第20話
それでも、東吾が畜生腹の生まれであることは変わらない。
真っ当に咲けなかった、歪んだ朝顔たちと同じ、東吾も他と同じくなれなかった変わり種なのだ。
兄はそんなことを気にせず、まっすぐに咲いた。歪んだのは、東吾だけなのか。
捩れた草葉を押さえ込み、ごく平凡な花であるふりをすればよかったというのか。
その苦しさに耐えきれなかった。世の枠組みの外へ望んで出たのは、東吾の方なのだ。
歪んだ自分だと思うから、人と深い付き合いはできない。誰かと一生連れ添うなど、土台無理なことだ。
畜生腹の親からは、やはりまた同じような双児が生まれることがままあるという。東吾の子もまた、そうかもしれない。それでも、己が不要とされたのとは違い、どちらも慈しんでやればいいのだ。それができるのか不安で、先が見えないのは、生まれではなく東吾の度量のせいか。
だから、連れ合いは作らない方がいい。
少なからず心が動く、そんな相手ならば尚さらに、己の因果に付き合わせたいとは思わない。それはどうしても嫌なのだ。
では、子を成さなければいいのかといえば、女子にそんなことを望むのは勝手だ。我が子を望まない男など、どれほどの値打ちがあるというのか。
清江は、料理も裁縫も、畑仕事もまめにこなす。きっぱりとしたところもあるが、心根が優しく、芯が強い。いい母親になる。それが似合うと心から思える。だから、妾など似合わぬし、相応しい男のところへ嫁いだ方がいい。
――狂った朝顔は、種を結ばない。
東吾はそれと同じなのだ。
だから、こうしてずっとここで朝顔とだけ向き合っていればいい。呪いのようにして。
それが似合いなのだ。その程度の男でしかないのだから。
次から次へと、鬱々とした感情が込み上げてくる。
やはり、清江のことは早めに家に帰そう。克磨がまた来てくれないだろうか。来ないのならば、舟に会いに行かねばならぬか。
しかし、今の東吾は床から抜け出すのも嫌だった。何も食べたくない。動きたくない。
いろんなことが嫌だった。
まったく起きる気配のない東吾のことを心配したらしく、清江が障子越しに声をかけてきた。
「東吾様、朝餉の支度が整いましたが、どうなさいますか?」
さっき、同じことを訊かれた。ただ、寝ているふりをしてやり過ごした。
本当に気分が悪い。吐き気がする。
それは、風雅のせいだ。あんな、同じ顔を見せるから。認めたくないことを突きつけるから。
「東吾様?」
伏せたままのまぶたの裏に、肌の奥底に、清江の涼やかな声が沁みる。この声も聞き納めかと、そんなことを思いながら床にいた。すると、清江はさらに言った。
「失礼致します」
そして、障子を静かに開いた。ススス、と畳の上を滑るように歩いてくる。それが寝転んでいる東吾には目で見ずとも感じられた。清江は、蚊帳のすぐ外まで来ると、そこから改めて呼びかけた。
「東吾様、どこか具合がお悪いのでしょうか?」
それでも、答えなかった。どうしても今、口を開きたくない。このまま消えてなくなりたいような、そんな気分なのだ。
清江は諦めて去るかに思えた。立ち上がった気配がある。
けれど、立ち上がり、蚊帳を潜ってきた。蚊帳の中に入ると、東吾の枕元に膝を突き、眠ったふりをする東吾の額にそっと触れた。熱があるのかと思ったようだ。そんなものはないだろう。
清江はしばらく、東吾の額に手の平を当てたまま考え込んでいるようだった。こうなると、起きづらい。
何故か、幼い子にするようにしてそのまま頭を撫でられた。そこに清江が込めた意味は一体何なのか。
「東吾様、わたしにできることがございましたら、なんなりとお申しつけください」
そっと、ささやくように言った。それは東吾に向けたようでいて、独り言のような響きであった。
それは優しい、真綿のような柔らかさで、そんなものに触れたのはいつ以来なのかもわからない。
清江はやっと部屋を出ていった。東吾はそれからまぶたを開く。蚊帳越しの天井が見えるだけだった。
遅めの昼下がりに蝸牛のようにしてのっそりと床から這い出てきた東吾を、まるで待ち受けていたかのようにして正治郎が訪ねてきた。久々だけれど、何故この時にとも思う。それが偶然ではないことがまた東吾を苛つかせた。
「兄上、兄上の兄上はこちらにお見えになりましたか?」
座敷に上がるなり、正治郎はそんなことを訊ねてきた。兄上兄上とうるさい。東吾がぼんやりしていると、正治郎は眉を下げた。
「安曇野の兄上にございます。兄上にそっくりの」
風雅は、ここへ来る前に久遠の屋敷を訪れたらしい。そうでなければ、東吾がこんなところにいることなど突き止められたはずもない。久遠の屋敷で、東吾の居場所を訊いたのだ。
正治郎も風雅に会ったのかと思うと、さらに嫌な気分になった。だから、話題を変えたくなった。
「このところまったく顔を見せなかったのに、珍しいな。正治郎も忙しい身だろうに、無理をして来ずとも己のことに励んでおればよいのだ」
久々に正治郎の顔を見れて嬉しかった。それは本当だが、今日は東吾の方がいけない。喜びも何もかも、捻じれてしまっている。
