第七譚:愛憎跋扈の恋愛譚
第205話 いつかのどこか
ここは、いつか至る場所。
彼方の果てに、目指す輝点。
数多の絶望の果てに辿り着いた、ただ暖かな理想郷。
「ねえねえお母様!」
元気な声をあげて、幼い少女が母親のもとへと駆け寄っていく。
「ん、どうしたのアーシャ? 少し今大事なお仕事してるから、またあの本を読むのなら夜でいい?」
母親は何やら書類作業をしていたのか、かけていた眼鏡を外して少女と向き合う。
「ううん、違うの。あのね、お母様に教えて欲しいことがあってきたの」
少女は興味津々な瞳で、椅子に座る母親を見上げた。
「教えて欲しいこと?」
はて、なんだろうかと首をかしげる母親。
「お母様、『恋』ってどんな感じなの?」
少女はキラキラと輝く瞳でその質問を口にする。
「え、恋? どうしてそんなことが知りたいの? アーシャにはまだ少し早いわよ」
「そんなことないもん。私にだってできるもん」
母親の言葉にややムキになったように少女は答える。
「ああ、こういうのは頭ごなしに否定しちゃダメなんだっけ? そうね、アーシャも女の子だし興味があるわよね。でもそれなら私なんかよりもカタリナとかの若い娘に聞いた方がいいんじゃない?」
母親は今さら恋を語る気恥ずかしさもあり、腹心の少女の名前を挙げる。
「カタリナにはもう聞いたよ。でも全然ダメだった。カタリナも恋がなんなのかよく分からないって。それでお母様に聞いたらぜったいに詳しく教えてくれるからって」
少女アーシャは教育係なのであろうカタリナとの会話を思い出してそう言った。
「へえ~、そうなんだ」
その報告を聞いて、母親は内心で「あの小娘が、面倒な話題をこっちに押し付けて」とここにいないカタリナに向けて少しだけ文句を言う。
「それでそれで? お母様も恋をしたの? お父様とどんな風に出会ったの?」
母親の気も知らずに娘の瞳はさらに輝きを増しており、もはや逃げられるような状況ではなかった。
「────はぁ、仕方ないか。でもアーシャ、この話は
彼女は半ば諦めたように娘の両肩に手を置いて、一応の口止めをしておく。
「うん、約束する!」
「はあ、いい返事だこと。それでアーシャは恋について知りたいんだっけ? ちなみにアーシャは好きな人はいるの?」
「好きな人? 一杯いるよ! お母様にユリウスにカタリナ、それにおばあちゃんとおじいちゃんも好き!」
少女は元気いっぱいにそう答える。
「まあそうよね、それを聞いて安心したわ。」
この答えを聞く限り、アーシャは初恋すらまだのようだった。
「いい、アーシャ。恋っていうのは貴女の言う『好き』とは別の意味で誰かを『好き』になるってことよ」
「別の意味?」
「そう、あの人も好きこの人も好きとかいくつもある気持ちじゃなくて、たった一人、明確な誰かに向けて、その人だけが好きだって感じること、それが恋なのよ」
「誰か、ひとり」
少女は母親の言葉をゆっくり理解するように繰り返す。
「そう。まあ中には誰かれ構わずに好きと言って自分は恋をたくさんしてるとか言う連中もいるけど、もしそんな奴を見かけたら迷わずに燃やしなさい、私が許すわ」
具体的に誰か思い当たる人物でもいたのか、やや頬を引き攣らせて彼女は言う。
「うん、わかった。燃やすね」
そして少女もよく分からないなりにその言葉を反復した。
「まあ、そんなことはどうでもいいんだった。とにかくその誰かを好きになる気持ちが恋なんだけど、それだけだと片想いなの」
「片想い?」
「そ、片想い。恋愛っていうのはお互いが好きあって初めて成立するの。それを両想いって言うわね。まあ、なかなかそれが難しいんだけど」
「両想いって難しいの?」
「うん、難しいわね。自分が誰かを好きになったからってその人が自分を好きになるとは限らない。むしろそうでないことの方が多いしね。だから誰かを好きになって恋をしたら、自分のことも好きになって欲しいってみんな努力するの」
「ふぇ~、そうなんだ。でも頑張ったらみんな両想いになれるんだね!」
母親の話を聞いて、少女は嬉しそうに納得する。
「う~ん、まあその努力も報われないことの方がほとんどなんだけど」
少女の理解に水を差さない程度に、母親は小声で付け足す。
「お母様も努力したの? お父様に好きになってもらうために」
少女アーシャは高まったテンションのままその質問をした。
「あ、やっぱりその話になるんだ。せっかく逸らしてたのに」
母親は自分の娘の興味が完全に両親の馴れ初め話にターゲットされたと認識し、諦める。
「努力ねぇ、したかな~? さっきはああ言ったけど、こういう恋愛ってその当時はなりふり構わずにやってるからあんまり覚えてないのよねぇ」
あごに手を当てながら母親はう~んと唸りだす。
「頑張ってお母様、思い出して!」
そして少女は一生懸命に母親を応援し、彼女から語られる恋のエピソードを期待する。
「う~ん、そういえばそんなこともあったかなぁ。─────よし、いいアーシャ? 今から話すことは絶対に、本当に絶対に誰にも言っちゃダメだからね」
母親はあらためて娘の両肩をガシッと掴んで念を押す。
「う、うん。わかりました」
その剣幕に驚きながらも、少女は確かに約束を了承する。
「よろしい、それじゃあ話すわよ。あれって何年前になるのかなぁ」
母親の口から語られるかつてあった記憶。
少年も、少女も、誰もが恋をして大人になる。
これより語られるは、どんな勇者もどんな魔王も経験する、そんなどこにでもあるありふれた恋愛譚。
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