第264話 イリアの沐浴

 アゼルに自身の最後の秘密を打ち明けたあと、イリアはアミスアテナを湖の乙女たちに預け、彼女たちが用意してくれた通りに神晶樹の湖でひとり沐浴を始めていた。


 リノンの用意した水着を受け取らなかったこともあり、今の彼女は一糸まとわぬ姿だった。

 しみひとつないイリアの色白の柔肌が、淡く透き通る湖水で濡れていく。


 彼女は身体を一通り浄水にて清めると、湖面に仰向けになって浮かぶように泳ぎ始めた。


 全身の力を抜き、煩悶はんもんを払うように大きく息を吐く。


「…………言っちゃったな」

 わずかに後悔するようなイリアの声。

 その後悔は、自分の残り少ない寿命を思ってのことではなく、それを知った瞬間、突き放された子供のような顔になっていたアゼルへと向けられていた。


 彼女は分かっていた。

 その話をすれば、あの心優しい魔王が悲しむことを。

 だからできることならば最期まで教えたくはなかったのだ。


 しかし、決して何も知らせずにその日を迎えてしまうことが許されないのも分かっている。もしそうなってしまえば、アゼルの心に一生消えることのない傷をつけてしまうことになるだろう。


「……それでも、良かったかな」

 ふとイリアに湧き上がる小さな悪心。

 一生消えることのない傷であれば、ずっと覚えていてもらえるかもしれないのだから。


 だがその昏い感情を彼女はすぐに振り払う。


「きっと私の身体をどうにかしてみせるって、アゼルは思っちゃうのかな」

 湖にたゆたいながらイリアは呟く。

 そしてそれと同時に彼女の結晶化していた脇腹の部分が徐々に溶け出し、彼女本来の柔肌へと戻っていった。


「それはきっと嬉しいけれど、でも私にアゼルがそこまで頑張る価値ってあるのかな?」

 イリアの中に浮かぶ疑問。

 リノンの話を聞いて、この場所に訪れ、こうして神晶樹の湖に全身で触れ、彼女は自身を受け入れていた。

 ある目的のために生まれ、死んでいく自分を。


 世にも珍しい、『考えて物を喋る石』である自分自身を。


「ま、言うほど物事を考えてたわけじゃなかったけど」

 イリアはそう言って一人自嘲する。


「らしくないこと考え込んでんじゃないよイリア」

 そこへ大雑把で、だが何よりも力強い声がかけられる。

 

「エミルさん? どうしてここに?」

 突然のことに驚くイリア。

 現れたエミルもイリアと同様に一糸纏わぬ姿であったが、彼女は一切の恥じらいもなく優雅に泳いでイリアの隣にまでやってきた。


 エミルの容姿は年齢に反してイリアよりも幼いが、しかしてその肉体は一切の無駄がなく美しさを感じるほどに完成されていた。


「別にさ、イリアがただここを泳ぐだけで治療になるってんだからアタシが一緒に泳いだって構わないでしょ。────それで、アゼルも知ったんでしょ、イリアの身体のこと。……聞こえてきたよ」

 エミルもイリアと同様にゆったりと身体を湖に浮かべながら聞いてくる。


「はい。だから、結局どっちが良かったのかななんて思っちゃってました。これで良かったのか、ずっと教えなければ良かったのか。エミルさんはどう思います?」


「アタシはそんなの知らないよ。だってそれは誰かが正解を決めることでもないでしょ。ただアタシが気になるのはイリアが今どう思ってるかだけ。どう、長生きしたくなった?」

 イリアの問いにそっけない態度を取りながらも、エミルは妹を想う姉のように言葉をかける。


「……確か、前にもそんなこと聞かれましたね。その時は、なんて答えたんだっけな」


「忘れたの? アタシは覚えてるよ。『問題ありません。きっとそれまでに魔族も魔物も全滅させてみせますから』って、あの時イリアは言ってた。それを聞いて、ああアタシはこの子と一緒にはいられないなって思った。でさ、今のイリアはどうなのさ?」

