てみた。すると、高原も同じく有休を取っていた。普段、どちらもあまり有休を取らない二人だ。有休の期限が切れる直前になって無理やり取らされていたのを彼は覚えている。

 その二人がたまたま同じ日に有休を取っている。偶然とは思えなかった。先日、二人で会議室で話していた様子を思い浮かべる。あの時、今日のデートの行き先でも話していたのかもしれない。

 背もたれに付けた背中が重たくなって離れなくなったように感じた。胸の中で何か不快な感覚が走り回っていた。本人から直接言われていない、という理屈はまだ通る。二人は付き合っていない、と思うこともできる。

 だけど、無理だ。彼は深く息を吐く。自分の中で全てのことに納得できてしまった。付き合ってないと思い込むにはもう無理だった。付き合っている、そう考えた方がよっぽど自然なのだ。

 気持ちの置き方をどうすればいいのか、彼には分からなかった。既に彼氏が居る女性を好きになった場合、一般的な男性はどうするのだろうか?

 俗に言う、略奪愛でもするのだろうか? だけど彼にそこまでの度胸は無い。付き合っていることさえ知らなければ、告白でもして、自分の気持ちに整理をつけられるのかもしれない。けど、彼氏の居る相手に告白する勇気も無い。

 それに、仮に彼が叶恵に告白したとして、その返事は絶対にNoだ。彼氏が居るのだから。答えは分かり切っている。それにも関わらず、彼をフったことについて、叶恵は多少なりと気を遣うだろう。こちらの自己満足のために叶恵に気を遣わせるのは、彼の本意ではなかった。

 片想いの恋愛が終わる方法はおおよそ二種類だと思う。両想いになるか、フラれるか。そのどちらも選べない場合、片想いとはどうやって終わればいいのだろうか?

 ずっと、このままなのだろうか? それはしんどいな。

 そんなことを思いながら、彼が園の外に出ようとした時、


「ぎゃあぁぁぁっっっ!?」


 ……何か、聞き覚えのある声で間抜けな悲鳴が聞こえた。

 何だ? と彼が声の方を見てみると、どういう経緯があればそんなことになるのか、叶恵が手に持っていた大量のプラスチックの鉢植えをひっくり返したもようで、全身土だらけになっていた。

「い、いたたたた……」

 叶恵は体の上に乗った土を鉢植えへと戻しながら体を起こすと、そこでようやく彼が叶恵の方をガン見していたことに気付いたらしい。パチクリと。何回か瞬きをした後叶恵は、

「おや? そちらで何を?」

 一言一句こちらのセリフだ、と彼は思った。



 遊園地閉園後にも関わらず、彼と叶恵は観覧車に乗っていた。何と、閉園後の1時間だけ貸し切りの時間を貰ったとのことだった。

「よく貸し切りなんてできたな……」

 いくらするのよ、と彼なんかは思ったりするが、向かいに座っている叶恵が得意げに、

「体で稼いだんです」

「…………体で?」

 何したんだコイツ、という彼の視線を受けて、

「ああっ、いやっ、違いますっ! 違いますっ! 本当に違いますっ!! 今すっごい誤解を招く言い方しましたねっ!! 違うんですっ! 園内のフラワーアートのお手伝いをしたって意味ですっ!! ああほらあれっ!!」

 叶恵が指差した先には巨大なフラワーアートがイルミネーションによって着飾られていた。そこでようやく叶恵がさっき土だらけになっていた理由に彼は納得がいった。今日も今日で手伝っていた、ということか。

『ありがとう!』という大きな文字と、周りを彩るように描かれている絵。あれを手伝ったのか。どれほどの数の植木鉢を使っているのかさえ、彼にはピンとこない。

「途中、終業後の時間だけじゃ間に合わなくなってきたので、有休取って手伝いに来たりもしたんですけどね……。高原さん暇だって言うので一緒に手伝ってもらったりもして」

 暇、ねぇ……? 本人がそうカッコつけたのであれば彼は黙っておくが、彼の記憶が確かなら、あの後高原は休日出勤していたと思うが。

「あの文字」

 叶恵はフラワーアートの『ありがとう』の文字を指差す。

「どういう意味だと思います?」

 彼は少し考えてから、

「ご来場してくれてありがとう、って意味じゃないの?」

「半分合ってます」

「半分?」

「言ったじゃないですか。私も手伝ったって。園内の人の気持ちはそうだと思います。だから半分合ってます。もう半分の、私の気持ちもあるんです」

 どこか意味深な笑みを叶恵が向けてくる。彼としてはあまり直視したくない笑みだ。勘違いしそうになる。

「あれ、先輩への私の気持ちです」

「………………えっ?」

「いつもありがとうございます、という気持ち。先輩、中々言わせてくれないんですもん」

 叶恵が彼にちゃんとお礼を言えたのは、恐らく一回だけだったと思う。それ以降、彼女への気持ちを理解した彼は、彼女とはあまり距離を近付けないように、距離を取っていたから。