上手くは笑えなかったのだろう。正治郎は寂しそうに東吾を見た。
いつもならこんなことは言わなかった。この間のやり取りが響いているのかと正治郎が気に病むと思うのに、気遣うゆとりがない。
「ここへ来られないほど忙しいというわけではありませぬ。けれど、またそれがしが騒ぎ立てては兄上が疲れてしまうかと思い、控えておりました」
控えて、遠のいて、それでいいと思っている。
そのために家を出たのだ。いつまでも正治郎が前を向けない理由にはなりたくない。
正治郎は正面を向くでもなく、やや視線を下げた。
「安曇野の兄上が、兄上を訪ねてこられました。あのお顔を見ては、疑いようもございませぬ。それで、兄上のお住まいをお教えしたのですが――」
正治郎も久遠の父母も、誰も悪いわけではない。余計なことをするなと怒る方がおかしい。そう思って何も言わずに堪えた。
それでも正治郎は難しい顔をして唸った。
「安曇野の兄上は、兄上のことをとても心配されておられました」
嬉しくはない。関わりたくもないのだ。
それが正治郎にはわからない。東吾は下腹にグッと力を込めた。
「今の俺は、安曇野とも久遠の家とも関わりは薄く、野に還ったようなものだ。気にするだけ意味のない者だからな」
すると、正治郎は憮然とした。東吾のこうした姿勢が、憂いなくまっすぐに育った正治郎にはもどかしいのだ。
少しばかり表情を硬くし、そして膝をやや前に進めて言った。
「安曇野の兄上は、兄上に会いたいけれど、会ってくれるだろうかと申されておりました」
東吾が会いたがっていないことを、風雅は薄々感じ取っていたのだ。
それならば、何故顔を出したのか。屋敷を覗いて、それで満足して去ればよいものを、声をかけたりするから、東吾もひどいことを言うはめになったのに。
血を分けた弟だから、顔を合わせればわかり合えると思ったか。
そうだとするのなら、傲慢だ。風雅のことなど、東吾は気にかけたくもない。
東吾は笑った。それは、少しのあたたかみもない、上辺だけのものであった。
「安曇野の兄はご立派な方だった。会ってみて、不出来な弟でがっかりさせてしまったかもしれぬな」
「そんなこと――」
正治郎から勢いが抜けてゆく。
冷淡な義兄に失望しただろうか。けれど、東吾はこの程度の者なのだ。正治郎が過度な期待をするだけで、本当の東吾はちっぽけな男だ。
「一度会ってみたかったと申された。それで、一度会ってみて満足したのではないか。そのまま帰られたぞ」
淡々と答える。
正治郎は、それでも何か言いたげであった。しかし、何を言っても義兄には響かないことが、漠然とながらに伝わったのではないだろうか。肩から力が抜け、膝を滑った手がだらりと畳の上に落ちる。
「兄上」
「なんだ?」
軽く首を傾げると、そんな東吾を正治郎はじっと、道端の子犬のようにして見上げた。
「兄上はそれがしの兄上でございます」
たったこれだけのことを言うのに、正治郎はどんな思いだったのだろう。
自分のことばかりに手一杯で、少しも余裕がない東吾は、これを言われた時にとっさに何も返せなかった。
「いえ、おかしなことを申しました。では、これにて失礼致します」
そう言って立ち上がり、足音を立てながら去っていった。
本当の血の繋がりのない兄弟だからこそ、東吾とああもよく似た顔を持つ風雅を見て寂しさを覚えたのだろうか。
東吾にとっては風雅よりも正治郎の方が大切だ。血の繋がりは、時として疎ましく、呪いにしか思えない。
言いたいことだけを言って去った正治郎に茶を出す隙もなかったのか、清江は部屋の戸口に立ち、そこから東吾の方を覗き込んだ。
「正治郎様はもうお帰りになられたのですね」
いつもなら、もっと居座り、延々と口うるさいことを言ったのに。
少しずつ、何かが日常からずれ始めているような、嫌な気分だった。それらを運んできたのがすべて風雅であり、風雅だけが悪いような気になる。
「ああ、正治郎もあれで忙しい身なのだ」
それだけ言った。清江は部屋の中へ入り、東吾の前に座す。そうして、東吾とまっすぐに向き合う。
「東吾様、お加減はいかがでしょう? 何か召し上がられますか?」
朝から何も食べていない。清江が心配するのも仕方のないことなのだ。
しかし、東吾は苦笑した。
「すまぬな。夕餉だけ軽くでいい」
すると、清江はキュッと眉根を寄せた。
「朝顔も水をやらねば枯れてしまいます。人も、食べなければ体を支えてゆけません」
大袈裟だ。少し食わなかったくらいのことなのに。
それが心配の表れであるのかもしれないけれど。
「ああ、そうだな」
それだけ言って、ごまかした。
この時、東吾は清江にいつ切り出そうかと考えていた。暇を出すからには、ちゃんとした理由を用意しておきたい。何を言えば清江は納得して去るだろうか。
言いたくはない。もう少し引き伸ばせたらとも思う。
けれど、先送りにすればするほど、手を放せなくなってしまうのもわかる。
まだ今なら間に合う、と東吾は信じたかった。
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