第323話 ルシアとイリア

「ちょっと待ってよイリア、私の部屋はこっちだから!」

 エリスの部屋を出たアルトはようやくイリアに追いつく。


「あ、ごめんアルト。私、何にも考えてなかった」

 振り向いたイリアの表情はどこか虚ろで、その瞳も焦点がどこにも合っていないようだった。


「もう、逆でしょイリア。あなたはきっと、色々考えすぎてグチャグチャになって、それがまとまらなくなってるだけよ」

 アルトは軽くイリアを抱きしめる。

 彼女のふくよかな胸にイリアの顔が埋まっていく。


「優しいね、アルト。あ~あ、アルトがアゼルだったら良かったのにな」


「何バカなこと言ってるの。さ、私の部屋に行って少し落ち着きましょ。部屋はすぐそこだから」

 アルトはイリアの手を引いて自分の部屋へと向かう。

 だがそこに、


「おや、イリアにアルト嬢じゃないか。二人仲良く手を繋いで、まるで友達みたいだよ」

 ニコニコと胡散臭い笑顔を張り付けた大賢者リノンがやってきた。


「─────みたい、じゃなくてこれでも友達じゃ。小賢しい賢者が何の用か」

 アルトは瞬時に対外的な振る舞いに切り替えてリノンと対峙する。


「うんうん、友達なんて言ったもの勝ちだしね。その手法は正しいよアルト嬢。さて、どうやらイリアに何かあったみたいだけど、残念ながら何が起こったのかはだいたい想像がついてしまうな。そしてそれは僕みたいな人間ではどうしてあげることもできない問題だ。困った困った」

 リノンは実にわざとらしく声をあげる。


「それが分かっていてわざわざ話しかけてきたのかこの下郎。目障りじゃから疾く立ち去るがいい」

 そんなリノンに対し、アルトも苛立ちを隠そうともしない。


「いやいやそうもいかないのさ。実はさ、僕はアルト嬢キミを探してここまで来たんだ。ちょっと頼みごとがあってね。相談に乗ってくれないかな?」


「頼みなどとよくも言えたものじゃ。妾は今イリアの側にいてやりたい、相談なら後日改めて土下座でもしてみるんじゃな。気が向けば聞いてやることもあるかもしれん」


「まあまあ、そんなに気を立てないでくれよ。僕だってもちろんイリアのメンタルは大事にケアしたい。だけど僕の用事も結構急用でね。…………明日ではおそらく間に合わなくなる」

 飄々と話していたリノンの態度が急に真剣なものに切り替わる。


「間に合わない? 何が間に合わないと言うのじゃ?」


「さてね、耄碌もうろくした僕の未来知アナザー・ビューじゃ確定したことは言えないけど。ただ僕の直感だとキミと魔人の少年に関わる問題である可能性が高い、とだけは言っておこうか」


「妾と、ルシアに?」

 リノンの言葉に怪訝な反応をするアルト。


「いいよアルト、私は大丈夫だから。リノンの話に付き合ってあげて」


「…………わかったわ。イリア、そこが私の部屋だから好きに使っておいて」

 そう言ってアルトは一室を指差す。


「ありがと、ごめんね」

 そしてイリアは申し訳なさそうにしながらもアルトの部屋へと入っていった。




「うわぁ」

 アルトの部屋の中は豪華絢爛とばかりに様々な装飾品、調度品に溢れていた。


「落ち着けって言うけど、これじゃ落ち着けないよアルト」

 そう独り言を口にしながら、イリアは所在なさげに居室の中央にあったソファの隅へとちょこんと座る。


 廊下で話しているであろうリノンとアルトの気配もどこか遠くへと消えていった。


「はぁ、アゼル。エリスさんの方に残るんだ」

 そんな中、思わず彼女の口から心の声が漏れ出た。


 イリア自身がアゼルに促したとはいえ、それでも今の彼女の心はかすみがかかったようにモヤついている。

「ああそっか、それでもアゼルは私の方に来てくれるって、勝手にそう思ってたんだ。……ホント、イヤだなぁ」

 自分の思い上がり、己の醜悪さを覗き見たかのようにイリアの表情はさらに暗くなる。


 その時、アルトの部屋の奥から小さく唸るような声が聞こえた。


「うぁぁ。ん、アルト、帰ってきたのか?」

 気だるそうな声を出しながら部屋の奥から出てきたのは、かつてイリアに何度も求愛を迫ったことのある魔人ルシアだった。


「え、ルシア!? なんでアルトの部屋にいるの?」


「ん、イリアか。お前こそなんでここにいんだよ。……まあいっか、どうせアイツの部屋だしな。オレはここのベッドで寝てただけだ。大魔王がいたあの場所はオレみたいな半端な魔人には結構キツくてな」