 昔のことを振り返りながらも、この問いからは逃がさないとエミルはもう一度問いを重ねた。


「…………長生き、ですか? そんな残酷な質問ってないですよ。たとえ長生きしたくてもその手段があるわけでもないし、だったら全部を受け入れて残された時間の中でやることをやるしかないじゃないですか?」

 イリアは感情を乱さずに、ただその気持ちを湖上の虚空へと吐き出した。


「ふ~ん、そっか。いや別にたいした質問じゃないんだよ。イリアが生きたいならその手段を探す手伝いをする。イリアがそれでいいってんならその時が来るまでアンタの背中を押してやる。ただそれだけの話なんだから」

 イリアと同様に湖上に吐き出されたエミルの言葉。

 それを聞いてイリアは目を丸くしてエミルを見ていた。


「……意外、です。エミルさんはもっとドライなこと言ってくるかと思ってました」


「さてね、乾いてたつもりはアタシもないけど。まあアンタたちはアタシの人生の中でも珍しい『仲間』だから。アタシだって、誰かの為に手を貸してやりたい時だってあるさ」

 そういってエミルの手はイリアの前に差し出されていた。

 

 それを見てイリアはなおのこと驚く。

 エミルはこれまでイリアとの身体的接触を極力避けていた。それはイリアと触れることでエミルに蓄積された魔力が一瞬で消失してしまうためだ。

 だがこの神晶樹の森、さらにはその湖の中にいる彼女にとってそれはもはやどうでもいいことであった。


 それよりもただ、この娘の為に手を貸してやりたいと、傍若無人の最強の魔法使いは思っただけのこと。


 その手をイリアはギュっと握り返す。

 思ったよりも華奢きゃしゃで、想像通りにその奥に芯の通った強さを感じる手だった。


「うふふ~ん、君ら仲がいいねぇ~ ボクもまぜてよ~」

 そこに幼稚な声とともに巨大な白い影、この湖の主である白鯨が近づいてきた。


「まぜてよ~、じゃないでしょこのエロガキ。アタシもイリアも裸なんだから近づくなっての」

 そんな白鯨に対してエミルは一切の物怖じもせずにガシガシと蹴りを入れる。


「痛いなぁ~ それにエロガキってどういうことさ~ 君らの裸を見てもボクはなんにも感じないよ~?」


「そうなの? だけどアナタって男の子なんじゃないの?」

 白鯨の発言を意外に思ったイリアは思わず聞き返す。


「う~ん? よく分からない~ だってボクはここにひとりしかいないから~ どっちでもないのかも~」

 間延びをした言葉で白鯨はイリアの問いに答える。


「ああ、そういうこと。生命として完結している者に雌雄の区別は必要ないってことか」

 それを聞いていたエミルは一人納得していた。


「それで君ら何してるの~ 一緒にあそぼ~?」

 無邪気な子供のように遊びに誘ってくる白鯨。


「遊び? まあここで泳いでればイリアの目的は果たせるんだし、まあいっか。それじゃ、『』でもしよっか?」

 白鯨の誘いに、ニヤリと口の端を上げるエミル。


「え、ちょっとエミルさん? 何しようとしてるんです?」

 エミルのいきなりの発言に肝が冷えるイリア。


「ん? 子供の遊びの定番でしょ? もちろん怪獣は大人であるアタシの役ね。アタシが悪い怪獣やるから、アタシにまいったって言わせたらアンタの勝ち」


「あ、怪獣役はエミルさん担当なんですね、納得です。っていやそういうことじゃなくて……」


「へ~、何かおもしろそう~ いいよ~、やる~」

 そして意外でもなく白鯨はエミルの誘いに乗り気になっていた。


 だが、そのヒーロー役の巨大な怪獣と怪獣役の小さな怪物の衝突が起こる前に、アゼルやリノンたちを残してきた浮島の方から突然白き力の奔流が立ち昇るのだった。 

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