第26話

 この小料理屋は、あの川原からそう離れていない。駕籠に揺られていた感覚からしてそのはずだ。


 板場は暗く、女中も見当たらない。商っている痕跡はなく、小料理屋の場だけを借りたのだろう。騒いでも誰も駆けつけてこないわけだ。


 外へ出ると、六つ(午後六時頃)を知らせる鐘の音が聞こえた。その音を夕暉せっきが彩る。日の入りで東吾も方角を知ることができた。

 それがなくとも、辺りを見回すと不忍しのばずのいけが見え、大体の位置を知ることができた。


 この時分にはもう、道を行く人々もまばらだ。そんな中をなりふり構わずに走る男は滑稽であっただろう。

 それでも、東吾は必死だった。

 力の限りを出しきって戦ったはずなのに、今も全力で駆けた。


 朝顔が盗られたとして、屋敷に火がつけられたとして、それは悔しいし、悲しい。

 文書とやらも重要なのだろう。


 けれど、清江は。

 清江だけは、仕方がなかったと割りきるわけにはいかないのだ。

 東吾の留守に不逞浪士が屋敷に上がり込んで、そこで怯えて逃げ出すような女子ならこんなにも心配はしないのに。


 ――己には独りが合っている。清江には他所で別の仕合せを見つけてもらえばいい。

 そんなふうに考えていられたのは、清江が東吾から離れても仕合せになれると思ったからだ。


 しかし、本当のところはわからない。そんなものは臆病な東吾が勝手に思い込もうとしているだけの話ではないのか。

 もし、清江に暇を出して東吾のもとを去れば、清江がどこかで惨たらしい死に目に遭ったとしても、東吾は知らずじまいになる。それを東吾は気づかぬように目を伏せていたのだ。


 別れれば、あとは仕合せに生きてくれると思い込もうとした。

 そばにいてほしい、いてほしくない、どちらの気持ちも同じほどにあった。己の手に負えぬ心が恐ろしくて、つい背を向けてしまっただけなのだ。


 清江なしに生きられない自分になってしまったことを認めるのが嫌で、平気だと思いたかった。だから暇を出した。その浅はかさを天が嘲笑い、試すようなことをする。


 不安で、恐ろしくて、滝のような汗を流しながら走るしかなかった。



 朱から藍へ、空の色が変わってゆく。

 不思議と暗いとも思わなかった。必死すぎたのか、目が慣れていたのか。

 たまに道を通りかかる人たちが、東吾の剣幕に驚いていたかもしれない。けれど、東吾はそれを気にするゆとりもなく駆け抜ける。


 家を出てから、そう時が経ったわけでもないのに、長らく帰っていなかったような気分で東吾はようやくたどり着いた屋敷の木戸を見遣った。

 その手前には大八車が何度か行き来したような車輪の跡が残されている。朝顔の鉢は土が詰まっているので重たい。ひとつふたつならばまだしも、多くは運べない。そのために大八車を手配しておいたのだろう。

 けれど、今はその痕跡を追う気にもなれなかった。文書のこともこの際いい。


「清江っ」


 開け放たれていた玄関口で力いっぱい叫んだ。東吾は履物を脱ぐこともせず、土足のまま上がり框に駆け上がる。それというのも、奥から物音がしたせいだ。

 悲鳴は上がらなかった。清江が逃げていてくれることを切に祈った。


 障子は開いていて、座敷は見通せる。奥には行灯あんどんの灯りがあった。

 東吾は火に入る虫のようにしてその灯りを目がけた。

 この時、あまりに周りが見えていなかった。物音がしたのだから無人ではないことをわかっていたはずなのに、急ぎすぎていた。


 東吾の足元へ向けて刀が畳に沿うほど低く繰り出される。相手の顔を見るよりも先に、東吾はとっさに膝を折って、鞘の先を畳に突き立てて刀を止めた。間髪を容れず、刀の鯉口を切り、柄頭で相手の顎を打った。強かに入った手ごたえがある。顎が砕けたかもしれない。


