第24話

 その時、東吾たちが対峙するこの座敷にまで外の騒音が聞こえた。ただ小料理屋に客人がやってきたというような穏やかなものではない。金物のぶつかり合う音が混ざる。剣戟だ。


 ハッとして振り返ったのは東吾だけではない。戸口近くにいた川島は素早い動きで勢いよく障子を開いた。そして、鯉口を切ったまま後ろに下がる。


 激しい足音を立てながら廊下を駆けてきたのは、風雅である。顔を見る前からそれがわかったのは、右腕がツキリと痛んだからだ。


 ここへ来る前に乱闘を繰り広げてきたのだろうか。息を乱し、この前の柔和さは微塵もなく、痛々しいほどに研ぎ澄まされた気を放っている。


 こうしていると、東吾とは似ていないかもしれない。それを感じ、風雅のこれまでの厳しい鍛錬を知った。生半なまなかな稽古で身につくものではない。

 風雅なりに並々ならぬ努力を続けてきたのだろう。それに比べると、東吾のしてきたことは努力のうちにも入らないような気になった。


 手にした刀も風雅らしいと思えた。反りの浅い、大乱れ、砂流し――。

 その抜身にぼんやりと見入ってしまったのは、風雅に顔を向けられないからかもしれない。


 何故、来たのだ。

 薄情な弟がどんな目に遭おうとも自業自得。知らぬ存ぜぬを通せばよいのではないのか。立場が逆で、連れ去られたのが風雅であったなら、東吾は放っておいたに違いない。


 それなのに、風雅は東吾のもとへやってきた。その理由は、血の繋がりなどという言葉で済ませられるものなのだろうか。

 東吾は風雅に放った幼い言葉の数々が恥ずべきものであったと、今になって合わせる顔もないような気になった。


「こ、これが? これは似ているなんてものでは――っ」


 庄兵衛が声を震わせる。風雅の容姿に驚愕を隠せないようだ。


「どうやってここへ辿り着いた? 後をつけておったのか」


 川島は風雅の気迫を受けつつも問いかける。煩わしそうにかすかに目を細め、風雅は答えた。


「いや、東吾が家に戻らぬというのでな、これは〈天狗〉に攫われたと思うたのだ。家の周りをうろついていた男を締め上げたら、ここだと漏らした」


 風雅は江戸に住んでいたわけではない。この辺りの土地勘がないはずなのだが、それにしては素早く辿り着いた。それは、畜生腹の二人の、切っても切れぬ繋がりが半身を呼び寄せたと――そんなことがあるはずがないとは言いきれなかった。


 風雅の言葉に、川島は目の色を変えた。東吾に向けていたものよりも数段鋭い目を風雅に向けるが、風雅はここへ来る前に覚悟を決めてきたのか、動じなかった。


「天狗と。やはり、おぬし――?」


 牙を剥いた獣が唸るような声であった。その問いかけに、風雅は僅かに含みのある笑みを見せた。


「いや、剣を交えた時に気づいた。そもそも、それで隠しているつもりか? 顔を隠しておっただけではないか。私は水戸の弘道館の者と他流試合をしたことがあるのでな、一刀流の型を取り入れつつ、そればかりではない、あの独特の太刀筋ですぐにわかった」


 水戸、天狗――。

 このふたつから、世情に疎い東吾でさえもうっすらと答えを導き出すことができた。


 〈天狗党〉。

 それは、尊王攘夷派の集まりである。


 もともと、水戸は尊王の色濃い地で、朝廷と幕府が対立すれば、迷わず朝廷を取れというお国柄。

 〈尊王攘夷〉という言葉が初めて世に出たのも、水戸の藩校の〈弘道館記〉という教育方針を記した書物であるとされる。


 それ故に、昨今の風潮に我慢ならなくなったようだ。二年前、江戸城桜田門外で雪の中、大老、井伊いいなおすけが水戸浪士らによって殺害されたという事件はあまりに有名である。さすがの東吾もそれくらいは知っていた。


 そして、今年の一月。井伊直弼暗殺から二年と待たずに、またしても江戸城坂下門外にて安藤あんどう信正のぶまさを誅殺せんとした水戸浪士がおり――しかしこちらはたった六人、仕損じて死んだとされている。


 開国を巡り、さらには天皇の許可を得ずに不平等条約を締結し、それによってできた溝を埋めるがごとく、〈公武合体〉と称し、朝廷と幕府が協力し合うことを提案した安藤信正が、水戸浪士たちのくすぶる火種に油を注いだのである。

 将軍、徳川いえもちのもとへ公女、和宮かずのみやが降嫁することでよりその一体感を狙うが、尊王攘夷派には我慢ならぬことである。


 この時、安藤信正は傷を負いつつも場内に逃げ込み無事であったのだが、背に傷を負った。後ろ傷を受けるなどとは、武士としてあるまじきこと。命が助かりはしたものの、立ち向かわず逃げに徹した怯懦を誹られ、その上、他にも叩けば埃が出てきてしまい、結局のところは罷免された。


