第25話

 東吾の心音が狂ったように響く中、川島の声だけは変わらずに聞こえた。


「その短筒の弾は一発だけだ。もう使えぬ」


 しかし――と、呆れたと言わんばかりに言う。


「殺さぬのか?」

「何を――」


 雇い主だろうに、川島は庄兵衛になんの情もないらしい。最早庄兵衛のもとで稼ぐつもりがないのか、生死さえどうでもよいと言わんばかりだ。


「まあいい。あれ・・を素直に返すのならおぬしたちのことは逃がしてやる」


 風雅が地面に突いていた膝を上げた。どうにか立ち上がったが、右肩を押さえている。そこからは血が、着物を赤く染め上げている。


「兄上――」


 チリ、チリ、と東吾の肩も痛む。その痛みは風雅の感じる痛みのほんの一部でしかない。


「あんなものを持ち歩くわけがなかろうが。とっくに捨てた。――東吾、こやつの言うことなど聞かずともよい。叩きのめして帰ればよいだけの話だ」


 血の臭いが鼻を衝く。それなのに、風雅はまだ戦うつもりでいるのだ。

 川島は鼻白む。


「その怪我で俺に勝つつもりか? あれ・・を本当に捨てたかどうか、おぬしたちの亡骸を調べればわかることだ」


 風雅は肩の傷から手を放し、刀を構えようとした。東吾はとっさに風雅のもとへ駆けつけ、血に濡れた兄の手に己の手を重ねる。


「兄上、ここは私が」


 額に脂汗を滲ませながら、風雅は目を見開いた。

 東吾は風雅に劣るかもしれない。とはいえ、東吾は怪我もしていなければ、体力も残っている。今の風雅よりは動けるはずなのだ。


 それでも、川島は強い。東吾が勝てるかどうかはわからない相手である。けれど、だからといって、怪我だらけの風雅に任せるわけにはいかなかった。

 風雅は、東吾と間違われて襲われた時から、ずっと東吾のことを案じてくれていた。ひどいことを言って追い払った東吾を、それでも気にかけて見守ってくれていたのだ。


 そんな風雅に恥ずかしくない己でいなくてはならない。東吾はこの時、素直にそう思えた。それは長年の鬱屈した感情が晴れ渡った程にははっきりとした気分であった。

 だから、川島と対峙するのは己なのだ。


「おぬしが俺の相手をするというのか? それで、勝つと?」


 鼻で笑われたのも仕方のないことかもしれない。川島と東吾とでは、身を置いてきた環境が違いすぎる。


 手は冷たく、そのくせ汗を掻いていた。

 しかし、勝たねばならぬのだ。勝って、風雅と共に帰る。どちらも欠けてはならない。


 刀の柄に手を添え、鯉口を切る。刀を抜いてしまえば、勝負が着くまで鞘には戻らない。

 川島は、己と対峙する東吾に侮蔑の籠った目を向けた。


「始めてしまえば後には退けぬぞ」


 見逃してくれるのならばいいが、そんなつもりはないだろう。それならば戦わねばならない。戦いたくなどなかったとしても。


 ここからはもう、言葉はなんの役にも立たない。どちらが最後に立っていられるのか、重要なのはそこだけだ。

 この時でも、相手の命を奪うつもりはない。そんな東吾と違い、川島は東吾を斬り捨てるつもりで相手をする。不利は承知で、それでもここは乗りきらねばならないところだ。


 スッ、と東吾が太刀を鞘から抜いた。この太刀は、いつも東吾の守りであった。負けない、と念じるようにして正眼に構える。


 風雅は、東吾の覚悟を感じてくれたようだ。大人しく下がった。

 川島は刀を抜かない。それがかえって厄介であった。抜刀術だとするなら、踏み込まれた途端に勝敗を決する。東吾は川島の爪先を注視した。


 どんな者であっても、打ち込む時には足を動かす。足が前に動けば、間合いを詰めにかかる。

 しかし、川島は容易には動かなかった。東吾が打ってくるのを待つつもりなのか。


 この男は、すべてを捨てて目の前の勝負に集中しているのかもしれない。仮にここで果てようと、それも受け入れる腹積もりなら、怪我をした風雅を抱えた東吾の方が雑念は多い。


