第263話 殴りたい顔

 

 神晶樹の森で生まれた一瞬の静寂せいじゃく


「私が二十歳まで生きられないことは、一番始めに聞かされたから」

 その静寂を破って、イリアは静かに語り始める。


「この森の湖で、勇者ににあたってそういう身体になるんだって説明された。勇者として生きなければ、普通の人みたいに生きられることも」


「ならなんで、どうしてお前は勇者になるなんて選択をしたんだよ!」

 もう取り戻せないその選択を思い、アゼルはわずかに涙ぐみながらイリアに問う。


「うん、なんでだろ? そうするのが当然だと思ったからかな。私が長生きなんてするイメージが思い浮かばなかったし。それに私が勇者にならなければ、結局私も戦火に飲み込まれて死んでただけかもしれないよ」

 対するイリアはもう終わってしまったその選択を、とくに惜しんだ様子もなく淡々と話す。


「ああでも、今考えるともったいなかったかもね。長生きできれば、それだけアゼルと一緒にいられる時間が増えたのに」

 たった今思いついたと、イリアは儚げに笑った。


「イリア」

 そんな彼女にアゼルはただ名前を口にすることでしか答えられない。


「アゼルに隠してた秘密はこれでおしまい。だからね、アゼル。私をあわれまないでいいから、ただずっと…………側にいて」

 そう言い残してイリアは湖の乙女たちが沐浴の準備をしているであろう方向へと走り去っていった。


 アゼルはそれを追えなかった。

 追って、何と声をかければいいのか彼にはわらかなかったから。


「おやおや、水着も持たずに行くとはイリアもあわてんぼさんだ。でもまあいいか、たとえ裸で泳いでいようとそれを覗くような不届き者はここにはいないのだし」

 そこに空気をまるで読まないリノンの言葉が響く。

 

 この賢者に無駄な発言はない。

 あえてこの言葉、アゼルへの挑発のような発言を選んだのだと分かっていても、アゼルにはその身の内から湧き上がる激情を抑えることはできなかった。


「おいリノン!!」

 ただ感情に身をまかせてリノンの胸倉を掴んでそのまま地面に叩きつけるアゼル。


「っ、痛いなぁ魔王アゼル。?」

 そんなアゼルに対しても、リノンの飄々とした態度は変わらない。


「どうしたじゃねえんだよ! 何で、何でイリアを勇者なんかにしたんだ!?」

 怒りとともに涙を目に浮かべながらアゼルはリノンを問い詰める。


「何でって、さっき言ったろ? 僕がそれを実行したわけじゃないって。僕はただその手段を教えただっ……」

 リノンがその答えを言い終わる前にアゼルは彼を本気で殴っていた。


「そんな詭弁はいいんだよ!! ならなんでそんなことを教えられるんだよ。たった一人が生贄になって、苦しい思いをしなきゃならないことをよ!」


「ははは、本当にキミは短気だなぁ。それに苦しい思いだなんて漠然とした理解過ぎるよ。これからイリアは二十歳になるまでの間に徐々に結晶化が進行して最後には物言わぬ石になる」

 殴られた箇所をかばいもせず、ただリノンはアゼルの目を見据えてさらなる絶望を語る。


「っ、てめえっ!!」

 リノンの罪悪感などまったくないような目を見て、アゼルは怒りを爆発させて渾身の力で再び殴りつけた。


「っ! ハ、どうしたんだい? 手に入れたと思った女の子がすぐに死んじゃうとしってショックだったかい? キミら魔族にとって、人間が瞬く間に消えていく生き物なのは変わらないだろうに。それより僕はキミの方こそ正気かしれないよ。魔族にとってイリアは猛毒、それはキミだって例外じゃない。キミは白鯨に浄水をかけられた時以上の痛みをイリアと触れるたびに感じてるはずさ。そんな女の子を抱く? それは愛かな? それとも同情かい?」


「うるせぇよ! このクソ野郎!!」

 アゼルはリノンの胸倉を掴んで彼に思い切り頭突きをかます。

 生まれてこの方一度もやったことのないそれを、彼はどうしてもこの男にはぶつけずにいられなかった。


「俺のことはどうだっていいんだよ! あいつが幸せに笑ってくれるなら、俺も幸せなんだ。なのに、なんでイリアの幸せを奪うんだよ。あいつが石になって死ぬ? なんでそれが分かっていながら他人にそんな役目を押し付けられんだよ!!」

 アゼルはもはや感情を制御しきれずに再び全力でリノンの頬を殴りつける。


「ぐっ、はは、痛いなぁ。……なんで、だって? ────他人なら、いいと思ったんだよ。見ず知らずの他人なら、外れくじみたいなそんな役目を押し付けていいと思ってたんだ。一人の犠牲で多くの人々が救えるなら帳尻が合っていると」

