第201話 冬が来て

 時はあらゆる者に平等に過ぎていく。

 それは、歩みを止めた愚か者に対しても同様に。



 季節は冬、川のせせらぎすらも幾分冷たく聞こえる中で、僕は相変わらず釣糸を水面に垂らし続けていた。


「………………ちょっと、流石にこんな真冬に釣りをしてるとかどうかと思うよリノンさん」

 そんな僕の耳に聞き慣れた少女の声音が響いてくる。

 わざわざ振り向く必要すらない。誰がそこにいるかはわかりきっている。

 

「別にそんなにおかしなことではないさイリア。本当の釣り好きは季節を問わずに竿を握るものだからね」

 僕に声をかけてくる物好きはやはり黒髪の少女イリア。今年で16才になった彼女はまごうことなき美少女になっていた。

 今はこの季節に相応しく厚手のコートを羽織って耳まで覆うタイプのモコモコした帽子を被っている。


「リノンさんが本当に釣りが好きなだけなら私も何も言いませんよ。でも、別に釣りが好きってわけじゃないんでしょ? はい、コレ」

 そう言って彼女は僕に湯立ったコーヒーの入ったカップを差し出してくる。


「おや、気が利くねぇ。砂糖とミルクは入ってる?」


「贅沢言わないでください。砂糖は、気持ちだけいれておきました」

 僕の隣の草原くさはらに薄く積もった雪を払い、そこに革製のシートを引いて彼女は座る。

 まあ、わざわざ差し入れを持ってきた彼女を邪険にはできずに僕はしぶしぶとコーヒーを口に運ぶ。うん、苦い。これが彼女の気持ちだというならなかなかに手厳しい。

 そんな僕の表情の変化を見つめて満足したのか、イリアは持参したポットから自分用のカップへとコーヒーを注ぎ、さらにミルクと砂糖を加えた、っておいコラ。


「ん、どうしました? これは日頃からお母さんに代わってせっせと働く自分への正当なご褒美ですけど」

 いたずらっぽい笑みを浮かべながら、小さな口で彼女はコーヒーを熱そうに口にする。


「まあ確かにキミは真面目に働いてるんだろうけど、そのコーヒーや砂糖の原料の植物は元々僕が提供したものだろう?」

 さらに言えば保温ポットの原理や革製品の加工方法を教えたのも僕だ。

 ん、コーヒー豆は雪の降るような地域では生育しない?

 知らないね、君らの世界じゃそうなんだろうけど、こちらじゃ全然問題ないのさ。


「そういえばそうでしたね。おかげさまでそれらはウチの特産品になって随分と村が潤いました。いえ、もう村じゃないんでした」

 そう、いくつかの特産によってお金が巡るようになったこの村はみるみるうちに発展して、今では立派な街と呼べるものになっていた。


「そうだ、ついに私たちの所にも湖水教の教会が建ったんですよ。すごく綺麗だからリノンさんも今度お祈りに来たらどうですか?」

 16歳になっても変わらない純真な瞳で彼女は僕の顔を覗きこんでくる。


「へ~、そうなんだ湖水教がね。……なかなか金の動きに敏感な連中だな。まあ我が人生を悔やみたくなるほどへこんだ時は懺悔にでも行ってみるさ」

 僕はやや複雑な心境で彼女に答えた。


「あ、その顔はこれっぽっちも行く気がないやつだ」

 む~、と彼女はふくれっ面になる。


「こらこら、勝手に僕の行動を読むんじゃないよ。教会に足を運ぶ気がないのは確かだけど、人生はわからない、いつか何かのきっかけで行くかもしれないだろ?」


「ふんだ。そんなこと言って、リノンさんには今までも何度も騙されてきたんだから。リノンさんなんか川に落ちて魚のエサになっちゃえ」

 彼女は手ごろな石を川にポチャンと投げ込んだ。


「おいおい、魚を釣っている人の前でそれをするなんてキミもなかなかに悪い子だねぇ」


「本当に魚を釣ろうとしている人に対してそんなことしないですから。というか、ロクに釣れてるわけじゃないのに毎日こんなところにいて、どうやって生活成り立ってるんですか?」

 おっと、社会を生きる大人に対して少女は随分と突っ込んだ質問をしてきた。

 まあ、もはや自分は街の人々からの支援を受けているわけでもなく、ただ街に籍を置いているだけの人間だ。そいつがどうやって生きているのかは気になるといえば気になるのだろう。


「ふむ、そうだねぇ。まあ極端なことを言えば、僕はその気になったら別に食事を摂る必要はないのさ。さらに言えば睡眠も休息も身を清める必要すらない。それらの些事は、あの日、ずっと遠くに置いてきてしまったからね」

 すっ、と目を細めて遠い日の愚かな決断を思い出す。

 この身は、精神も肉体も充実していた当時に焦点が当てられたままだ。よって、人にとって生きていくために必要なあれやこれやは、全てただの趣味に成り下がった。


「……なんだろ。本当だったらスゴく羨ましいことなのに、とても寂しそうに話すんだね、リノンさんは」

 僕の横顔を見つめながら、彼女はそう言ってきた。


 うん、キミの言うとおり僕は寂しいんだ。たとえ肉体と精神が衰えずとも、この魂は疲弊していく。変わらない僕と変わっていく世界の齟齬、その摩擦で少しずつ磨り減っていく。


 どんな理解者が寄り添おうと関係ない。

 なあイリア、この街で誰よりも僕に歩み寄ろうとしてくれるキミですら、成長し、誰かを愛して子を育み、…………いつかは老いて死んで僕の前からいなくなってしまうんだから。

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