 それでも、一度ついた火はそう簡単には消えない。水戸浪士たちは志を掲げ、暗躍している。


 東吾はこの時まで、それは遠い別世界での出来事のように感じていた。己が生きる場所もまた同じであるのだと、火の粉が降りかかることもあるのだと、それを今さらながらに知った。


 しかし何故、天狗党と庄兵衛が関わりを持つことになったのか。その答えはすぐに得られた。

 庄兵衛は、先ほどまでの鷹揚さを忘れ去って座敷の隅に寄って柱に爪を立てていた。


「は、早く仕留めてください。私は、亡骸しか所望していないのですよ。大体、あなたたちは詰めが甘いのです。私を襲った時に、私に手を貸せばもっと稼がせてやると言ったでしょう? こんなことでは大望も果たせないのではないのですか?」


 怯えて余計なことを口走っている。

 川島はそんな庄兵衛を汚いものでも見るような様子で睨み、そうして風雅に顔を向けた。


「――黒船以来、この国は大きく揺れておる。外敵からの脅威に晒されておる今、志を強く持って戦わねばならぬのだ。だからこそ、そのためにはまず金が要る。兵站へいたんもなく理想など語れぬのだ。我らは私腹を肥やすばかりの商人しか襲っておらぬ」

「どのような志があろうとも、人を殺めて金品を奪うような愚劣な真似をした時点で、おぬしたちが正義を語るなど笑止千万だ」


 風雅は強い言葉で糾弾する。しかし、その袖口からは血が流れていた。

 傷が開いている。その痛みを押して、ここへ来た。

 その思いを、東吾は風雅が勝手にしたことだとは言えなかった。


 川島は風雅に腹を立てた様子もなかった。むしろ、興味深そうに眺めている。


「おぬしのような男は小四郎こしろうも気に入るだろう。江戸へ来たのは金策ばかりではなく、人材も欲したがためだ。我らと手を携え戦わぬか?」


 何かを成すにはまず人である。風雅には高い能力があると川島は買っているらしかった。しかし、風雅は唾棄するのみだった。


「おぬしたちは己に酔っておるだけではないか。己のそばに落ちていた思想ものが、都合よく真理であると思うなよ。己で善悪を判じられぬような者が何かを成せるはずもない。その思い上がりに少々灸を据えてくれる」


 案外口が悪い。

 川島は、風雅の言葉にうっすらと青筋を立てていた。誰しも、触れてはならない竜の逆鱗ともいうべき箇所がある。川島にとっても、同志や思想を愚弄されるのは耐えがたいものであるのだろう。


「――そうか。ただ消すのは惜しいが、致し方ない。の在り処を吐かせた後、葬るしかないな」


 腕を認めた風雅を前に大言を吐けるのは、川島がそれに匹敵する力量であるからだ。そうして、風雅が傷を負い、疲れきっていることも隠せてはいない。

 平素であれば五分の戦いをしただろう。けれど、今の風雅では勝てるのかがわからない。


 勝ち目の薄い戦いに、大事な嫡男の身である風雅が身を投じたこと自体が愚かだ。褒められたことではない。


 それも、こんな世捨て人の弟を助けに来たなど、あってはならないことだ。家のためには東吾を見殺しにしたとしても仕方のないことだというのに。


 境遇から目を背けた東吾と、あるべきことをまっすぐに見据えていた風雅。

 やはり、似ていない。


 ただ、遠く離れていて再会を果たしたばかりの東吾を大事に想っていてくれた風雅の心が、今になってようやく東吾にも伝わるのだった。

 遅いと叱られるかもしれない。それでも、東吾はこの兄をようやく認める支度ができた気がした。


 血の繋がりも何も関係ない。正治郎を盾にされて東吾が怒った、あの気持ちこそが今、風雅が感じているものなのだろう。


 川島は風雅に背を向けぬように下がり、奥の障子を後ろ手で開いた。その先は庭である。池はなく、松などの木が脇に植えられている。

 部屋の中では剣を振るうには狭すぎる。外で決着をつけようというのか。


 二人が庭先に下りたその時、東吾の目の端で庄兵衛が動いたのがわかった。非力な老人だ。最早怯えて縮こまっていることしかできないと思って油断していた。


 庄兵衛の手には短筒が握られていた。そんなものを隠し持っていたからこそ、東吾が刀を持っていたところで悠然と相手をすることができたのだ。


 ――大老、井伊直弼が暗殺された時、井伊の乗った駕籠に銃弾が撃ち込まれ、井伊は駕籠の外へ出ることもできなかったという。銃は恐るべき武器で、風雅も背中から撃たれてしまえばなすすべもない。


「兄上っ」


 風雅を兄と。東吾の口から自然に声が飛び出していた。


 東吾はとっさに腰に挿していた扇子を庄兵衛に投げつける。それと、耳の奥底に突き抜けるような轟音とが響いたのは同時だった。風雅は態勢を崩し、膝を突く。東吾は庄兵衛に駆け寄ると、その手から短筒をもぎ取り、その柄で庄兵衛の首を殴りつけた。


 小柄な老人は、ぐぅ、と呻いてくずおれる。

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