「本当は違う文字書きたかったんですけどねー。流石に文字は決まっていたので、気持ちだけ別に込めてきました」

「何書きたかったのさ?」

「それは……、まだちょっと秘密です」

 秘密なら言うな、と彼は思わんでもなかったが、まぁきっとその文字を伝えたいのは彼ではない、ということなのだろうな。

 彼はちょっと胸に痛みは覚えながらも、平静を装って聞いてみる。

「…………ってか、俺と乗ってていいわけ?」

「はい?」

 思いっ切り首を傾げられた。何だ? 相手の名前までこっちで言えというのか。結構酷なことをさせるな、と彼はもう一度胸の痛みに堪えながら、その名前を口にする。

「高原さんと乗らなくていいのかな? って」

「何で高原さん?」

 今度は逆側に首を傾げる。何でこんなしらばっくれるんだ? そんなに隠しておきたいのか? もうバレてるのに。彼は一回大きく息を吸ってから、何かと決別するかのように、ハッキリと、

「だって、付き合ってんじゃないの?」

「………………はっ?」

 決別、するつもりだったのが、あまりにも間の抜けた顔が返ってきたので、彼がずっと胸の中にしまっていた微かな希望が呼び起された。しかし、その希望を彼が感じる前に、


「はぁぁぁぁぁいぃぃぃぃぃっっっっっ!?」


 叶恵が奇妙な悲鳴を上げた。よっぽど予想外の言葉だったらしい。観覧車の密閉空間で突如叫ばれた彼は耳を庇うのが遅れ、耳がキンキン言っているが、追い打ちをかけるように叶恵は騒ぐ。

「何ですかっ!? えっ!? 何それっ!? 何でそうなるんですかっ!?」

「え、いや、だっていつも楽しそうに話してるし……」

「仲いいですからねっ! それだけですよっ! 話している内容だってアニメの話ですよっ!? アニメの話できる人他に居ないんだから諦めて高原さんと話すしかないじゃないですかぁっ!!」

『諦めて』って随分な言い方だなぁ……、と彼はそっと高原に同情した。

「そんなっ! そんなのって無いですよっ! 先輩酷いっ! 酷過ぎるっ!!」

 何で俺が責められてるんだ? とは思ったものの、相手が感情的になっていそうだったので言葉は飲み込んでおく彼。しかし、

「何で俺が責められてるんだって顔してますねっ!!」

 よくお分かりで……。

「だってこんな酷いことないですよっ!? だってっ! だってだってぇっ! 私が好きなのは……っ!!」

 叶恵の最後の言葉と被さるように、


 ドーン! と花火が一発上がった。


 突如上がった花火に二人とも毒気を抜かれたように窓の外を見る。

「……花火まで仕込んでたの?」

「……みたい、ですね」

 みたい、ということは叶恵も把握していなかったサプライズらしい。悪気は無いのだろうが、間が悪いな、と彼はサプライズを仕掛けたであろう人物に心の中で苦笑を送ると、

「で? 何て?」

「えっ? えっ、えぇぇぇっ!? もう一回言うんですかぁっ!?」

「もう一回も何も。だって花火で聞こえなかったし」

「えっ、えぇ~っ!? そんなぁ~っ!! ぜっ、絶対聞こえてましたよねぇっ!? 意地悪してますよねぇっ!?」

「いや、本当に聞こえなかったってば」

「ふぇぇぇんっ!? ちょっ、ちょっと待ってくださぁいっ! 勢い任せに言ったもんだから改めて聞かれると困るんですぅぅぅっ!!」

 真っ赤になった顔を両手で隠して彼に背を向ける叶恵。そんな叶恵の背中を見つめながら、

 本当は聞こえてたけどな、と彼は口元を隠した手の中でコッソリ笑みを浮かべた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『ありがとう』 うたた寝 @utatanenap

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