 アゼルに殴られながらもなお、リノンはそんな言葉を吐きだす。


「っ!!」

 そのあまりの発言に理性の許容値を越えたアゼルは、リノンの上に馬乗りになって何度も何度も彼の顔面を殴り続けた。


 湖水教の湖に鈍く響く、殴打の音。

 数十秒もそれが続いたかと思った時、


「……それで、いいと、本気で思ってたんだ。僕は、」

 腫れあがった顔のまま、再びリノンが口を開く。


「てめえっ、まだそんなことを」


「そう、思ってたんだよ。でも、まさかそれが、イリアになるだなんて思わなかった。その役回りが、まさか彼女に回ってくるだなんて、思わなかったんだ」

 涙は決して浮かべず、ただリノンの震える声が響く。


「お前、」


「そんな、つもりじゃ、なかった。彼女には、今度こそよりよい人生を、笑顔で看取られる幸福な生き方をして欲しかった。でも、なんでさ? なんでそれがイリアなんだ?」

 リノンの瞳からは涙は流れない。

 いや、今それを確認することはできない。何故なら彼が腕で目元を隠してしまったから。

 だが、彼の唇だけは、微かに震え続けている。


「お前、後悔、してるのかよ?」

 リノンの予想外の反応に、アゼルはわずかに冷静さを取り戻す。


「後悔? してるよ、だから僕は今ここにいる。その後悔をなかったことにするために。……でもダメなんだ。僕の力じゃイリアを救えない。近い内に必ず来る、彼女の死の運命を僕には変えられない」


「何でだよ、お前には現実を、世界を誤魔化す力があるだろうが。それを使えば……」

 アゼルは唐突にその考えに思い至る。かつてシロナの死を誤魔化したように、イリアも同じようにすればと。


「それは、ダメなんだ。イリアは無垢結晶、一切のジンが含まれない。つまりは存在するはずがないのに存在する、矛盾した存在の彼女に僕の力で干渉することはできない。彼女の外界に働きかけることはできても、イリアの内側で起こる事象には関われない」


「そんな、」


「だから、僕ではいずれ完全なる無垢結晶、物言わぬ石となってしまうイリアを救う術がない。あるとすれば、彼女が笑って死ねるように場を整えることだけ。だからさ、魔王アゼル。キミが、イリアを殺してくれないか? あの子が本当にそうなってしまう前に、きっとキミが相手ならイリアは笑って死ねると思うんだ」

 本当に、本当にそれが最善の方法だと信じて、大賢者リノン・W・Wは魔王アゼル・ヴァーミリオンにそう告げた。


「俺に、イリアを殺せだと? ふざけるな、ふざけるな!! 俺にそんなことができるわけがないだろう。何かあるだろイリアが長生きできる手段が。イリアの結晶化がこの湖で泳ぐことで改善するなら何度でもここに来ればいい。そうすればあいつは死なずに済むだろ?」

 アゼルは限られた知識を振り絞って、彼女の生存の可能性を探り出す。

 だが、


「ははは、ごめんよ魔王アゼル。キミには少し誤解を与えていたかもしれない。そもそもイリアの身体の一部が視覚的に結晶化していたのは、無垢結晶である彼女と人間である彼女の部分との衝突から生じたものだ。無垢結晶である事実を完全に受け入れられなかったことで肉体の一部が結晶化したに過ぎない」


「おい、それはどういう」

 アゼルは嫌な予感が脳裏によぎりながらも、その先を聞いてしまう。


「イリアは今回自分の出生と在り方を完全に知った、そしてその根源たるこの湖で身を清めることで完全に受け入れるはずさ、無垢結晶としての自分自身を。そうすることで視覚的な結晶化はなくなり、イリアの苦痛も消える。だけど、イリア本人の内側の結晶化はより一層進行すると言っていいだろう」

 口の端から血を滲ませながらリノンは言う。


「なんだと? ふざけるなよリノン!!」

 アゼルの怒りにまかせた渾身の一撃がリノンの顔面にめり込む。


「ふざけて、など、いないさ。そうしなければイリアは今後満足に戦えない。彼女が十全に戦えないことなど、あってはならない」

 だが、それでもリノンはなお言葉を止めようとはしなかった。


「いいだろ、これ以上あいつが戦わなくたって。その分俺が戦えば!」


「はは、キミも随分と無責任なこと言う。キミにはキミの役割があるだろうに。まあどちらにしてもだ、イリアが戦わないのなら世界は終わる。ああ、これは世界が消えるとかそんな大仰な話じゃなくて、この世界にすむ命のほぼ全てが死に絶えるというだけのミクロな話だけどね」


「なんで、だよ。なんでそんなことになるんだよ?」


「さあ、それは僕にも。だけどそれ以外の未来が存在しないことがその証明だ。イリアが勇者と成らない未来、彼女が勇者として戦わない世界はほぼ全ての生命が死滅している。その中にはキミら魔族も、もちろんイリア本人も含まれる。だからさ、もうこれ以外の道がないんだ」

 口の端にわずかな悔しさを滲ませて、叡智を誇る大賢者は告げる。

 その諦めを、その敗北を。


「それはお前の頭の中だけの話だろうが!! 俺は諦めねえよ! 絶対に道はある、絶対に探し出す。だからてめえももっと頭を振り絞れよ!!」

 アゼルはリノンの胸倉をより強く引き絞りながら涙ながらに声を張る。


「そう、さ。僕は僕の全てをかけてイリアの幸せを完遂してみせる。だから、キミは精一杯あがいてくれ。探してくれ、あの子の為に。僕にも見えない叡智の先を、どうか見せて欲しい」