 間合いは変わらず、東吾の方が睨み合いに焦れた。そんな時、川島の足が横に動く。縦にではなく、横に、まるで猫が獲物を追い詰めるようにして動いた。いや、猫というよりも、蛇か。音もなく、動く。


 横に、少しずつ動いていた足が、ふわりと浮いた。東吾がハッと目を見開いた刹那、川島は驚くべき素早さで間合いを縮めた。目で追えたのは煌めきであった。


 受けきれない、とそれだけを瞬時に覚って後ろに下がった。川島の初太刀はくうを切る。

 ほんの僅かでも体を引くのが遅かったら、袈裟懸けに斬られていた。しかし、ここで怖気を震っていてはならない。抜きつけに放った初太刀が躱され、川島にも僅かながらに動揺があるはずなのだ。勝機はここにある。


 東吾はそう信じて、二の太刀が来る前に川島の小手に下段から斬りつける。それでも、川島はすぐさま体を翻し、東吾の剣をすり抜けた。刀で止めることもしない。ゆとりを持って躱しているわけではなく、刀が通過するのは四、五寸という近さである。それなのに、川島はまるで臆した様子はなかった。戦い慣れている。東吾は今さらながらにそれを感じた。


 刀を切り返し、手数を増やすも、川島はそれをほとんど刀も合わさずに躱す。こんなやり方では、東吾の方が疲れてしまうだけだ。最初から、楽に勝てないのはわかっていたはずだが、思った以上に歯が立たない。


 どうすれば勝てるのだ。速さでは負けている。技も、向こうが上だ。

 この男は場数を踏んでいる。人を斬ったことも数多くあるのだろう。


 そんな男を相手取り、勝機を見出すには真っ向から立ち向かったのではいけない。東吾は一旦距離を置いた。躱してばかりいた川島が、その途端に打って出る。


 この時だけ、東吾は川島の次の手が読めた。川島の剣戟は素早い。その素早さをもってここ一番に突きを繰り出す。肌がそれを感じたのだ。東吾は川島の渾身の突きをすんでのところで躱した。その流れで振った刀の物打ものうちが川島の脇腹に食い込む。


 嫌な手ごたえだ。今まで、人の肉など斬ったことはない。

 東吾自身、目の前で流れた血が己のものではなく、川島のものであることに驚いた。今の動きは、自分でもどうしたものなのかわからない。ただ必死で、勝たねばと思う気力が、東吾に極限を超えた動きをさせた。


 川島は脇腹を押さえ、その押えた指の間から血が零れる。顔には脂汗が浮いていた。唇が、まさか、と動いたように見えた。傷は臓物にまで達してはいない。死ぬほどの怪我ではないが、動きは格段に鈍った。


「志があって、同志がいるのならば、命は大事だろう」


 肩で息をしながら東吾はそれだけを言った。ほっとした半面、今になって汗が噴き出す。鯉口に添えた左手の指で血振りをしつつ刀を収めた。


 川島はもう、戦えない。他の浪士たちもだ。

 決着はついたと安堵した東吾は甘かったのかもしれない。風雅はまだ剣を収めず、手の甲に筋を立てて剣の柄を握り締めているのだから。


 ただ、風雅が敵意を剥き出しにしたのは、川島ではなく庄兵衛にであった。どうやら気がついたらしく、身を起こしたのだ。風雅は座敷へ履物を履いたまま上がった。血が、畳に点々と落ちる。

 川島も負けたのだということが庄兵衛にもわかったのだろう。カッと目を見開くと喚いた。


「久遠様、久遠様はどうあっても私のお力になってはくださらないのですね」

「――このようなことをして、まだそれを申されるのですか?」


 さすがの東吾も怒りを通り越して呆れ果てた。しかし、庄兵衛はまるで子供に返ったかのようにして畳を叩く。その鈍い音が虚しく聞こえた。

 しかし、すぐに調子を取り戻して取り繕う。


「わかりました。けれど、あなた様はやはり甘い。私はあなた様をここへお連れした後、お屋敷から朝顔の鉢を運び出すようにと指示を出してあります。空の鉢だけ残して屋敷ごと焼いてしまえば、朝顔が運び出されたのもわからないでしょう? そこであなた様によく似たお侍の亡骸を一緒に焼けば丁度良いと思っていたのです」

