第22話
翌朝、清江は飯を炊いてくれた。
ただ、口を利いてくれなかった。それは拗ねているからではない。
赤く、泣き腫らした目をしていた。口を利かないのは、口を開くと感情が抑えきれなくなるからではないだろうか。
そんなふうに悲しむのは、ここでの暮らしが清江にとって嫌ではなかったということだ。泣かせたくせに、そのことが少し嬉しかった。
あとは仕合せに生きていってくれたらと思う。
今度は、もっと淡白な性格をした者を選んだ方がいいだろうか。東吾が落ち込もうと、己の仕事だけをこなして帰るくらいが丁度良い。清江は住み込みで、朝から晩まで顔を合わせたから余計に、互いの心にまで触れてしまったのだ。こういうのはよくない。
もしくは、飯の炊き方も洗濯の仕方もひと通り東吾自身が習って、なんでもこなせるようにしておくのもいいかもしれない。そうしたら、誰も頼らずに一人でいられる。
――どこまでも勝手だ。
己は勝手な男なのだ。
東吾はその日、昼過ぎに家を出た。一応、口入れに合いそうな相手がいないか聞きに行こうと思ったのだ。
――などというのは建前で、本当は清江と家にいるのが苦しかっただけである。
東吾はいつも、どうにもならぬと逃げてしまう。もっともらしい理由をつけては、向き合うことをせず、背を向けて去るのだ。久遠の家も、お前が継げと言われたにもかかわらず、正治郎こそが相応しいといって押しつけた。
何も背負えない。手に負えない。
口入れに行くと言って出てきたくせに、東吾は克磨と勝負をした川原にいた。川のせせらぎに、淀んだ心を洗い流してほしかった。
夏の暑い最中、川に手を浸して、指の間をすり抜けてゆく水を眺める。こうして外にいると、家に戻った時、すでに清江はいないかもしれない。いない方が出て行きやすいだろう。
どれくらい間を置いてから戻ろうか。
そんなことを考えていると、誰かに見られているような気がして、東吾はとっさに立ち上がった。しかし、川原でずっとしゃがんでいる男になど、奇異の目を向けることはあっても用などなかろう。
それにしては妙に食い入るような視線だった。まさかとは思うけれど、風雅だろうか。まだこの辺りをうろついているのだとしたら。
そういえば、風雅のあの傷はなんだったのだろう。
刀傷だという。それならば、誰かに斬られたということだ。
旗本の嫡男が斬られた。それにしては、風雅は一人で東吾のもとを訪れた。騒ぎにはなっていないのだとするなら、風雅は斬られたことをおおやけにはしていないのだ。何か、ややこしい事情があるのか。
そんなことを考え、東吾はかぶりを振った。風雅の事情に深入りするつもりなどないくせに。
これ以上考えるな、と東吾は自らに命じる。
一時(約二時間)以上は川原にいたのではないだろうか。すると、東吾の背に声がかかった。
「おぬしが久遠東吾だな?」
聞き覚えのない声に振り返ると、川原には五人の男がいた。誰一人として見覚えはない。皆、侍の風体をしていた。けれど、月代は伸びていていかにも浪人といった様子である。
一番年嵩の男で三十前後といったところだろうか。眼光鋭く、場数を踏んできたような揺るぎない強さがある。
「――おぬしたちは誰だ?」
少なくとも知り合いではない。東吾は立ち上がって男たちと向き合う。
年嵩の男が、フン、と軽く鼻で笑った。
「誰でもよかろう。我らは頼まれてきただけなのでな」
「誰に何を頼まれたというのだ?」
「それは当人に会えばわかる。ついて参れ」
見ず知らずの相手に来いと言われて軽はずみについていくわけもない。だからこその頭数なのだろう。さすがに東吾も侍を五人も相手にできるような腕ではない。
東吾は呼ばれる心当たりがまったくと言っていいほどになかった。それでも、この様子だと、力尽くでも連れてこいと言われているのだろう。そうまでする理由も見当がつかなかった。
ただわかるのは、大人しくついていくしかないということだけだ。
この時、東吾は色々と考えた。
久遠か、安曇野か、どちらかの家のいざこざだろうか。もしそうだとしても、東吾には何かの役に立つ値打ちなどないというのに。
東吾が逆らう様子を見せず、大人しく近づいてきたので、男たちは嘲りを隠しもしなかった。ただにやにやと
「腕を見せろ」
「っ――」
年嵩の男が急に東吾の右腕をつかんだ。乱暴に袖を捲るが、東吾の腕がなんだというのだろう。
そこでハッとした。右腕は、風雅が怪我をした箇所ではないのか。
「やはり、傷がないな。おぬしが本物だ」
「――どういうことだ?」
胸の奥がざわりと騒いだ。
風雅は何故怪我をしたのだ。そしてあの時、去り際に何を言った――。
天狗に攫われるなと。
男は侮蔑の籠った目を東吾に向けたまま、言った。
「おぬしの顔は知っておった。だからあの日、日が暮れてから屋敷の外にいた
それが東吾ではない以上、風雅でしかありえない。風雅の手傷は、東吾と間違えて襲われたということなのか。
だからこそ、風雅は遠くから東吾を眺めるだけではなく、敢えて顔を合わせて話を聞こうとしたのかもしれない。付け狙われている心当たりはあるのか、困っていることはないか、と。
風雅は、東吾の助けとなるべく目の前に現れたのだ。それを知らない東吾は、そんな風雅をすげなく追い払った。
何故、それならばそうと最初に言わないのだ。あんな曖昧な言い方をするくらいならばはっきりと言えばいいものを。
――いいや、とてもそんなやり取りが成り立つような雰囲気ではなかった。初めて顔を合わせた弟といえば――拒絶、ただそれだけだった。東吾は風雅の言うことなど、どんな内容であれ聞く耳持たなかっただろう。
今、己が窮しているのだとしても、それは自業自得か。
東吾が呆然としていると、後ろにいた年若い男が笑った。
「同じ顔をしていても、こちらは花を愛でてばかりいる腰抜けですからね。連れていくのも楽なものです」
侮られても怒りすらわかない。どうでもいい。
しかし、一体誰がなんのために東吾を呼んでいるのか。それは知りたかった。
ここは大人しくついていくべきなのだろうか。実際に一人くらい倒したところで切り抜けられる気はしない。
「――すぐに帰してもらえるのか?」
一応訊ねてみる。
もしひと晩でも東吾が帰らなかった場合、清江はどうするだろうか。
この時すでに家を出ていたとするなら、そんなことを気にする必要もないのだが、もしかするとまだいるかもしれない。いたとしたら、清江はこんな東吾のことでも気にかけてくれるだろうから、心配はかけたくない。
男は素っ気なく答える。
「さあな。連れてこいとしか言われておらんので知らんよ」
この状況で、すぐに帰れないのなら行かないと断れたものでもないのだが。
仕方がない、とばかりに東吾は嘆息した。清江がすでにいないことを祈ろう。
東吾が諦めたのだと相手にも伝わったらしい。男は仲間たちに目配せをし、東吾を囲んだ。
「大人しくついてくるのなら手荒な真似はせぬが、どうする?」
「――暴れたりはせぬ。その待ち人に会おう」
「賢明だ」
土手を上がると、そこに駕籠が用意されていた。その駕籠へ乗るようにと促される。
駕籠は二人分。年嵩の男だけが駕籠を使い、他は後から徒歩で来るのだろう。そこからは、東吾も外の景色も見えぬままであったのだ。どこの道をどのようにして通り、どこへ向かっているのかも定かではなかった。
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