 舌も噛んだのか、男は口から血を零して畳の上に転がった。衝撃に気を失ったようだ。この男も庄兵衛に雇われた天狗党だろう。

 倒れた拍子に男は灯りを倒した。火が和紙を突き破って燃え、部屋の中がパァッと明るく照らし出される。その時、部屋の隅で呻く声が聞こえた。


「清江殿っ」


 両手足を縛られ、猿轡さるぐつわを噛まされた清江が部屋の隅に転がされていたのだ。清江は燃え広がる火に両目を見開き、体を硬直させている。まさか、清江のことも屋敷ごと一緒に焼くつもりだったのかと思うと、どうあっても許せない。


 しかし、清江は無事だった。そのことに体の芯から安堵した。

 けれど、火の手が畳にも燃え移ろうかとしていた。東吾はとっさに清江に駆け寄ると、縛めを解くよりも先に清江の体を抱き上げ、屋敷の外へ運んだ。門を出てすぐに清江の手足の縄を刀で切ると、清江は自ら猿轡を乱暴に引き下ろした。


「東吾様、申し訳ございません。わたし――っ」


 息をする間も惜しむようにして言うと、瞬く間に涙が溢れて、清江の目から零れ落ちてゆく。この時、抑えきれないほどの衝動で清江のことを抱き締めていた。ただ、それはほんの僅かな時である。


 清江も驚いて感情が擦りきれたのか、呆然としている。東吾は清江に向け、素早く言った。


「清江殿、話は後だ。とにかく人を呼んできてくれ。それでもまだ安全とは言えぬ。清江殿はそのまま安全なところで誰かと一緒にいて、一人にはならぬように」

「は、はいっ」


 我に返った清江は大きくうなずくと、東吾に背を向けて駆け出す。ただ、あんな目に遭った後だから、体が思うように動かないのか、足取りはたどたどしかった。


 東吾はすぐさま屋敷に戻る。まずは火を消さねばならない。

 井戸から汲んだばかりの冷たい水は朝顔にはよくないので、いつも庭先にはぬるい汲み置きの水が置いてあるのだ。


 庭に足を踏み入れると、荒らされた庭に目を向けないわけにはいかなかった。いくつかの鉢は倒され、目ぼしいものを物色して持ち去ったようだ。

 丹精込めて育てた朝顔たちだけに胸が痛むけれど、感傷に浸るのは後だ。汲み置きの水はそのまま放置されていた。東吾はその水の入った盥を持ち上げると、縁側を跨いで部屋の中へ思いきりぶちまけた。ジュゥッと音がして火は消えたものの、焦げ臭さとひどい煙とが立ち上った。


 念のためにもう一度水を汲み直し、重ねて水をかける。ゴホッと煙で一度むせた。部屋の中も灯りを失って薄暗い。畳も水浸しでひどい有様だ。


 それでも、これで一段落かと思うとほっとしたのだ。畳の上に膝を突くと、そのまま座り込んだ。そうしたら、何故だか顔が笑っていたような気がした。


 朝顔は盗られ、屋敷は荒らされ、こんなにもひどい有り様なのに、落胆が薄い。それは清江が無事でいてくれたからだ。それが何にも勝って嬉しい。

 風雅が隠した文書は朝顔に紛れて盗まれてしまったが、清江より大事なものなどない。


「旦那っ、大丈夫ですかいっ」


 清江が呼んできてくれたのは、初老の御用聞きの親分だった。若い下っ引きを一人連れてやってきたのだが、よく見るとその後ろには清江がいる。安全なところにと言ったのに戻ってきたのは、気になって仕方がなかったからだろう。下っ引きが持つ提灯の灯りに照らされた清江は、ひどく不安げである。


