第十譚 滅私愛国の王道譚
第302話 カッサンドーラ・アンブレラ
昏い森の中を、一人の女が幽鬼のように歩いていた。
ここは魔族領域、アグニカルカの辺境。主城ギルトアーヴァロンに住まう貴族たちの目が届かず、そして人間たちもおいそれとは踏み込むことのないどっちつかずの場所。
それはこの女、魔王軍四天王カッサンドーラ・アンブレラにこそまさに相応しいと言えた。
「ハハ、なんて様だ。四天王の私が下級魔族の連中のようにアグニカルカの辺縁をさまようなんて。いや元四天王か。ハハハ、そうだ四天王などとルシュグルに担ぎ上げられた時から全ては狂っていたのか」
乾いた笑いをあげながらカッサンドーラは森の中を目的もなく歩き続ける。
そう、彼女には目的がない、帰る場所も。いまやアグニカルカは魔王の娘アルト・ヴァーミリオンと大魔王の近衛騎士セスナ・アルビオンが実権を握っている。そもそもセスナの覚えが悪かった四天王に属するカッサンドーラは、アルトの庇護を失った時点でアグニカルカに居場所などなかった。
「クソッ、ルシュグルさえヘマをしなければっ」
近くの木に拳を叩きつけ、彼女は呪いの声を吐き出す。
「いや、違う。ルシュグルは最初から騙されてたのか。あの小娘、アルト・ヴァーミリオン。アイツは最初からルシュグルに手なずけられるフリをしてたんだ。確実に私たちの力を追い抜くまでルシュグルを泳がせて! ルシュグルめ、あんな死に方しやがって。あんな、虫みたいに殺されるなんて、私は、私は嫌だ!!」
彼女以外誰もいない森に慟哭が響き渡る。
カッサンドーラはルシュグルの死を既に確認していた。
いったい誰がセッティングしたものか。人間の街で人間たちに嬲り殺しにされた彼を。
自らが見下し廃棄すべきゴミと断じた人間たちに、蟻にたかられる虫の死骸のような末路を与えられた愚かな男。
「嫌だ、私は、あんな風にはなりたくない」
そう口にして、虚ろな瞳のまま顔をあげてカッサンドーラはまた歩き出す。
カッサンドーラは目的もなく歩く。彼女には生きる理由もなかったが、『あんな死に方はしたくない』その一心が彼女の身体を動かしていた。
かつて魔王軍を手中に収め、人間たちを一時は滅ぼしかけた四天王の最後の一人がこのようなありさまとは、やはり無様と評するしかないだろう。
由緒ある血統の貴族として四天王の
そんなコールタールを言葉巧みに誘導し、裏から実質的な支配者となっていたルシュグル・グーテンターク。
そして彼らの中で抜きんでた戦闘力を誇っていた武人トリアエス・トリアス。
そのような人材が揃っていてはじめて、四天王はセスナやアルトを出し抜くほどの力を持っていたのだ。
コールタールを勇者イリアに討たれ、トリアエスは最強の魔法使いエミル・ハルカゼによって打倒された。
その上で次期魔王アルト・ヴァーミリオンとのパイプであったはずのルシュグルが無残な最期を遂げたのだ。特別秀でているモノがないカッサンドーラにとって、未来への展望は閉ざされたも同然であった。
「トリ、アエス」
その絶望の中、彼女は男の名前を呼ぶ。
誰よりも愛していた男の名を。
誰よりも頼っていた男の名を。
「ねえなんで、なんで逝っちゃったの。アンタさえいれば、アンタだけいれば私はどこでだって生きていけたのに」
今になって強い後悔が彼女を襲う。
ルシュグルの甘言に乗ってさえいなければ。トリアエスに近寄るルシュグルを拒絶することができれば。もし、もしも、彼があのクソッたれな魔法使いに殺されていなければ。
「そう、そうだ、アイツさえいなければ。あのエミル・ハルカゼさえいなければ。アイツが、アイツが私の幸せの全部を壊したんだ!!」
再び彼女は怒りと怨嗟を込めて大木を殴った。
それはいったいどれほどの力が込められたモノだったのか、大木は嘘ののようになぎ倒されてしまう。
同時に彼女の拳もみるも無残に壊れてしまったが、カッサンドーラはその痛みすら認識していないようだった。
その彼女の拳もゆっくりと時間をかけて修復が始まる。
追放されたとはいえ彼女は魔族において上級の貴族に属する身である。人間であれば一生治らないような傷すらものの数時間で癒えるだろう。
だから、彼女が認識したのは別のことで。
「!?」
彼女がたまたま殴り倒してしまった大木から妙な魔素の波動を感じ取るカッサンドーラ。
「いや、これは魔素ではなく、魔力?」
魔素と魔力の違いを鋭敏に感じ取り、そして彼女は顔をあげて周囲の変化に気付く。
「景色が、変わっている? いや違う、さっきまでは本来存在する空間に幻惑をかけて誰も入れないようにしてあったのか。つまりこれは結界、そして…………」
魔素ではなく魔力を扱う者と言えば、それは魔法使いに他ならない。
「ハ、ハハ、ハハハハハハハッッッ!!!」
狂ったような哄笑が森に響く。
「そうか、そうか! この先は
笑いとも嘆きとも取れる声をあげ、彼女は壊れた右手で髪をかき上げた。
「なんて幸運、そしてなんて不幸な連中。お前たちの中からエミル・ハルカゼさえ生まれてこなければ、私の憂さ晴らしで皆殺しにされることなんてなかったでしょうに」
乾いた笑いが、湿り気を帯びた薄気味悪い微笑へと変わっていく。
彼女は壊れた右手で自らの魔剣を掴む。幻影と幻惑の力を秘めた魔剣を。
次の瞬間には、カッサンドーラは若い少女の姿へと変貌していた。
魔法使いにおける最上位『黒金』の外套を纏った気の強い少女、エミル・ハルカゼの姿へと。
「はは、はは、あははは!」
その声までもエミルの声質に変化し、彼女は森の奥、魔法使いたちの結界の中へと踏み込んでいった。
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