第199話 暖かな日々

 穏やかな日差しが降り注ぐなか、僕は今日も今日とて小川にて釣りを嗜んでいた。


「あ、賢者さま今日もこんなところで釣りをしてる。大人の人たちが変人だってウワサしてるよ」

 そんな僕のところに黒髪の少女がやってくる。

 家の手伝いで水汲みにでも来たのだろう。その手にはやや小さめのバケツが握られていた。


「ああ、イリアかい。そんな変人にわざわざ声をかけるなんてキミは律儀だね。……少し背が伸びたかい?」

 子供の成長は早いもの。僕が少し呆けている間に一回りは大きくなった気がする。


「うん、わたしもう10歳になったんだよ。村の幼年組の中では一番のお姉さんなんだから」

 少女イリアは自慢気にひたすらに薄い胸を張ってみせた。


「そうか、子供が育つのは早いものだ。僕みたいに無駄に長生きしていると、そういった時間の感覚が誰かの成長を見ることでしか保てなくなるからね」

 ふと虚しさを覚えて口からそんな言葉が出る。


「?? 賢者さま、また難しい言葉使ってる。あんまり年寄りぶるとすぐにシワシワのおじいちゃんみたいになるんだから」

 彼女は眉間と顎に精一杯の皺を作ってそんなことを言う。しかし、それでも彼女の愛らしさは少しも損なわれない。


「はは、キミは手厳しいね。お爺さんになるのは僕も勘弁だからこれからは気をつけるとしようか。それでキミは今日も水汲みの手伝いかい?」


「うん、そうなの。洗濯用の水を汲んできてってお母さんに頼まれてるの」

 少女は誇らしげに答える。


「そうかい、キミは偉いね」

 少し手を伸ばして彼女の頭を撫でる。


「もう、やめて~。わたしお姉さんなんだから。誰かに見られたら恥ずかしい」

 そう彼女は恥ずかし気にしながらもその場を動かなかった。


「それにわたし頑張らないといけないの。去年お父さんが死んじゃったから、その分もお母さんのお手伝いしなきゃ」

 そう、彼女の父親は昨年に流行り病で亡くなっている。それからしばらくは目も当てられないような落ち込みぶりだったが、彼女はそこから自力で立ち直った。そして今の少女の瞳の奥にはどんな不幸にも負けることのない力強さが秘められている。


「ああ、そういえばそうだったね。はは、まったくキミの真っ直ぐさは僕には眩しすぎて困るね。それじゃあ頑張っておいで」


「うん」

 僕の言葉に素直に頷くと彼女は川へと下って慣れた手付きで清流の水を汲んでいった。


 時が過ぎれば人が死ぬし、それでも人は生きていく為に生活を回し続ける。


 目の前に映る彼女の光景も、ありきたりな日常の1ページとして僕の記憶に収まり、そして何の感慨もなく次々に捲られていく。



「ねえ、ねえ、賢者さま! 聞いてる?」

 また僕の耳元で響く少女の声。


「ん? ああイリアかい。飽きもせずによく僕に声をかけるね。あれ、また大きくなったんじゃないかい?」

 僕に声をかけるのはいつもの少女。だけど、僕の意識が少し微睡んでいる間にまた成長をしていた……胸以外に限っての話だが。今の彼女の年齢はおそらく12歳くらいだろうか。


「……賢者さま、私の胸を見て何かよからぬことを思ってないですか?」

 勘が良いのか悪いのか、彼女はジト目で僕のことを見てくる。


「ははは、キミは何を言ってるんだ、失礼だなぁ。よからぬことを思うほどの胸なんてどこにも見当たらないじゃないか。僕はただずっと変わることのないその地平を感慨深く思ってただけさ」

 珍しく僕は偽ることのない本心を言葉にした。


「ちょっと、賢者さまの方が百倍失礼じゃないですか! それにさりげなく未来の成長まで否定しないでください。ちょっと遅れてるけど私もすぐにみんなに追いつくんだから」

 少女はムキになってそんな夢物語を言ってくる。

 黒い真珠のような瞳に絹のように滑らかな髪が腰のあたりまで伸びて、彼女はまた一段と愛らしさを増していた。胸のことはさておいて、彼女が村一番の器量良しとなるのは間違いなさそうだった。


「はは、夢を見る自由は誰にでもあるからこれ以上いじめるのはよそうかな。それにしてもイリア、わざわざ僕なんかを構いにくるのはキミくらいだよ。僕を『賢者』だなんて、今では誰もそうは呼ばないよ」