 東吾は疲れた体に鞭打って、なんとか立ち上がった。そうして、御用聞きに、屋敷に盗人が入り、高直こうじきな変化朝顔の鉢を盗んでいったことを告げた。


「そこで転がっているそいつが、その一味ってわけで? わかりやした。ちゃあんと吐かせて盗まれたものは取り返してみせやす」

「ああ、ありがたい。また明日にでも改めて番屋へ参ろう」


 御用聞きたちは転がっている浪士を二人がかりで担ぎ、引っ張っていった。すると、玄関先で清江はへたり込んだ。ここへ来て気が緩んだのだろう。

 清江は座り込んだまま、口元を押さえて震えながら涙を流していた。その様子を見ると心が痛い。


「清江殿、これでもう大丈夫だ。俺の朝顔を狙っている男がいて、しばらく足止めを食っていた。すぐに戻れず、恐ろしい思いをさせてすまなかった」


 東吾も三和土の上に下り、清江の隣に膝を突く。すると、清江は泣きながらかぶりを振った。


「申し訳ございません、わたしが――」


 朝顔が運び出されるのを止められなかったと、そのことに責を感じて泣くのか。それは清江のせいではない。


「清江殿が無事ならば、他のことはどうでもよいのだ」


 それが今の東吾の本心だ。けれど、清江はそれを慰めと受け取ったのだろうか。涙は止まらなかった。

 暇を出されるところだったのだ。清江は東吾がどういう思いで暇を出すと決めたのかを知らない。だから、そんなふうに言われても慰めにしか聞こえなかったのだろう。

 だから、東吾は言葉を重ねるしかなかった。


「――まず、言わねばならぬことがある。清江殿が家に戻ることで俺への恩返しになると申したが、それを取り下げさせてもらえぬだろうか」


 途端に、清江はハッとして東吾を見上げた。けれど、その目の奥には怯えがあった。

 散々傷つけてしまったからか。期待させておいて突き放したから、もう東吾の言うことは信じられぬのだろうか。

 無言の清江に、東吾は苦々しい思いで言う。


「急にあんなことを告げて、清江殿は嫌な思いもしただろう。俺は今までも一人だったのだから、一人に戻っても寂しさにはすぐ慣れると思った。清江殿は、畜生腹のこんな男のもとにいるよりも、もっと別の仕合せがあるはずだと。だが――」


 武士に二言はあってはならない。けれど、己は今、武士とはいえない。二言も許してほしいなどと考えるのは都合がよすぎるだろうか。


 清江の手を取った。すると、清江はびくりと体を強張らせる。

 好かれているなどとは気のせいではないかと思うほどには、清江は怯えていた。男からの好意を受け止めたことがないせいで、どう応えればいいのか戸惑っているせいかといえば、それも違う気がした。本当に、恐怖を感じているように見えた。


 本音を言うなら、こうした顔をされるとは思っていなかった。少しくらいは喜んでくれるのではないかと己惚れていた。だから、気持ちは焦るばかりだ。

 どうすればいいのだろうか。どうすれば、笑ってくれるのだろう――。


 手探りで、答えはない。

 東吾も、心のうちをさらけ出すことに慣れていない。それが、初めて人に気持ちを伝えたいと思った。清江が必要だと感じた心を知ってほしいと。


「清江殿が嫌でなければ、俺のところにいてくれ。ずっとだ。それが恩義であってもなんでも、いてほしい」


 言葉だけが空回る。それが自分でもわかった。

 柔らかな手を握り潰してしまいそうになる。それを抑えるだけの理性は、かろうじてあった。清江は東吾の手を握り返さず、指も動かさない。


「わ、わたしがいては、東吾様にご迷惑をおかけしてしまいます」


 上ずった声でそんなことを言われた。

 それは、笹乃屋文左衛門との取引のことか。それらを迷惑だとは思わない。清江は何も悪くない。


「清江殿が俺に迷惑をかけたことなどない」


 強く言って清江の手を引くと、清江はよろめきながらも、東吾の胸を押して拒むような仕草をした。見ると、清江はまた泣いていた。その涙に東吾の頭がサッと冷えた。


 想いを伝えたかった。けれど、それは東吾の一方的な気持ちであり、それを受け止める清江を本当の意味では思い遣れてはなかったのかもしれない。

 ひどく困らせている。泣き顔からそれを知った。


 清江が東吾に向けた好意は恩人に対するものでしかなく、男としては見ていなかったというのか。そんな気がしてきた。しかしそれは、清江のせいではない。

 ここまで悲しそうな顔をされては、これ以上何も言えない。


「無理なことを申した。すまん――」


 そうして、東吾は清江の手を放した。こんなにも悲しく、虚しいのは、強く求めたからだ。

 いつもなら、もっと容易く諦めた。何かに執着したこともない、ぼんやりとした自分だった。それが、清江と出会って、鮮明な色を得て今があるような、そんな気になった。

 だから、急にすべてが薄暗く、光さえ世の中から消えてしまったに等しかった。


 それでも、清江は東吾に恩がある。東吾が強く望めば従ってくれるだろう。ただ、それでは意味がない。悲しいけれど、無理強いをしてまでそばに置いても、互いに苦しいだけだ。


