第21話
東吾が腑抜けていた間、朝顔の手入れもおざなりだった。それでも水だけはやっていたので、すでに植えてあった鉢は難なく育っている。
捩れた葉や、珍妙な形をした蕾を前に、己は何をやっているのかと思わなくはない。それでも、これからもこうして生きてゆくしかないのだ。清江もいなくなれば、本当に東吾に付き合ってくれるのは朝顔だけである。
東吾は朝顔に水をやり、それからまだ明るい夕刻、清江が用意してくれた夕餉を食べ終えると切り出した。
「清江殿」
「はい、なんでしょう?」
清江は部屋の隅でそっと、柔らかく微笑む。押しつけがましさはなく、野に咲く花のようにしてそこにいる。改めて、美しいと思えた。
姿勢を正し、東吾は深く息を吸う。そうして心を落ち着けないといけないほど、このひと言は重たい。
「そろそろ、家に戻ってはどうだろうか?」
それを言った途端、清江は、えっ、と小さく声を漏らした。笑みは消え、顔にはなんの表情も浮かばない。
それでも、東吾は続けた。もう、後には引けない。
「いてもらっても構わぬと思うておった。けれど、やはりそれではきりがない。清江殿が抱えていた事情も今では解決している。そろそろ、真剣に先のことを考えるべきではないのかな?」
やや、口調が早まる。それが緊張からであると悟られたくはない。
なんとかしていつも通り言えるようにと気をつけた。
「兄が何か申したのですか?」
清江がそんなことを訊ねてくる。ひどく傷ついて見えた。
言われたには言われたが、それと今回のこととはまた別なのだ。
「いや。これは俺の考えだ」
「先のことというのは、どういうことでしょう?」
清江の声も次第に硬くなる。それに答えるのも苦しくなった。
「清江殿もいずれどこかへ嫁ぐだろう? 今度こそしっかりと相応しい相手のところにだな。克磨殿も次こそはいい家を見つけてくれるのではないか? 舟を頼ってみてもいいかもしれぬな」
はぁ、と清江がついたため息の音が部屋の中で大きく聞こえた。それ以上に騒がしいのは、己の心の臓であったけれど。
冷や汗がじっとりと、膝で握る手の平に滲んだ。
清江は静かにかぶりを振る。
「わたしはどこにも嫁ぎません。貰い手などありませんので。ですから、もし、その、東吾様とこの屋敷にいることであらぬ誤解を招く、などというお気遣いからでしたら、それは無用に願います」
貰い手がないと、そんなことがあるはずもない。現に金を積んでまで欲した男もいたではないか。清江は己を
「そんなことはない。清江殿ならば、いくらでもよいところに縁づくだろう」
慰めなどではない。本当にそう思うからこそ口にした。けれど、清江は嬉しくなかったようだ。
きつく唇を結び、まるで涙を堪えているようだった。
「そうした夢は見ておりません。いいのです。そんなことよりも、ここで東吾様に受けたご恩をお返ししたく存じます」
三つ指突いて、深々と頭を下げた。東吾が声をかけるまで顔を上げるつもりはないのかもしれない。その姿が憐れで、優しい言葉をかけてやりたくなる。
しかし、それが本当に優しさからなのかが東吾自身にもわからない。己が苦しさから抜け出すために、そうしたいだけかもしれなかった。
優しくしたいから、優しくする。その優しさが相手にどんな効果を持つものなのか、そこまで考えてのことではない。
今、それを考えるとしたら、優しい言葉をかけることが、清江のためなのか己のためなのかがわからない。
克磨が言うように、東吾の優しさは半端なのだから。
「清江殿は、俺に恩があると申してくれたな?」
そう声をかけると、清江はハッとして顔を上げた。潤んだ目が東吾に向いた。その目が何を望んでいるのかわかっていても、東吾はそれとは真逆のことを言う。
「では、家に戻るように。それで俺への恩を返したことになると思うてくれたらよい」
そんな意味で言ったのではない、と清江は思っただろう。それでも、こんな言い方をされては何も返せないようだ。やっと絞り出した声は震えていた。
「それでも、身の回りのお世話をする者がいないのではご不自由をなさいます。代わりが見つかるまでは、せめて――」
それさえ、東吾は突っぱねた。
「それは清江殿が気にせずともよいことだ。俺の勝手で申すことだから、清江殿は後のことなど気にしてくれるな」
――これでいいのだろうか。
ここまで言えば、もういいだろうか。
体中が軋むほどに痛い。
心というのは、体の一部のくせをして、時にこんなにも体を痛めつける。
けれど、今後、こんなにも心が痛むことはないと思いたかった。
清江は、ゆらりと、上体を起こした。顔は落ち着いて見えた。諦めたのだろう。
東吾のことを恩人だと思っているとしても、家に帰ることが恩返しだと東吾に言われるのなら、逆らえたものではないのだ。
ボソボソ、と何かをつぶやいた。よく聞き取れなかったけれど、わかりました、という旨のことを言ったように思えた。
もう一度深々と頭を下げ、そうして部屋を出ていった。
膳を下げなかったのは、膳のことなど吹き飛んでしまったからだろう。それも仕方がない。
清江が去るのは、明日の朝だろうか。それとも、昼だろうか。明後日かもしれない。
わからないけれど、別れはそう遠くないうちに訪れる。いつか、どこかでばったりと出くわした時、挨拶くらいは交わしても許されるだろうか。
そんな日は、できれば来ないといい。
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