第336話 魔神アーシェ・アートグラフ

 ついに、大魔王アグニカ・ヴァーミリオンの魔城を打ち砕き、魔神がアゼルたちの前に現れる。


「テメエ! 親父の城をよくも。お前が、お前が魔神なんだな! ────いや、だが女だと?」

 アゼルたちの前に現れた魔神。彼、いや彼女は美しい女性の姿をしていた。

 黒銀の長い髪に赤雷を思わせる激しい色の瞳。妖艶な肉体に張り付くような黒衣をまとい、アゼルたちを虫けらのように見下している。


「ん? この姿がおかしかったか? 気にするな、外側の性別など些細なことだろう。わざわざハルモニアからやってきた騒音ども。アグニカの小僧の邪魔さえなければ、こちらから出向いて皆殺しにしてやったものを」

 魔神は魔城を打ち砕いたことによる埃を鬱陶しそうに払いながら、それ以上に陰鬱な表情でアゼルたちを睥睨する。


「親父の、それに俺たちのことも知っているのか?」


「知らんよ。ただ忌まわしいほどに耳はよくてな。反対側の世界の音さえ拾ってきてしまうだけのこと。雑音どもが徒党を組んできたくらいのことは知覚できる。だがまあ、魔王アグニカだけは別だがな」

 魔神は破壊したばかりの大魔王アグニカの魔城の残骸を見て不愉快そうに口にする。


「なんだとっ」


「アレは我を裏切った。こうべを垂れるフリをして数多くの民衆を連れてディスコルドから去った大罪人。さらには我のハルモニア世界への道を閉ざした、憎き男だよ」

 彼女の口ぶりにはあまりある憎悪と、かの男への微かな敬意が混じっていた。


「ほう、それは興味深い発言だね。まさか魔神と称される存在が一個人をキチンと認識しているとは。ちなみにだけど、キミにも名前はあるのかな? 神晶樹の同位体であるオージュ・リトグラフ、その彼と同質の存在であるキミにも」

 魔神が想像よりも饒舌であったことを好機と見たのか、賢者リノンが一歩前に足を踏み出して対話を試みる。


「実に不愉快な声だな、大賢者だったか? お前の耳障りな声は世界越しにもよく響いてきた。もうひとつの世界の大樹の化身と同一視されるのは不快だがあえて答えてやる。アーシェ・アートグラフ、それが私の名だ」

 言葉通りの不愉快そうな顔で魔神、アーシェ・アートグラフはリノンへと返答した。


「教えてくれてありがとう魔神アーシェ。どうやら喜ばしいことに僕らはコミュニケーションが取れるみたいだね。話ができるのなら融和の道もある。どうだろう魔神アーシェ・アートグラフ、こちらの世界に留まり続けてくれないかな? キミがハルモニアにまで顔を出すと非常に困るんだ。その約束を守ってくれるなら、僕らはどんな条件だって飲むよ」

 リノンは両手を広げ、誰もが好感を抱くようなさわやかな笑顔で魔神アーシェへと提案した。


「交渉か、小賢しいな愚かな賢者よ。私の望みはやすらかな眠り、お前たちが生きている時点でその願いは叶わない。

 無慈悲に、無感情に魔神アーシェは片手をあげて手の平をアゼルたちへと向ける。

 次の瞬間には彼ら全てを巻き込んだ超高密度の魔素の爆縮が起こり、アゼルたちはみんな死んでしま──────────────────、



「いいや死なないね」



 魔神アーシェの一挙動でなされたパーティー全員が死亡するほどの高火力の攻撃の直後、大賢者リノンの平気そうな声が響く。


「ん? 今のはキサマたちを屠るに十分な威力だったはずだが」

 目の前にいまだ生きているリノンたちがいることに対し、魔神アーシェは不思議そうに目を丸くした。


「どうやらキミは僕の声が聞こえていただけで、その力には微塵も興味がなかったらしいね。今の僕たちは『全快』の状態で固定してある。キミがどんなことをしたって傷つかないし死にもしないよ(僕の半径5メートル以内限定だけど)」