 すると、清江は嗚咽を殺してさらに泣いた。悪かったと、何度も言えなかった。

 清江は強くかぶりを振った。何故、清江の方がそんなにも傷ついた顔をするのだと問いたいほどだ。


「わたしは、東吾様をお慕いしております。だからこそ、いけません」


 それなら、何がいけない。

 沈んだ心が、浮かび上がりもせずに漂う。心の臓がただキリキリと痛い。


何故なにゆえだ? それではわからん」


 本当に、わからない。声が尖った。

 清江は、ヒク、としゃくり上げ、ようやく肩を震わせながら言った。


「わたしは、ひの縁魔えんまなのでございます」


 とっさに、東吾は口を利けなかった。その言葉の意味を咀嚼する。


 飛縁魔――。

 それは、美しい女のあやかしである。そして、丙午ひのえうまの年、月、日、刻に生まれた女をそう呼ぶ。


 火気を好み、気性荒く、男を食い潰して家を失わせ、挙句に早死にさせるとし、世間ではこの生まれを持つ女を家に入れたがらない。

 嫁の貰い手がないと言っていたのはこのことだったのだ。


 だからこそ、妾としてでも囲ってくれる笹乃屋をありがたがった。商人ならば験を担ぎたがる者の方が多いところだ。それでも武家の娘ならいいと思ったのか、妾宅で囲うのは家に上げるのとは違うというつもりでいたのか。


 それほどまでに、この生まれの女は生きにくい。そんなものは迷信だと、皆、頭の奥底ではわかっている。それでも、得体の知れない何かが恐ろしいのだ。


 しかし、その生まれは清江のせいではない。むしろ己のせいではないところで苦しみ、もがいている。それはあまりに惨いことだ。

 東吾自身も同じだから、苦しみは手に取るようにわかる。それならば、やはりそんな清江を守らねばならぬと思う。


「多くは望まず、ただお世話をさせて頂くだけなら、と甘い考えを持っていたわたしが悪いのです。さっきも、火が、広がって――。やはり、わたしは誰かのそばにいてはならぬ身なのだと痛感致しました。東吾様にもしものことがあってはなりません。だから、わたしはお慕いしているお方のおそばになど、いてはならぬのでございます」


 清江もまた、東吾と同じ、真っ当に、ごく平凡に咲けなかった花なのだ。好んでそうなったわけではなくとも、珍花として、捩れてしまった。


 けれど、その花が美しくないわけではない。清江は、少なくとも東吾にとっては何よりも大事な花である。己の生まれを嘆いていた東吾も、風雅と会い、関わり、その思いを少しばかり改めたのだ。清江もまた、生まれを嘆いて生きていくことがないよう、東吾が花に水をやるようにして慈しんでゆくことはできないだろうか。


「清江殿が丙午の生まれであるとして、それで嫁の貰い手がないのなら、そんな迷信に感謝してもよい」


 他の丙午生まれの女が聞いたら怒るかもしれないが、東吾はそれを口にしたかった。


「そうでなければとっくに縁づいて、俺のところになど来てくれることもなかった。――よく考えてみるといい。俺は跡目を正治郎に譲ったから、潰える家もない。俺の身ひとつしかないのだが、それを清江殿が滅ぼすのなら悔いはない。むしろ、そんな日を迎えてみたいものだ」


 何を言っているのかと、清江は思ったかもしれない。ただ、このまま清江が遠く離れて行ってしまうのなら、それよりは東吾の生涯を閉じるその日までそばにいてくれる方を選びたい。それだけのことなのだが。


「東吾様、そんなことを仰らないでください――」


 涙声が返った。

 人にはそれぞれのきずがある。それも含めて清江なのだから、それでいい。

 気の強いところも、芯の通ったところも、根が真面目で、優しいところも、すべて。


 一度は放した手を、もう一度伸ばす。今度は拒まれることなく、清江は東吾の腕の中に収まった。心を伝えるようにして抱き締める。壊れてしまいそうな柔らかさだった。苦しかったのか、泣いているのか、呻くような小さな声が漏れる。