 そう、冷めた口調で僕は言う。

 最近はより一層のこと村への貢献をしなくなった自分の扱いは以前とは比べものにならないほどにぞんざいだ。


「それは賢者さまが本当の力を隠してるからじゃないですか。私は知ってるよ、賢者さまが本気を出したらスゴいんだって」

 少女はキラキラした信頼の瞳で僕を見つめてくる。


「やめてくれよ、僕は大したことはないし大した力もない。というか使いたくない、使うことに疲れたんだ。もし無能と呼ばれるなら望むところさ。僕の今の目標は力を有しながら使わない者、知恵を有しながら黙している者。そういう隠者に僕はなりたいのさ」

 そう、それが今の自分の目標。時の流れに苛まれない、世を忍び、世を儚む、世界の片隅に隠れ棲む仙人のような生き方に憧れていた。たとえそれが空想上の物語の中にしかないとしても、そう生きることができたなら、この胸の形のない重さに思い悩むこともないだろうと。


「もう、また難しいこと言い出した。賢者さまそんなこと言って私にはちょくちょく魔法みたいなこと見せて自慢してくるし、私にお願いして村のみんなのために役立つことこっそりさせるでしょ? それに私お母さんに聞いて知ってるんだから。隠者って世間から離れて暮らす人でしょ。賢者さまって全然徹底できてないしブレブレだよ」

 はあ、と溜め息をつきながら彼女はやれやれといった様子でそんなことを言ってくる。


「……………………」

 そして僕には返す言葉がない。確かに僕の口にする生き方とその実際の乖離は明らかだ。ああ、12歳の少女に正面から言い負かされた。女の子は口が達者とはいえこれは完敗だ。やれやれ、少しくらいお馬鹿な方が可愛いというのに。


「イリアも随分と賢くなったね。ま、キミの言うとおり僕がその生き方に徹しきれてないのは確かさ。でも、そんな風に生きれたらと思っているのも本当なんだよ」

 彼女の頭を撫でながら僕は語る。


「多くの生と多くの死を見てきた。多くの繁栄と多くの衰退を見てきた。そしてこれから起こる数多くのそれらも既に覗いてきてしまった。そうするとね、やはり疲れるのさ。体じゃなく、心が。いや、魂がと言った方が適切かな」

 少女は胡散臭い男の語りを静かに聞いている。


「だから、僕は静かにこの世界から引退したいのさ。世界の行く末をただ見つめ、いつか何も感じなくなったその時に、この人生すらも手放したいんだ」

 いつか、そんな日が来ると願いながらその言霊を口にする。しかし、小難しい僕の話を意味不明な様子で聞いていた彼女も、最後の言葉の意味は理解してしまったのだろう。

 イリアは彼女の頭を撫でていた僕の手をとって、


「ダメッ、賢者さま、そんな脱け殻みたいなこと言わないで! まだ身体があって心があるんだから、精一杯今を生きなきゃいけないの!」

 何かが彼女の琴線に触れたのだろう。

 まるで遠くに去っていく誰かを引き止めるように彼女は両手で僕の手を強く握る。


「……厳しいね、キミは。頑張らなきゃ、ダメかい?」

 許してくれないか、という気持ちで僕は言う。

 だけど、彼女はどうやら許してはくれないようで、


「そう、頑張るの。頑張れる人は頑張らないといけないの。……じゃないと世の中は回らないんだって、お父さんは言ってたよ」

 両手で僕の手を強く握って少女は言う。


 確かに、彼女の言うことは世の真理のひとつだ。

 みんながみんな頑張ることを放棄したら、社会そのものが成立しなくなる。だから、どんなに成熟した社会でも全ての人に努力からの逃亡を許可することはできない。結局それは、他の誰かの努力で穴埋めするしかないのだから。


 でも、


「うん、キミの言葉は正しい。そして、僕は頑張れるのに頑張らない側のクズさ。イリア、キミもそろそろ朽ちていくだけのこんな石像に話しかけるのはよした方がいい」

 僕の手を握る彼女の手を解いて、僕は再び釣り竿を手にする。


 正しい言葉はただ正しいだけ。


 そして、言葉で変わってしまうほど、もう僕は若くない。


 誰かの気持ちに揺さぶられてしまうような、まともな人間じゃ僕はない。


 そう僕は、少女の真摯な言葉すらもふいにする、ただのロクデナシだ。


「もう、賢者さまの、バカ!」


 彼女は僕のどうしようもなさに呆れ怒って去っていく。

 うん、それでいい。

 少女時代の貴重な時間をこんな骨董品に費やすことはない。


 そうして、僕を賢者と呼ぶ者は誰もいなくなった。

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