第17話

 その日もその次の日も、克磨は訪ねてこなかった。あれで納得したのだろうか。しかし、安心できるような返答はできなかったはずだ。

 よく、わからない。


 ただ、克磨が訪ねてこない代わりに意外な人物が東吾のもとへやってきた。


「これは、熊手屋くまでや殿。ご無沙汰しております」


 熊手屋しょう兵衛べえである。

 庄兵衛は五十絡み、小柄で神経質なところがある。文左衛門とはまた違い、その細やかさで穴を塞ぎ、商いを順風満帆に行ってきたような商人である。庄兵衛もいつ頃からか変化朝顔にのめり込み、それを咲かせる東吾に一目置いてくれていた。


 けれど、この時ばかりは目つきがいつもとは違ったのだ。はて、と考えたが、東吾には思いつかない。

 その理由わけを庄兵衛は口を尖らせながら述べた。


「笹乃屋さんにお聞きしましたよ。久遠様の朝顔は、笹乃屋さんが優先して買うかどうか決めることができるのですって? それは本当なのでございますか? だとしたら、あんまりなお話です」


 文左衛門は、東吾が言い逃れたりしないようにと言いふらしたのだろうか。いや、そういった意味合いではなく、ただ単に自慢げに口に出しただけかもしれない。


 その事情に何の関りもない庄兵衛からしたら面白くないのも仕方がない。一方を立てるともう一方が立たない。すべて丸く収めるほどの技量は東吾にはなかったのだ。


 東吾も、己の朝顔を楽しみにしてくれていた庄兵衛に申し訳ない気持ちになった。

 それでも、清江のことを思うとなかったことにはできない約束だ。


「熊手屋殿には大変申し訳ないことではございます。ですが、こればかりはどうすることもできぬ次第でして――」


 玄関先で膝を突いて座ると、小柄な庄兵衛でも東吾を見下ろす形になった。

 その目が冷たい。


「久遠様は朝顔を育てるというよりも操っているかのような才をお持ちでございます。そんなあなた様を私は高く買っておりましたのに」


 それなのに、文左衛門の子飼いに成り下がるのかと言いたげだ。実際にそう言われても言い返せはしない。


 ただ目で見て楽しむだけならば、その花が誰ものであってもいいはずなのだ。珍しい花だからこそ、手に入れたい。手元に置きたいと思うとまた事情が変わってくる。

 文左衛門も庄兵衛も、眺めるだけでは満足しきれない。手に入れてこそ初めて、その花に意味を見出す。


「あいすみませぬ。熊手屋殿、せっかくここまでいらしてくださったのですから、庭の朝顔でも眺めてゆかれますか?」


 今の東吾にできるもてなしは、それくらいしかない。東吾が知る好事家たちは、東吾の屋敷へ来ることはほとんどなかった。その庭を見るのは抜け駆けのようだと、誰かが言っていたようにも思う。


 東吾としては、見られて困るようなこともない。朝顔の栽培は時の運もあると思っている。だから、同じように施術をしたとしても同じ結果が得られるとは限らない。真似たいのなら真似てくれてもいいのだ。

 しかし、庄兵衛は眉間に皺を刻み、しばし考え込んだ後にぼそりとつぶやいた。


「――いいえ、楽しみが減ってしまいますので、ご遠慮させて頂きます」


 楽しみが減るというのは、育ちきらない鉢を見ただけでどんな花が咲くのかをある程度知っている者だからこそか。

 そう言われてしまえば、東吾も強くは勧められない。


「そうですか――。そういえば、熊手屋殿も播磨屋殿と同じく追剥ぎに遭われたとのことですが、お怪我がなくて何よりでした。もちろん、追剥ぎは許せませんが」


 見たところ、怪我もない。手持ちの金を少々失ったとしても、庄兵衛の店が傾くほどではないのだろう。金を出さず、怪我をさせられてしまうよりは、悔しくとも払ってしまってよかったのかもしれない。


 庄兵衛は、弦が擦れるような声で、ええ、まあ、と曖昧に答えた。もう思い出したくもないに違いない。その話を蒸し返してくれるなと言いたげだ。


 文左衛門の色がついた東吾など、もう値打ちが下がったと思うのか、それ以上しつこくはされなかった。庄兵衛が辞して帰る際、玄関から出た小さな背中を見送っていた東吾は、門の向こうに侍の影を見た。侍とは言っても、風体からして浪人ではあるが。


 やはり、庄兵衛は用心棒を雇い、連れ歩いているようだ。それも無理からぬことだろう。

 しばらく玄関先で座っていると、庄兵衛とのやり取りを気にしていたのか、清江が奥から出てきた。知らぬ客の相手をして、以前の正治郎のように誤解されても東吾を困らせてしまうと思い、先には出なかったのだろう。


「あの、今のお方は――」

「うむ、朝顔の買い手の一人だが、まあ色々とあってな」


 その色々・・に、清江は少なからず関わっている。それがわかるのだろう、心もとなげな顔つきになってしまうのだった。

 そんな顔をさせてしまうのは、東吾の言葉が少ないせいなのかもしれなかった。


「大事ない。清江殿は気にせずともよいのだ」


 気休めにしかならないとしても、清江の顔を見てそれだけ言った。

 しかし、そんな気休めも多少なりとも効力があったのだろうか。清江は困惑気味に、それでもほんの少し微笑んだ。

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