 東吾の胸の辺りを清江の細い指がギュッと握った。不安はあるだろう。それでも、その不安を忘れさせてあげられたら、と思う。


 清江が泣きながら零した呻き声を、東吾は勝手に承諾と受け取ることにした。清江は顔を上げない。すん、としゃくり上げる。その顔を無理に暴くことはしなかった。


 いつも、何かが欠けていた東吾の中が、驚くほどに満たされた。そばに愛しいと思える女子がいる。それがこんなにも特別なことなのかと――。


「それで? こんな夜分に呼びつけたのは、一体何を見せたかったのだ?」


 呆れた声がすぐ近くでした。よく見ると、灯りを持った克磨が玄関の手前に立っている。

 どこから見ていたのかはわからない。訊ねる勇気もない。


「か、克磨、殿っ」


 狼狽えたのは仕方のないことだろう。清江もまた慌てて東吾の腕をすり抜けた。


「あ、兄上――」

「お前が呼びつけたのではないのか?」


 克磨は苛立った様子で立っている。清江は、赤い顔をしながらぼそぼそと言った。


「気が動転しておりまして、近くにいた方に、その、徒組組屋敷の宮口克磨を急いで呼んでほしいと頼んだ、かも、しれません」


 口喧嘩をしても、清江も克磨を頼りにしている。あの状況で兄に助けを求めたのも無理からぬことである。しかし、今になって到着するのだから気まずい。


「あの、実はだな――」


 東吾は今日の出来事を克磨に語った。風雅のことも庄兵衛のこともすべて。

 しかし、克磨が言った言葉は、それで? だった。

 何度も目にした克磨の仏頂面を、手にした提灯の灯りが下から照らす。


「それで、なんだ? 嫁も妾も、とにかく連れ合いは要らぬとほざいた男が妹に迫っているのをどう受け取れというのだ?」


 身から出た錆というのはこのことだ。

 東吾は恥ずかしいのと、少し前の自分の愚かしさに思わず手の平で顔を覆ってうつむいた。暗がりでなければひどい赤面をさらしていただろう。


「兄上っ」


 清江もまた、恥ずかしそうである。ただ、その声は怒気を孕んではいない。むしろどこか柔らかくすら感じられる。


 声は素直なものだ。清江は少なくとも、東吾の気持ちが嬉しかったと声に滲んでいる。それを克磨も感じたのだろうか。眉がピクリと動いた。

 東吾はその時、顔を上げて立ち上がると、克磨の目をしっかりと見据えて言った。


「もう、あんなことは二度と言わぬ。清江殿をもらい受けたいが、許してもらえるだろうか?」


 都合のいいことを言うなと思っただろうか。克磨は無言のままだった。清江の方がハッと息を呑んでいる。

 駄目だと言われても、もう諦めるつもりはない。どうすれば許してもらえるのかを考えたい。


「――こんな男に大事な妹はやれぬか?」


 もし東吾が清江の兄なら、きっと嫌だろう。そんなことを思いながら頼むのだから、おかしなものだ。

 克磨はというと、深々と嘆息をしただけである。


「こんな男だろうが、どんな男だろうが、そんなことは清江が決める。この妹は、これと決めたら怯むような娘ではないからな。おぬしこそ、手に負えぬと放り出すなよ」

「もちろんだ」


 妹を案じる兄だから、妹が選んだ相手を認めてくれるのだ。克磨は最初からそうであった。東吾の方がつまらぬことにこだわって素直になれなかっただけだ。


「改めて挨拶に行く。何かとすまぬな」


 清江の父も存命なのだ。顔を見せて頼むのが筋だろう。

 それを言うと、克磨は少し笑って背中を向けた。


「ああ、急いで来ることだ。父は首を長くして待っておるからな」


 去っていく克磨を、清江は眺めている。その目がどこか清々しく感じられた。

 清江にとって一番頼れる男は克磨だったはずなのだ。その手を放し、東吾の手を取る。その時が来たことが、清江にとっても感慨深いのかもしれない。

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