第18話
東吾はその翌日も朝顔のための置き肥を作る。結局のところ、何が起ころうとも、東吾は朝顔を育てることだけは変わりなく行ってゆくのだ。
変化朝顔は真っ当に咲いた朝顔と比べると、育ちが遅い。下手をすると秋になって咲くので、まだまだ肥料は必要だ。
肥料には油粕、魚粕、米糠を練って小さな団子状にし、これを乾燥させて使う。作り置きがなくなったので、また作った。こうしておくと便利なのである。若い男がするにしては地味な仕事だが。
そして、今もいくつかの鉢は蕾をつけていた。これらはまず、咲いたら笹乃屋文左衛門に披露しなければ。
優先して選ばせることが約束だから、約束は違えてはいけない。
「東吾様、夕餉の支度が整いました」
清江が庭先まで呼びに来た。こうした際に、時折は笑顔を見せるようになった。
悲壮感は薄れ、パッと花が咲くように笑う。もともと姿のよい娘であるから、ほんの少し微笑むだけで華やぐ。
何がそうさせるのだろう。ここへ来た頃はほとんど笑うことなどなかった。やはり、心配事が減り、本来の姿でいられるようになったのだろうか。
だとするならいいと思うけれど、それもまた克磨に言わせると中途半端な優しさなのかもしれない。
「ああ、今行く」
手を洗った残り水をザッと撒き、桶を軒下に片づけてから東吾は家内に戻った。その頃には、膳に清江が用意してくれてあった飯がそろっている。豆腐の吸したじ(吸い物)の椀からほのかに湯気が立っていた。
「茄子は庭で採れたものでございます」
漬物のことだ。舟が植えたのだが、それを清江が引き継いで世話をしてくれている。東吾は朝顔以外の育て方を知らない。
「ほぅ、手慣れたものだな。清江殿も家で育てていたのか?」
東吾が膳の前に座ると、清江は湯呑に麦湯を注ぎ、膳に沿えた。
「ええ、母が亡くなってからは私の役目でした」
「その清江殿がおらず、ご家族は難儀しているだろうな」
母がいないとなると、女手が清江の他にないのかもしれない。妹がいたとしても幼いだろう。
しかし、清江はかぶりを振った。
「いいえ、よくできた
「あね、と――」
その意味を考える東吾に、清江はうなずく。
「兄嫁にございます。あの兄には勿体ないくらいの優しい人で」
克磨は妻帯しているらしい。宮口家の大黒柱であるのだし、おかしなことではないのだが、何か意外であるような気もした。年が近いせいだ。
清江もその兄嫁がいるからこそ、家のことは心配せずにいられるのだろう。兄弟は下にもいるというから、そこは気になっているかもしれないけれど。
「そうであったか」
そして、東吾は手を合わせ、清江の作った夕餉を味わう。贅沢なものはないが、丁寧に作られたことがわかる料理だ。今は亡いという母が娘にしっかりと教え込んだが故のものか。
東吾はそれに感謝しつつ食べた。そんな時、清江はいつも東吾が食べ終えるのを部屋の端で待っている。膳を下げてから自分も台所で慎ましやかに食べているようだ。
何気なく、東吾は湯呑に手を伸ばす。麦湯を飲もうと、湯呑を口元へ運んだ刹那、右腕に鋭い痛みが走った。
「っ――」
突然のことに驚き、東吾は湯呑を取り落とした。零れた麦湯は腿にかかり、湯呑は膝に当たって転がる。その間も、右腕はズキズキと痛んだ。左手で、痛む右腕を摩るも、痛みは引かなかった。
「東吾様、どうなさいましたか」
隅にいた清江が慌てて飛んできた。手ぬぐいを押し当て、東吾の着物の零れた麦湯の水気を拭き取ろうとする。
「すまん、手が滑った」
トントン、と軽く手ぬぐいを動かしてから、清江は東吾が右手に違和感を覚えていることに気づいたようだった。顔を上げると、困惑気味に問う。
「右腕をどうかされたのですか?」
「いや、何も」
「それにしては――」
言いかけて、清江はぴたりと動きを止めた。
「まさか、兄との勝負時に?」
