第179話 冥府の大沼

 イリアたちは順調に冥府の大沼へ向けて馬車を進めていた。

 馬車の御者は意外なことにリノンが努めており、彼曰く「ここが一番座り心地がマシだからね」とのこと。


「……なあ、これから行く冥府の大沼ってどんなところなんだ?」

 馬車に揺られながら、アゼルが唐突にそんな質問をする。


「あれ、アゼル知らないの? 冥府の大沼は人間領域で唯一、自然的に魔素が湧き出ている沼のことだよ」

 アゼルの隣に座っていたイリアがその問いに答える。


「え、こっち側にも魔素が発生している場所があるんだ?」

 聞こえていたのか、ユリウスもその話に興味を示した。


「そだよ。地域的な所属は確かアスキルドだったかな。でも基本的には放置されてるから誰もいないはず。あそこは魔石も採れるんだけどね」

 話を聞いていたエミルがさらに注釈を加える。


「ん? 魔石といえば人間たちにとっては貴重な資源だろ? 何でそれが採掘できる場所をアスキルドは放置してるんだ?」


「お、良いところに気づいたねぇ、魔王アゼル。ま、先に答えを言ってしまえば危険だからさ」

 リノンは馬を御しながらも会話に加わってくる。


「危険? ああそうか、人間たちには魔素の満ちた空間は毒気が強すぎるのか」


「うーん、正解に近いようで遠いねえ。実は冥府の大沼周辺の大気中の魔素の濃度はそこまで高くないんだ。しかるべき備えをすればそこで活動するのはとくに難しくはない」


「ん? それじゃあますますわからんぞ。そこら一帯に魔物でも生息してるのか?」


「お、さすがだ。ほとんど当たりだよ。ただ周辺に魔物は生息しているが魔族領域にいる奴らほど凶暴じゃない。何せこの冥府の大沼は旧時代パストエイジには成立していたみたいだからね。魔素によって急激な身体変化を引き起こしたわけじゃない分、比較的理性があるのさ」


「?? おい、別に俺はクイズを楽しみたいわけじゃないんだ。大賢者、いい加減に答えを教えろ」

 リノンののらりくらりとした返答に業を煮やしたアゼルが結論を促す。


「欲しがるねえ、いいよ答えるさ。冥府の大沼にはぬしがいるんだよ。沼から湧き上がる魔素のほとんどを喰らい尽くす怪物、毒竜ヴェノム・ハデッサがね」


「ヴェノム・ハデッサ?」


「そう、とにかくコイツが凶暴でね。あまりに危険なものだから誰も近づかないのさ。魔石集めを生業にする魔石ハンターたちもここに踏み入るくらいなら魔族領域に入った方がマシだって思うくらいには危険かな」


「へ~、そんなに強いんだソイツ。今まで興味なかったけど、毒竜退治に挑戦してみるのも面白いかも」

 その話を聞いて逆に興味が湧いたのか、エミルの瞳がギラリと輝く。


「おいおいエミルくんはまだ病み上がりだろ? とてもじゃないがあの毒竜の相手はできないよ。それに本当に退治できてしまっても困るんだ」


「え? リノン、それってどういうことですか?」


「さっきも言ったろ、ヴェノム・ハデッサは冥府の大沼から湧き出る魔素のほとんどを喰らっているって。つまりはそいつがまかり間違って死んでしまえば、この人間領域にも魔素が広がってしまうことになる」

 さらっとリノンはとんでもない大災害を口にする。


「え!? もしそんなことになったら、」


「200年前の悪夢の焼き直しだね。いや、今度は逃げ場がない分より悲惨かもしれない。ま、人間の8割は死ぬだろうね」


「ちょっとリノンさ、……リノン! そんなこと魔王の前で言ってしまっていいの?」

 今まで黙っていたアミスアテナが強い口調でリノンを非難する。


「え? いいんじゃない? 僕には彼がそんな短絡思考だとは思えないけど。どうだい魔王アゼル、君は今の情報を悪用して人間たちの虐殺を計画するかい?」

 リノンからアゼルに向けての試すような言葉。


「するわけねえだろ。俺はな、アグニカルカの民が守れればそれでいいんだ。別に積極的に人間たちを殺したいわけじゃない」


「うんうんそうだね、君はきっとそう答えるだろう。でもそれならここで意地悪な質問だ。君は自分の民を守るために人間全てを殺さなければならなくなったとき、…………どうするんだろ?」


「!? お前、それは、」

 アゼルに向けて放たれる急所とも言える質問。

 そしてアゼルは、思考が止まったかのように答えあぐねてしまう。


 だがそこへ、


「リノン、それは本当に意地が悪すぎます。それは私にも『人間を守るために魔族全てを殺すのか?』と言っているのと一緒です。────そして私の答えは決まっています」

 真剣に怒ったイリアの声が響く。


「へえ、どんな?」


「私にはできません。だって魔族にはユリウスもカタリナも、それにアゼルだって入っています。例えその結果守れない人が出てくるのだとしても、私にはそれはできません」

 はっきりと、自分の意志を口にするイリア。


 聞き様によっては、何とも惰弱で煮え切らない言葉。


 しかし、


「そうか、イリアはそう答えるのか」

 リノンは静かに頷く。


 晴れた日差しのもと、馬車は粛々と進んでいく。


 意地と性格の悪い大賢者は、イリアの答えにただただ嬉しそうに笑っていた。

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