第351話 絶望の魔神

「どうした有象無象ども。息まいたのはよいが所詮はその程度か? ほうら魔王アゼル。急いで我を殺さねば大事な娘たちが死ぬぞ? さすれば魔神グリモワールの誕生だっ。愉快、愉快極まるとはまさにこのこと!」

 幼女の姿、愛くるしい声で魔神アーシェ・アートグラフ、いや魔神グリモワールに変貌しつつあるモノの哄笑が響く。


「クソッ、最後の人格になった途端、最悪の性格になりやがって。これならまださっきの馬鹿の方がマシだった」

 全身をボロボロにしながらもアゼルは最速で肉体を回復させていく。

 帰還したエミルやラクスの援護も受けながら捨て身の戦法で魔神に肉薄するアゼルだったが、それでもなおかすり傷ひとつ与えられない状況だった。


「無駄だ無駄。もはや我の、グリモワールの完全復活は約束されたも同然。だが諦めるでないぞお前たち、虫けらが絶望を知りながらなおあがく姿こそ見ていて最高に愉しいからなぁ。──────ぐっ!?」

 幼い少女の姿で醜悪な笑みを浮かべていた魔神が突如苦しみだす。


「いきなりなんだ!? って、この様子はまさかっ」

 これまでにも数度見た光景に、アゼルはこれから起こる変化にかすかな期待を見せる。


「まさか、グリモワールが敗れた、のか? ありえない、あり、えない。我が、ワレが、われが、まける、など」

 胸を押さえ苦しみながら、魔神アーシェ・アートグラフは黒い光に包まれていく。

 同時にアゼルたちのすぐ近くの空間が歪み、そこから二人の影が飛び出てきた。


 現れたのはアゼルの娘アルトと、その従者である魔人ルシア。


「アルト、ルシア! よかった、無事だったんだ」

 絶望的と思われた二人の生還にイリアが喜びの声をあげる。


「無事、とはほど遠いけどどうにか生きてるわよイリア。でもゴメン、私たちはもう戦えない。コイツは、ルシアは今、生きてるだけで精一杯だから」

 苦々しい表情のアルト。よく見ると彼女は魔人ルシアを抱きかかえており、彼の顔は明らかに憔悴している。


「ふざけるな、アルト。オレは、まだ戦える、だろうが」

 アルトに抱きかかえられながら、気丈にもルシアは戦意を示す。だが、


「戦えるわけないでしょっ。貴方は今、私が生命維持しないと、もう身体がっ。……だからごめんイリア、私たちを戦力には数えない方がいいわ」


「──────うん、アルト」

 悲痛な顔のアルトを見て、イリアは次の言葉を紡げなかった。


「いやいや、キミたちは戦力として活躍したさ。なにせあの邪王グリモワールを二人で打倒したんだ。それだけで十分にお釣りがくるほどの偉業なんだからね。気に病むことなく僕と同じ後方にいるといい」


「賢者リノン、貴方の差し金のせいで、いいえ貴方のおかげで私たち二人でグリモワールと戦うことにはならなかった。今は、貴方の差配に感謝するわ」

 アルトは自身の言葉を取り繕う余裕もなく、ルシアを抱えてリノンのいる安全圏へと引き下がる。


「アルト、それにルシア、お前たちはよくやった。後は俺たちに任せておけ」

 アゼルは悲痛な面持ちの娘を気にかけながら、目の前の魔神の変化に注意を向ける。

 凝縮された漆黒の闇が晴れ、ひとりの少女が現れる。


「やっと、やっと、わたしのなかがしずかになった。でも、まだうるさい」

 赤雷の瞳、濡れたような黒髪、先ほどまでよりもさらに幼い、8歳くらいの少女がいた。


「こいつが、本当の魔神。三大魔王の人格の影響から解かれた状態ってことか?」

 幼い見た目に釣られることなく、アゼルの声は緊張で震えていた。それほどまでに、魔神グリモワールになりかけていた先ほどよりも、少女は恐ろしいほどの魔素を内包していたからだ。