 大賢者は笑う。決して自身を曲げることなく、ただ数多の羨望を目の前の魔王に向けながら。


「ふざけ、やがって」

 胸倉を締め付けていたアゼルの力が緩む。

 彼はゆっくりと立ち上がってリノンに背を向けた。


「いったい、何がこの先起こるんだよ? イリアがどうしても戦わなければならない事態ってなんなんだ?」


「言っただろ、それはわからないって。ただまあ僕も別にずっと暇をしていたわけじゃない。これまでの世界の経緯、見えるもの、見えないものから逆算して大まかな検討はついている」

 リノンはアゼルに殴られたダメージでふらつきながらも立ち上がる。


「謎の鍵を握ってるのはキミら魔族だよ。キミらがこの人間の世界ハルモニアに攻め込んだ、いやきっかけがこの世界の破滅に繋がっている」


「!? 俺たちが逃げ込んだ? お前は一体何を知ってるんだ?」


「まあ数多の未来を見たうえでの状況推測さ。当時彼らは人間たちを虐殺しに来たわけでも、略奪を目的としていたわけでもなかった。まるで何かから逃げ出してきたかのようにこの世界へと辿りついただけだ。だからその後も自らの生活圏を守るだけで決して人間たちの領域を侵略しようとはしなかった。…………まあそれも四天王のコールタール・オーシャンブルー、いや裏で糸を引いていたルシュグル・グーテンタークが魔王軍を牛耳るまでの話だけど」


「────確かに、俺は大魔王アグニカ・ヴァーミリオンからは決して人間たちに干渉するなとは言われていた。だが何かから逃げてきたとは、そんなことは誰も……」


「教えてくれなかったんだろ? キミもあくまでこちらの世界で生まれた新世代。おそらくはこちらで新しく生まれた魔族にはその話を伝えないようにお触れでも出てたんだろうさ。まあそれでも魔王たるキミが知らないのは中々に問題だとは思うけどね」


「仕方ねえだろ、教えてくれなかったんだよ。魔界とはどんなところなのか、何があってこっちに来たのか、それを大人たちに聞いたのも一度や二度じゃない。だが誰も教えてはくれなかった。……親父の言いつけだからとな」



「まあどちらにしろその脅威に対してイリアの存在は必須なんだ。……どんな形で彼女の力を必要とするかは別にしてね。だからせめて、キミは最期まで彼女の側にいてあげてくれ。今のイリアならただそれだけで幸せなんだから」

 そう言ってリノンはアゼルの肩を軽く叩いて彼を追い越していく。

 その先には遠巻きに彼らを見ていたシロナがいる。


「まったく、さんざん殴られて痛いのなんの。シロナも見ていたなら止めてくれてもよかったのに」


「止めて欲しかったでござるか? 拙者にはどうも、リノンが殴られたがっているように見えたのだが」

 シロナは純朴な表情でリノンに答える。


「ははは、あまり僕のことをわかりすぎないでくれよ。胸が、少し苦しくなる」

 リノンはそう言って少しうつむく。胡散臭い彼の行動ではなく、リノンそのものをまっすぐに信頼するシロナの視線が眩しいかのように。


「それで、リノンの話を聞いてこれからどうするつもりでござるか、アゼル。いずれにしろ拙者は二人の味方でいるつもりだが」

 リノンとの衝突と会話を経てどうにか感情の整理をつけようとしているアゼルにシロナは言葉をかける。


「どうするもこうするもねえよ。イリアの寿命が縮む原因が戦うことにあって、あいつが戦わないといけない何かが今後控えているっていうならそれを探りだして俺が蹴りをつける。…………それしかねえだろ」

 アゼルは顔をあげて前へと歩き出す。

 彼の顔は、すでに戦う決意に満ちていた。


 だがその時、彼はふとした違和感を感じる。


 清浄さに満ちた神晶樹の森の中。

 仮に魔素を不浄とするのなら、その不浄さの中心にいるのはアゼルだけのはずである。


 しかしアゼルは今、自身の外側からの魔素を知覚していた。

 彼にとって身近な、とても良く知る気配を。


「おい大賢者、ここに普通の魔族は入ってこれないんだよな」

 表情に緊張感を漂わせながらアゼルはリノンに確認をとる。


「ああそうさ、魔王クラスでもない限りこの森で戦闘行為をすることはできないよ」


「そうかよ、だったら喜べ。そのがお出ましだよ」

 アゼルは湖の方、うっすらと立ち上がる霧へと視線を向け、そこから人影が浮かび出てきた。


 まるで天使のような白き翼をはやし、荘厳な白鎧に身を包んだ騎士服の女。

 白く美しい長い髪をはためかせながらアゼルたちの前へと舞い降りたその戦乙女はアゼルの良く知る人物。


 彼にとって母でもあり姉でもあり、そして初恋の相手でもあった女性、大魔王近衛騎士セスナ・アルビオンが降臨したのだ。

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