 リノンはドヤ顔を決めながら、内心では想像以上の火力を見せた魔神へ冷や汗をかいていた。


「こしゃくな、お前は我の知らない道理を使う雑音だったか。──ならば、」

 魔神アーシェはリノンに先ほどの攻撃を無効化されたのを承知でさらに手を天へとのばす。

 だがその直前、


「よくわからんが、俺たちは攻撃されたってことだよな」

 ワンテンポ遅れながらも状況を理解したアゼルの声が響く。


「だったら俺たちは交渉決裂、あとは全力で貴様を打倒するだけだろ。我が名は魔王アゼル・ヴァーミリオン、偉大なる王アグニカ・ヴァーミリオンの息子、今日ここで全てを終わらせる者だっ。喰らえ! アルス・ノワール!!」

 全力全開の魔王アゼルの最大の極技が、魔剣シグムントより放たれた。


 瞬間的に練り上げられたアゼル自身の魔素の奔流。

 一介の魔族たちであれば何千人であろうとも一瞬で葬り去るその一撃を、


「…………なんだ、これは? これが、魔王を名乗る者の全力だと?」

 涼風のように魔神アーシェは受け流し、落胆の表情を浮かべる。


「は、今のアルス・ノワールで無傷だと? いや、というよりもヤツに届いてすらいないのか?」

 アゼルにとってあまりにも予想外な結果に、彼自身の思考が追い付かない。


「あきれたものだ、魔王の称号がまさかここまで地に落ちていたとはな。かつての時代、魔王とは乱世に覇を唱える勇者の呼び名だった。今のお前の一撃は、技と呼ぶにも値しない」

 魔神アーシェの麗しい唇から、落胆の声が響く。


「な、なんだと?」


「これならまだアグニカがここに来た方がマシだったな。ゴミはゴミなりに処分してやったものを、代わりに来たのがゴミに至らぬカスだったとは」

 呆然とするアゼルを見て、魔神アーシェは本当に嘆かわしいかのようにひたいに手を当てていた。


「ふざ、けるなよ! 親父が、ゴミだと? そんなわけがねえだろうが! あの人の生涯こそが何物にも代えられない至宝だ。そしてそんな親父が信じて送り出してくれたんだ、それをテメエにカス呼ばわりされる言われはねえ!!」

 再びアゼルは魔剣シグムントへと膨大な魔素を走らせる、次こそは全力も限界も超えた一撃を打ち放つために。

 だが、


「ああよい、そういうのは。弱いモノには憤る資格すらない、貴様らはここで散れ」

 魔神アーシェが再び腕を前へとのばしていた。


「へえ、キミが殺そうとしても殺せない僕らが弱いって? それはさすがに侮りすぎじゃないかい、ってキミはいったい何をするつもりだい!?」

 先ほどまで余裕の表情を見せていたリノンが、何かの予兆を感じ取って急に慌てだす。


「言ったはずだ、と」

 魔神アーシェが言葉を形にした次の瞬間、三つの球状の魔素が彼女の手から放たれてそれぞれの球体がリノンたちを包み込む。


「まずい! みんなすぐにその球の中から出るんだ! というかせめて僕の球体のとこに集まってく……」

 リノンがその言葉を全て言い終わる前に、球体は包み込んだ者たちごとこの場から消失した。


「な、なにが起こった!?」

「あれ、みんないなくなったよ? リノン、エミルさん!?」

 残されたのは、球体に包まれることさえなかった魔王アゼルと勇者イリア、そして当然のことながら魔神アーシェ・アートグラフのみ。


「言葉通りだ雑音。お前たちがまとまっていてはうるさそうだったのでな、このディスコルド世界に散り散りに飛ばした。なに、先ほどの賢者を名乗るゴミのやったことよりは簡単な芸当だ」

 掃除の後のように手を軽くたたきながら、魔神アーシェはイリアたちにとって最悪の展開を何事もなかったかのように口にした。


「そんなっ、みんな無事なの!?」


「ちょっと待てイリア、こいつは飛ばしたって言っただけだ。なら全員生きてるってことでいいんだよな?」


「なに、使い道のない楽器が三つ余っていたのでな、最期に一曲踊らせてやろうと思っただけのこと。それよりも自分のことを心配したらどうだ魔王を名乗る塵芥ちりあくたよ。あの賢者がいない今、お前は殺せばキチンと死ぬのではないか?」

 無情に、無慈悲に、魔神はただ残酷な事実のみを告げた。

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