「その通りだね魔王アゼル、三大魔王の残り香はもうない。彼らは完全に消失している。ここで喜ばしい報告をひとつしよう。僕らが三大魔王を打倒したことで、魔神アーシェ・アートグラフの人格から彼らの悪性が排され、彼女がハルモニアを襲うことはなくなった」

 大賢者リノンの口から語られたかすかな希望。


「どうして賢者のお兄さんにそんなことがわかるわけ?」


「これでも大賢者だからさラクス嬢。賢王グシャのような異能に近い未来予知がなくたって、元々持つ知識と現状を正確に認識する知恵があればこの程度のことは予見できる」


「なら、リノン。私たちはもう戦わなくても……」

 イリアが期待を込めて口にしかけた言が少女の声で遮られる。


「うるさい、ほんとうにうるさい。じゃまを、しないで。わたしがねむる、じゃまをしないで。うるさい、うるさい、あなたたちのすべてがうるさい。────きえて、しんできえて」

 幼い少女、魔神アーシェの声が、透き通る神意のように一帯に響き渡った。


「そして悪い報告もひとつ。彼女は、魔神アーシェ・アートグラフは僕らを殺すまで止まらない」

 緊張による一筋の汗が、リノンの額を流れた。


「は? なんでだよ。こいつがあっちの世界を襲うつもりがないなら俺たちだって戦う必要はない。いざとなれば逃げればいいだろ」

 リノンの言う絶望的な分析に、アゼルは当然の反論をする。だが、


「逃げる? どうやってさ? この世界に満ちる魔素、全てが彼女だよ?」

 大賢者の返した現実は、より絶望を深めるに値した。


「え、リノンそれってどういうこと?」


「彼女は、魔神アーシェ・アートグラフは三大魔王を取り込んだことで弱体化していたんだ。彼らを抑え込むために自身の機能を使用していた。でも今はそうじゃない、かつて三大魔王を吸収できたほどに巨大かつ強大な存在規模こそが彼女の力の根幹。魔神を前に、僕らは倒すことも逃げることも許されない」

 わずかな笑み、ほんの少しの余裕もなく、リノン・ワールド・ウォーカーはたったひとつの絶望を口にする。


「なるほどね、アタシたちをあちこちに転移させることができたのもこの魔神の魔素があちこちに偏在してたからってこと? 気付いたらどこにでもいる神さま、確かにそれは空気を倒せってくらいには難題じゃん」

 リノンの語る絶望を正確に理解して、最強の魔法使いの口の端が引き締まる。


「でも、戦うよね。私は死ぬためにここに来たわけじゃないし、みんなだってそうでしょ? 難敵難題上等、それでも空気を読まずに乗り越える英雄っぷりを見せてやりますとも」

 星剣アトラスを握り締め、英雄ラクスは魔神と相対する。その手はいつも以上に力み、唇はかすかに震えていた。


「当たり前だろ! 俺たちは多くの犠牲の果てにここまできた。長い歴史の中で死ななくてもよかったはずのたくさんの命に送られて今ここにいる。未来に時間を残すために命を張り続けた人たちのおかげで今も息をすることができてる。だったら、ダメだと言われたからって明日を諦めるわけにはいかないだろ!」

 魔王アゼルは双剣を、魔剣シグムントと魔剣シグルドを両手にして魔神アーシェ・アートグラフへと戦意を示す。明日への不退転、何一つ諦めない覚悟を示して。


 その姿を見て、勇者イリア・キャンバスは理解した。


「うん、アゼル。貴方の言葉が、私を示している。貴方の言葉に、私は生きてるんだね」

 小さく、本当に小さく誰にも聞こえない言葉が、音にもならずに消えていく。


 勇者イリアは、聖剣アミスアテナを握り一歩前に踏み出す。


「私の名はイリア・キャンバス、世界を守るために生まれた勇者。大切な人たちを守り続けるために、生きる人間です。魔神アーシェ・アートグラフ、ハルモニアからディスコルドへ向けて最高の子守唄を。私が、貴女の望む眠りを与えましょう」


 絶望にやすらぎを、勇者に生まれた一人の少女が、最期の戦いに挑む。

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