第329話 別れ

 湖の乙女アミスは大魔王アグニカの内側に溶けるように消失した。


「アミスアテナー!!」

 残されたのはイリアの悲痛な叫び。

 そして同時に大魔王アグニカの肉体も末端から徐々に薄く消え始めていた。


「父上!」

「お祖父様!」

「アグニカ様!」


 そのアグニカのもとへとアゼル、アルト、セスナが駆け寄る。


「すまないな、お前たち。結局色々なことをお前たちに押し付けてしまうことになった」

 アグニカは本当に申し訳なさそうにその言葉を口にする。


「いいんです。そんなことはいいんです! それは俺たちが、きっとなんとかしてみせます」


「本当に、強く、大きくなったのだな。……アゼルよ、最後の願いだ。どうかお前の頭を撫でさせてくれないか。どうやらもう、自分で腕を動かすこともできないらしい」

 アグニカは優しい声音でアゼルへと頼みを口にする。


「っ、はい。これで、いいでしょうか?」

 アゼルは涙をこらえながら、ボロボロに崩れそうなアグニカの手を自身の頭へとそっと乗せる。

 ただそれだけで、アグニカは実に満足そうな笑みを浮かべていた。


「ああ、もっと昔から、こうしておけばよかった。……こうしてあげられたら良かった」

 アゼルの頭を撫でながら、幼いアゼルに構ってあげられなかった当時を思い出す。


「寂しい思いをさせて、すまなかったアゼル」


「うっ、父、上」

 そのアグニカの言葉に、言葉にできない感情が急に押し寄せてアゼルは大粒の涙を流していた。


「いえ、いいえ父上。もう俺にはそれだけで、僕にはその言葉だけで十分なのです」

 まるで時が戻ったように、かつての幼い子供に戻ったようにアゼルは涙を流し、言葉を震わせる。


 そんなアゼルをアグニカは本当に愛しそうに見つめ、

「なんだアゼルよ、もう私をとは呼んでくれぬのか? あの呼び方は新鮮で、お前が変わったことを、成長したことを感じ取れて嬉しかったのだが」

 これから消える身とは思えない朗らかな笑顔で息子へと語りかける。


「そんな、言える、わけない、です」

 アゼルは溢れる涙で父の姿もろくに見えないほどだった。


「ふふ、まあよい。お前が大人になったことは十分にわかっている。父親になったこともな。アルト、私の可愛い孫よ。どうかこの父親を支えてあげてくれ。見ての通り完璧には程遠いが、その親の私もこの程度なのだ。大目に、見てやってくれ」

 アグニカはアゼルの隣のアルトへと顔を向け、優しく言葉をかける。


「いいえお祖父様。私のお父様も、そしてお祖父様も、いつだって私の目標でございます。いつかあなた方を越えること、その誓いを胸にこのアルト・ヴァーミリオンは王道を進みます」

 アルトは涙を流すことなく毅然とした表情でアグニカに言葉を返した。

 そうすることが、魔王の後継に相応しい態度を見せることが、最期まで王の責務を全うしたアグニカの最高の報いになると信じて。


「ほう、戦の才は足らずとも、これからの世に必要なモノを、そなたは持っている。十分に使い、民を支えてやってくれ」

 そんな孫に対し、彼女にとってもっとも励みになる言葉をアグニカは最後の贈り物として選ぶ。

 その言葉を耳にして、アルトは歓喜で胸の内が震えていた。


「そしてセスナよ、私の永い我がままに付き合わせてすまなかった。お前の父のこと、今でも後悔しなかった日はない。それにお前の気持ちにも……」

 アグニカの感謝と謝罪の混じった言葉をセスナは遮って、


「いいのですアグニカ様。貴方に仕えることのできたこの年月こそ何物にも代えられない我が誇りにございます。きっと死んだ父も喜んでおりましょう。……そして願わくば、貴方がいない世界においても、貴方を想い続けることをどうかお許しください」

 彼女も涙を流すことなく、自身の主を笑顔で送り出そうとしていた。

 そんな彼女の言葉にアグニカは困ったように一度まぶたを閉じる。


「そうか、それもまた一つの生だろう。自分の好きに生き、好きにさせてもらった我が人生だ。お前たちの生き方にとやかく言えはしない。そう、本当にお前の献身に、我が人生は支えられた」


「アグニカ、様っ」

 そのアグニカの言葉に、セスナはついにこらえきれずに嗚咽とともに涙を流す。


「そんな、ことはっ。あなたにこそ、我々はずっと支えられてきました。大魔王アグニカによって我ら魔族は支えられてきたのです。本当は、本当はっ。ずっとあなたを支え続けていたかった!」


「ありがとう、セスナ。ああ、本当に、私ごときには身に余る最期だよ」

 そう言ってアグニカはゆっくりとこの場に集った者たちを見渡し、


「─────さて、時間のようだ」

 彼の肉体は完全な崩壊の時を迎えて砂が零れ落ちるように消えていく。


 アゼルの頭を撫でていた手も崩れ消え去る。


 そして、大魔王アグニカ・ヴァーミリオンは本当に最後の力を振り絞って、


「ではな、皆のことを、頼む」


 彼が愛した国の人々を、愛する息子たちに託して逝った。

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