清江は急に傷ついたような目をした。もし克磨のせいであったなら、己のせいでもあると感じるのだろう。
それに気づき、東吾はかぶりを振った。
「それは違う。あの時、腕にはかすってすらおらん」
「では、どうされたのでしょう? 少し見せて頂いてもよろしいですか?」
清江は東吾の返答を待たずに手を伸ばした。東吾の右袖を捲り、腕を改める。しかし、そこに目に見える異常は特にない。
「怪我などしておらんよ」
克磨の竹刀は体のどこにも受けていない。筋を痛めるような無理な動きもなかった。
そう、これはあの勝負のせいではない。何故かなどということは、東吾にもわからない。いつもそうなのだ。
時折、こうしたことがある。腕に限ったことではない。けれど、理由は常に知れない。だから、東吾はまたかと思うだけなのだ。
これは一過性のことであり、持続はしない。しばらくすれば消える。
ただ、東吾が慣れていても、清江にとっては初めてのことであった。心配そうに東吾の腕を見つめていたかと思うと、不意に指先で東吾の腕を軽く押した。
「痛みますか?」
「いや――」
痛みはもう和らいできている。しかし、清江は気が気ではなかったようだ。
「しばらくそのままお待ちください」
急いでそう言うと、清江は慌ただしく部屋を出ていった。そうして戻ってきた時には、濡らした手ぬぐいを持っていた。東吾の横にすとん、と腰を下ろし、その濡れた手ぬぐいを東吾の腕に押し当てた。
「少し冷やしてみましょう」
「大事ない。そう気にせずとも――」
言いかけたが、清江があまりにも真剣なのでそれ以上は言えなかった。東吾の腕に手ぬぐいを巻き、その端を押さえながら東吾の腕に両手を添える。
「何かあってはいけませんから」
いつもよりも近くに寄り添う。この近さは、落ち着かない。
落ち着かないくせに、清江の指が肌に触れるのを嫌だとは思わない。むしろ、心地よかった。細い指先から何かが伝わるような、妙な気分になる。
克磨にはああ言った。清江を娶ることは考えないと。
嫌いではない。それでも、いけない。
薄暗く、日が落ちてゆく中、清江はぬるくなった手ぬぐいをまだ押し当てていた。どれくらいそうしていたのか、東吾にもよくわからない。ただ、二人はろくに口を利かなかった。
この時、共にいることを無言で感じていた。
清江の手が、いつからか微かに震えている。うつむいた首筋に目が行った。そこから続く肌を求めたくないかと言えば、それを認めるのが嫌だ。僅かながらにも触れあっているからこそ、いつも以上に気持ちが揺らぐ。
嫌いではない。むしろ、そこにいるだけで日々が彩られる。
心がこの娘に惹かれ始めているとわかっていても、だからこそ、別の仕合せを見つけてほしいのだ。
東吾は右腕にグッと力を込めると、声に感情を込めないようにして言った。
「清江殿、もう十分だ」
そのひと言に清江はハッとした。けれど、顔を上げなかった。暗くなった部屋の中、互いの顔は見えない。
清江は手ぬぐいごと手を引いた。そして、立ち上がった時、小さく、すみません、と零した。すぐに顔を背けたので、やはり顔は見えなかった。そのまま部屋を出て、清江はしばらく戻ってこなかった。
膳を台所まで持っていこうかと思ったが、そういうことをすると余計に困らせてしまうかもしれない。それに、今、清江のところへ行くには、東吾も己の心がどこまで隠せているのか自信がなかった。
清江もまた、嫌いな男にこんなふうに寄り添ったりはしないだろう。淡い、ほのかな気持ちではあるのだろうけれど、少々の好意は覗かせる。それを知りつつも、東吾は応えない。
己はそんな男なのだ。
やはり、あまり長くそばに置いてはいけないのかもしれない。それは互いのためだ。
零した麦湯は、いつの間にか乾いていた。
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