第202話 約束
時は廻る。
ただ一人立ち止まる愚か者を嘲笑うかのように。
「ねえ、リノン! またこんなところにいる。いい加減に観念してみんなの中に混ざったらいいのに」
そんな私のもとにヅカヅカと遠慮なく立ち入る者が一人。もう言わなくてもわかるだろうけどイリアだ。彼女は今年で確か18歳、誰もが振り向く立派なレディになっていた。
「よしてくれよイリア。私がもうそんな立場にいないことくらいわかってるだろうに。それに、随分と久しぶりじゃないか」
自分の記憶の限りだと彼女がここへ足を運ぶのは2週間ぶり。日に2、3度は顔を見せに来ていた昔が懐かしい。
「む~、私だってそんなにヒマしていないんだからね。家のことだってあるし、畑や教会の手伝いだってあるし、それに────」
彼女は途中で言葉が詰まってしまう。
「ああ、聞いたよ。キミにもついに彼氏ができたんだって? 今までかなりの数のデートのお誘いを断り続けたキミなんだ、相手はさぞかし立派な男なんだろうさ」
僕は彼女への言葉に少しからかいのニュアンスも含ませる。
しかし、
「うん、すごくいい人なの。私のことを好きだって。世界中を敵に回しても構わないくらい大好きだって」
彼女は頬を赤らめて恥ずかしそうに、お相手の恥ずかしいセリフを暴露した。
うん、まあこういうセリフは狙った対象以外に伝聞されることを想定していないから、その彼氏としてはたまったものじゃないだろう。
普段の僕なら「それは彼の世界が狭いだけの話じゃないかい? 世界の広さ、世界を敵に回すことの恐怖を彼は知らないのさ」なんて空気を読まないどころか、積み上げた関係性を崩しかねないことを口にするのだけど。
「そうか、それは良かった。うん、キミは幸せになるよ」
そんな、心ない言葉が漏れ出た。
「?? 珍しい、リノンが素直にそんなこと言うなんて。それに、今日は釣竿を持ってきてないんだね。竿もなしに釣りに来るなんて、ついにボケた?」
「ボケたとは失礼な。だがまあ、僕に釣竿はいらないって気づいたんだよ。風を読み、星を読み、世界を読む。僕に必要なのはただそれだけだったのさ」
瞼を閉じ、駆け抜けていく風を肌で感じとる。
風は必ずいずこから起き、いずれ彼方へと消えていく。
星辰の瞬きも、全てに意味があり価値がある。
今はそれらを読みきれなくとも、いつか
「…………そこに
彼女は黒髪を揺らし、満面の笑みを僕に向ける。
それは僕には眩しすぎる、信頼の証だった。
「それは恐ろしい。でもそうか、キミもそう遠くない内に結婚するのか。あれだね、小さい頃からキミを知っているだけに、娘を花婿にとられる父親の気持ちが少しわかる気がするよ」
この気持ちは何とも表現しづらい。自分のモノでないことは百も承知のはずなのに、誰かのもとへ巣立っていくことに何故寂しさを覚えてしまうのか。
「へへ~ん、残念でした。こんなところで釣りなんかにかまけてるから女の子は逃げてくんだよ。あ、でも私お父さんいないから、当日に一緒に式場を歩く人がいないの。────リノン、やる?」
彼女は後ろ手を組みながら上目遣いで聞いてくる。
軽い口調の中に潜ませた、彼女のささやかな願い。
「僕がかい? それはいくら僕でも空気を読まないにもほどがあるだろう。キミの母親にでも歩いてもらえばいいさ」
彼女が言っているのは結婚式の教会の花道、いわゆるヴァージンロードの話だ。これは花嫁の父親が花婿のもとまで一緒に歩いていくのが通例だ。
「いいの、母さんだってリノンに私達が陰でこっそり色々と助けて貰ってたことは知ってるんだし。それに、カッコイイお父さんって、結構女の子たちの間でポイント高いんだよ」
眩しい笑顔をさらに輝かせて彼女は言ってくる。でもその理由は後付けもいいところだ。
だって彼女が周囲の評価を気にしない人間であることを僕はよく知っているのだから。でなければこんな外れ者のところに足しげく通ったりはしないだろう。
彼女はただ、僕を街のみんなの輪の中に入れるためだけにそんなことを口にしているのだ。
「キミはまた随分と、良い子に育ったものだ」
漏れ出た感慨とともに立ち上がる。
「あれ、もう終わり? 街に帰るなら一緒に行こ」
彼女はとても自然な仕草で手を差し出す。
それは、まるで父親と娘が帰り路をともにするかのように。
だけど、その手をとったらキミはきっと僕の特別になってしまう。
彼女が内心で僕に父親の影を求めていたように、僕も同様の気持ちを彼女に抱いてしまうだろう。
だから、その手は握り返せない。
「いや、約束を、思い出したんだ。だからもう出かけないと」
純真無垢な彼女の笑顔を見て、遠い約束を思い出す。
「約束?」
「古い友人たちとの約束さ。彼女らは外の世界を知ることができないから。僕がたまにそこを訪れて、色んな話を聞かせる約束をしている。それを、思い出したのさ」
「どこか、行っちゃうの?」
少しだけ、不安そうな顔。
「ああ、あの湖のある神晶樹の森にまで少しね。だけどそのうち戻ってくるさ」
彼女の差し出した手を握り返すことはせず、彼女の頭をそっと撫でる。──ああ、本当に彼女は大きくなった。
「やめてよ、もう子供じゃないし。ふん、リノンにも友達いたんだね。そのことが一番のビックリだよ」
別れを予感してか、言葉とは裏腹に彼女の目尻にはうっすらと涙が浮かぶ。
「はは、これでも長生きしているからね。まあ、といってもここ十数年はずっとこの街にいたから、正直話すことと言えば、キミのことくらいしかないのだけどね」
「何それ恥ずかしい。そんなのでその友達はいいの?」
「もちろん、彼女たちはどんなものであれ新しい物語こそを一番の楽しみにしてくれる」
僕は彼女の頭から手を離す。
随分と長居をした。もう、行かなくては。
「いつになるかはわからないけど、私の結婚式までには帰ってきてよね」
彼女に背を向け歩き出す僕に言葉が投げかけられる。
「……わかったさ。今回の話のストックが切れたらまたここに戻るよ」
そんな、カタチのない言葉を、人質としてここに残す。
人を騙すことも、世界を騙すことにも慣れ過ぎた。だから、この言葉がたとえ嘘になろうと僕の心は痛まない。
「約束だからね、リノン。またね」
去りゆく僕に彼女は手を振り続ける。
「ああ、イリア。さよなら」
僕は何故か、「またね」と言葉を返すことができなかった。
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