「な――っ」


 庄兵衛はくつくつと耳障りな声を立てて笑う。その声には狂気が詰まっていた。

 この老爺もまた、真っ当に咲かずに捻じれて、捩れた花になったのだ。見る者がその価値を決めるというのなら、決して美しくはない花だった。


「だからあの時、久遠様のお屋敷の庭を拝見するのはお断りしたのですよ。どうせすべて私のものになるのですから、先に見てしまっては手に入れた時の楽しみが減ってしまうでしょう? 今頃はもう、お屋敷の中はからのはず。あなた様はどうあっても私に従うよりな――」


 そこで風雅が刀を振るった。丸腰の商人に対し、刀を向けるなどとは思いもしなかったのだろうか。

 庄兵衛は呆けていた。風雅が切ったのは、庄兵衛の足である。足の筋を傷つけた。あれでは今後、まともに歩くことはできないだろう。

 ぎゃあっ、と叫び声が耳をつんざく。しかし、風雅は嫌悪感を隠しもせずに言い放った。


「おぬしのせいで死んだ者もおる。命が助かっただけでも僥倖だろう」


 風雅なりに許せぬという線を越えた者には手厳しいことをする。けれど、憐れだとは言えない。それだけのことをこの男はしたと思う。


 ただ、そんなことを今の東吾が気にしていられなかった。

 屋敷の中のものを運び出すように言いつけてあったと。

 丹精込めて育てた朝顔たちがどうでもいいとは言わない。けれど、大事なはずの朝顔さえくれてやってもいいと思った。


 家には清江がいる。出ていっていないのならば、いるはずだ。

 東吾に暇を出されても、最後に挨拶ひとつしないで出ていく娘ではない。本当はそれを誰よりもよくわかっている。だから、きっとまだ家にいる。


 ゾッと、体中の血が凍るようだった。この時、息さえしていたのかわからない。

 清江の気性なら、東吾の朝顔を盗もうとする相手を見過ごせないのではないだろうか。勝てぬ相手に食ってかかったりはしていないだろうか。

 もし、清江に何かあったら――。


「東吾」


 己のせいだ。

 清江に何かあったら、それは間違いなく東吾のせいだ。

 もっと早くに手を放してしまわなかったから。その機会はもっと、ずっと前にあったはずなのだ。それを――。


「東吾っ」


 風雅の声に東吾は我に返った。心の臓が、ドッ、ドッ、と生々しく騒ぐ。

 そんな東吾を、風雅は慈しむような、憐れむような目を向けた。


「ここへ来る前に、実は一度おぬしの家を訪ねたのだ。会いたくないと言われたが、やはり狙われているのを知っていて放ってもおけぬからな。その時、おぬしはすでに出かけていたのだが、あの清江殿という女中と少し話した。おぬしは手折った朝顔の墓を作るほどに優しいのだと言っておったぞ」


 清江はそれを、どんな顔をして風雅に語ったのだろう。それがひどく気になった。風雅の微笑がそれを物語っているように思われたのだ。

 しかし、その柔らかな表情がすぐに曇る。


「すまん、ここへ来るのに身の危険を覚悟していたのでな、おぬしの朝顔にを隠してきた。だから、朝顔が奪われると二重の意味でいけない」


 風雅は何を拾ったのだろう。

 川島が脂汗を浮かべながら呻いた。


「そんなところに――っ」

「今の私は足手まといにしかならぬが、ここの後始末をしておこう。おぬしは急いで戻れ。天狗の落し物は、とある文書だ。身の危険を感じたならばそれを盾にせよ」


 風雅が拾った文書。

 そこには何が書かれているのだろう。今はそれを突き詰めて考えている場合ではないが。

 一連の事件では人死にも出ている。庄兵衛や川島たちを捕えねばならない。番屋へ人を呼びに行くというのだろう。


「すまぬ」


 短く詫び、東吾は廊下に向けて急いだ。けれど、一度だけ振り返ると、風雅に向けて声を張った。


「兄上、また改めて俺の屋敷へ来てくれっ」


 会いたくないと言った、その口で会いに来てくれと言うのだから、世話はない。それでも、風雅は表情を和らげてうなずいてくれた。


 風雅のことは心配要らない。何かあればわかる。東吾と風雅は繋がっているのだから。

 今は清江のことだけを考えて急がねばならない。

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