第六譚:神魔謀逆の賢悠譚

第166話 いつかのどこか

 穏やかな昼下がり、少女が母親のもとへ駆けていく。


「ねえねえお母様、聞いて聞いて!」

 少女が抱えるのは少しだけ古びた大きな本。


「どうしたのアーシャ? またその本の続きを読んで欲しいの?」


「ううん、違うの。今度は自分で読めたんだよ」

 少女、アーシャは自慢気に母親に報告する。


「あら、そうなの。……なんだか、それはそれで寂しいわね」

 てっきり本を読むことをせがまれると思っていた母親は拍子抜けをしてしまう。


「それでね、それでね! 今日は賢者さまが出てきたの!」

 嬉しそうに話す少女。


「!?」

 そんな少女とは対照的に、母親は「賢者」の単語が出ると同時に頬を引き攣らせていた。


「やっぱり賢者さまってスゴい! なんだかとってもスゴいの!! 私もいつか賢者さまみたいに──」

 なりたい、と続きそうな彼女の言葉を遮って母親は少女の肩を掴み、


「ダメよアーシャ! それはダメ。あんなダメ人間に憧れるとか絶対にダメ」

 と、焦りの表情を浮かべながら真剣に言う。


「あ~、なんでそこに限って自分で読んじゃったかなぁ。いつもだったら私がそこだけ読み飛ばすのに。そもそも記録になんて残さなければ良かったのに、あ~でもアイツの話も絡むしな~。あ~」

 母親は少女がかつて見たことないレベルで頭を抱えてうなっていた。


「?? お母様どうしたの? 賢者さまはいい人なんじゃないの? 関わった人はみんな幸せそうだよ?」

 少女アーシャは純粋な瞳で母親に問う。


「幸せって、そうか~、子供の目から見たらそう見えるか~。行間がまだ読めないからな~」

 母親はいまだ頭を抱えたままうなり続けている。


「??? わたしの読み方がおかしかったのかな。やっぱりお母様が読んで!」

 少女は母親のあまりにおかしい態度を見て不安になったのか、そんなことを言う。


「え? う~ん、できることならソコは読み飛ばしたいんだけど、…………仕方ないか。これも教育の一環だものね」

 母親は諦めたように肩を落とし、少女から本を受け取った。


「やった、お母様に読んでもらえる!」

 少女は嬉しそうに喜び、


「あ、でも始めのところはわたし覚えてるんだよ。『むかしむかし、あるところにそれはそれは立派な賢者様がいたのです』だよね」

 と自信満々に言う。


 しかし、


「あ~、そこからアーシャは読み方を間違っていたのね。いい? 正しくはこうよ。『むかしむかし、あるところに、それはそれはうさんくさい、信用ならない小賢しい男がいたのです』よ」

 母親は真顔で少女の記憶を訂正する。


「あ、あれ~?」

 少女は母親があまりに真剣にそう言うので、自分の記憶に対する自信がなくなってきてしまう。


「さ、バンバン読んで、アーシャの記憶を修正してあげるわ」


 そうしていつになく乗り気な様子で母親はこの物語を読み進めていく。


 語られるは遠い記憶。


 大衆からは偉大なる大賢者と崇められ、そして仲間内からは途方もないロクデナシと呆れられた男の物語が、今まさに紐解かれる。

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