 ルシアは再び、けだるそうに生あくびをしながらイリアへと答える。


「え、ベッドを使ってたってアルトのでしょ? さすがに自分の部屋で寝ないといけないんじゃない?」

 女性のベッドを使用していたことに何の問題も感じていない様子のルシアにイリアは戸惑いを隠せない。


「あぁ? 自分の部屋なんてねえよ。アイツはオレに部屋を与えるのなんてもったいないから、ここで寝起きしろなんて言うんだぜ。ふざけた雇い主もいたもんだ」


「え、ああ、そういうことなんだ。──じゃあ私からは何も言わない」

 ルシアの話す内容にイリアは何か察したのか、すぐに口を噤む。


「ん? イリアもわけわかんねえな。それに、なんかあったのか、顔色が悪いぞ」


「私、そんなに表情に出てるかな? 別に何もなかった、とはさすがに言えないね。さっき、エリスさんとちょっとだけケンカしたの」


「エリス? ああ、アルトの母親か。はっ、おもしれえ。あの虫も殺さないような母親に、お前とケンカするだけの気概があったんだな」

 口の端を釣り上げて、悪態をつくようにルシアは笑う。


「そっか、ルシアから見てもエリスさんってそういう人なんだ。だったらやっぱり、それだけあの人にとってアゼルが大切ってことなんだよ」

 そう口にしながらもイリアの気分はさらに落ち込んでいた。


「ああ、そういえばイリアは魔王と好きあってるんだったな。ちっ、ロクでもないヤツに惚れやがって、少しは後悔したか?」

 ルシアは何の感慨もなく、ただ事実だけに基づいてイリアにまっとうな質問を投げる。


「後悔は、やっぱりするよ。なんでアゼルのこと好きになっちゃったんだろう、なんでもっと早くアゼルに会わなかったんだろう。─────なんでもっと早く、私は生まれてこなかったんだろうって」


「それは、後悔なのか? どう生まれてくるかなんて、自分じゃどうしようもないことだろ?」


「どうしようも、ないよ。どうしようもなく、好きなんだもん。アゼルが他の女の人のモノだってわかっても、私だけを選んでくれないんだってわかってしまっても、それでも私は、アゼルが好きなの」

 大粒の涙が、エリスの前では決してみせようとしなかったその涙がこぼれ落ちていく。


「そうか、それだけアイツが好きなんだな。でもお前、つらそうだぞ?」


「つらいよ、本当の本当につらいよ! でもそれでも、好きなの。くやしいくらい、アゼルのことが好きなんだって、わかっちゃう」


「…………」

 泣き続けるイリアを見て、ルシアにはかける言葉が見つからない。


「ワガママでもなんでもいいからアゼルと一緒にいたい。世界を救う名声も感謝もいらないからただアゼルと一緒にいたい」

 イリアの心からの本音が魔人の少年を前にさらけ出される。


「私のあとちょっと残された寿命も全部、アゼルと一緒にいる時間で満たしたい」

 慟哭のような切なる願い。


「っ、イリア?」

 その叫びが、魔人の少年に共鳴する。


「私ね、もうちょっとで死んじゃうの。でもね、それは別にいいの。元からそんなに長い人生じゃないって知ってたから。でもね、バカだよね。こんな気持ちにさせられても思っちゃうの、私がたとえ死ぬことになったとしても、せめてアゼルが苦しみ続けることがない世界を、残してあげたいって」

 両手を握りしめてイリアはその祈りを言葉にした。

 まる聖女のような、ただの乙女の気高い祈り。


「ああ、そうか。そういう想いが、あってもいいのか」

 その祈りを、かつて恋した少女の声を、世界のつまはじき者であったルシアだけが聞き届けていた。

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