第16話

 昨日の素振りが役に立つというのも皮肉なことではあるのだが、大いに役立つ事態になってしまった。

 予告通りにやってきた克磨は、竹刀を二本携えていた。


「真剣で立ち合えとは言わぬ。だが、手合わせ願おう」


 そう言って、玄関先で東吾に竹刀の柄を向けるのだった。近頃は竹刀稽古を取り入れた直心影流を邪道だ、軟弱だと誹っていた他流派も積極的に竹刀稽古を行っている。


 目をしばたたかせるばかりで柄を握り返さない東吾に、克磨は苛立いらだっていた。


「いや、私は――」


 剣術で雌雄を決するようなことは、今の東吾には相応しくもない。大体、何故剣を交えなくてはならないのかがまずわからない。


 克磨は強い。勝てるかどうかは五分だと感じる。

 ならば、負ける恐れもあるのだが、負けた時には克磨が清江を連れ帰るつもりでいることはわかる。

 そのつもりで克磨は仕掛けてくるのだ。弱い男のもとに妹を置いておくつもりはないのだろう。


 清江はまた、怒りで震えていた。


「兄上、いい加減になさってくださいっ」


 しかし、克磨はそれくらいでは動じない。スッと目を細めただけである。


「これが一番手っ取り早いのだ。剣を合わせれば、言葉で語る以上に人となりが見える」

「それは兄上の理屈でしょう。東吾様がお付き合いされることではございません」


 ぴしゃりと言った。頼もしいことである。

 克磨は顔をしかめると、東吾に向けて吐き捨てた。


「知り合って間もないおぬしの前ではどうだったか知らぬが、うちの愚妹はこうした気性の女子だ。おぬしの手に負えると思うか?」


 ハハ、と東吾は笑ってごまかした。

 何故だろうか、東吾は清江のこうしたきっぱりとした物言いも嫌ではない。男に従順であることが女子の美点のように考える武家に対し、町人の女房たちはもっとのびやかである。どちらがいいということはない。したいように、無理のないのが一番よいと思う。


 ただ、清江はこれを言われた途端に顔を赤くして黙った。その恥じらいが可愛らしくはある。

 克磨はそんな清江の態度に鼻白んだようだった。鼻面に皺を寄せた。


「とにかく、清江には並の男ではいかんのだ。勝負を拒むのなら、このまま連れて帰る」


 兄なりに妹を心配している。それはきっと間違いのないことなのだ。ただし、金の心配が要らぬからと妾に出そうとしたり、何かがずれている気がしないでもない。


 戦わずに済むのならそうしたいが、それでは清江はここにいられない。勝ったとしても克磨がどう出るのかはわからないし、そもそも勝てるかも怪しいけれど、ここは避けて通れないらしい。


「何本勝負だろうか?」


 東吾が問うと、清江はぎょっとした。


「東吾様っ」


 それでも、克磨は逆に落ち着いて答えた。


「一本きりだ。これが真剣ならば二度はないからな」

「場所はどうする?」

「川原でいいだろう」


 川原は砂利が多く足場は悪いが、人目があって野次が飛ぶようなところでは気が散る。妥当なところだと思えた。


「東吾様、兄に付き合うことはございません」


 清江がはらはらとしながら言った。こんなことになって、心底困っているようだ。

 けれど、清江がどう言おうと、一度動き出したものは止まらない。


「おぬしがそうして庇うほど、男の矜持に傷をつけるのだ。勝てぬ戦いだと申しておるようなものではないか」


 残念ながら、そんな矜持を東吾が持ち合わせているわけではない。商人相手にも容易く頭を下げるような男なのだから。

 それでも、清江はキッと兄を睨みつけた。


「東吾様はお強いのです。わたしは兄上があまりに礼を欠いたことばかり申すのを気にしているだけで、東吾様が負けるなどと憂えているわけではございません」

「この兄がどれだけ剣術に打ち込んできたのか、知っておきながらそれを言うか」


 克磨の顔が苦々しく歪む。以前、清江が兄はきっと東吾と手合わせをしたがると言っていたが、事実そうなってしまった。


 もしかすると清江のことがなくとも、克磨と東吾は手合わせをしていたかもしれない。理由をつけては戦っていた。使い手がいれば、どちらの力量が上か、白黒つけたいと考えてしまう。これは剣を使う男のさがであるとも言える。克磨からは東吾にはない熱が感じられた。


 東吾は仕方なく立ち上がり、三和土で履物を履いた。竹刀の柄を握り、受け取ると、克磨がピリリとした気を放つ。清江はもう、口を挟まなかった。


「参ろう」


 無言のまま、克磨に続いた。清江は来なくてもよいと克磨に言われたが、この流れで留守番などできようはずもなかった。

 きっと、何を言ってもついてきた。



 克磨に先導されるまま、東吾は後に続き、清江がさらにその後ろを歩く。途中、何人かとすれ違ったけれど、皆が一様に振り返った。ただならぬものを感じたのだろう。


 東吾は今、この時でさえ、できることなら剣を交えるのは回避したいと願っている。克磨が今さら退くわけもないのだが、勝とうが負けようが、清江には嫌なものだろう。


 どうしたものかと考えていても答えは出ない。川原に辿り着くのはあっという間に感じられた。克磨は土手へ下りかけると、一度振り返って清江に告げた。


「清江、お前はこれより近づくな」


 巻き添えにしてはいけないので、東吾もその言葉に賛同したい。清江もそこは弁えているらしく、立ち止まった。何を言うべきか困りつつ、清江は東吾を見ている。東吾は一度うなずくと、土手を下った。


 小川のせせらぎが耳に優しい。キラキラと光る川面に目をやり、そして東吾はひとつ息をついた。そこで克磨が声を発する。


「一本勝負、立会人はおらぬ――いや、清江が見ておるので、互いに卑怯な真似はできぬな」

「違いない」


 東吾も苦笑した。

 しかし、笑えたのはそこまでだ。張り詰めた気が、克磨からピリ、ピリ、と漂う。それはすでに、妹を案じる兄という穏やかなものではなかった。一廉の剣士が放つ気である。構える前からこれか、と東吾は少し驚いた。


 向き合うと、互いの垂れた剣先が揺れた。先に構えたのはどちらであっただろうか。

 東吾もまた、克磨の気迫に引きずられていた。少し前までは回避できるのならばそうしたいと考えていた。


 けれど、今はどうだ。――目の前の男は強い。

 その男が本気で打ち込んでくる。迷い、気を抜けば打たれるのは必至。

 負けたくないなどという矜持はなくとも、これほど真剣に向き合う相手に手など抜けない。それをしてはならぬという気になった。


 互いに正眼に構えた。

 克磨は北辰一刀流の使い手だろう。正眼に構えつつもどこか癖がある。


 北辰一刀流は実力さえあれば付け届けに左右されることなく昇格する。克磨は才覚次第で重用されることのある御徒なのだから、目録が取れれば大いに役立つだろう。


 先に動いたのは克磨だった。気性をそのまま映したような太刀筋だと思った。力強く、それでいてまっすぐだ。東吾は稽古の組太刀さながらにそれを弾いた。


 しかし、それは克磨の小手調べでしかない。足場の悪い川原だというのに、細かな足さばきで踏み込む。パァン、と竹刀の鳴る音が空高く響いた。


 竹刀でも、手に強い衝撃が伝わる。これが真剣であったら、手が痺れただろう。

 力量が五分だと思ったのは、思い上がりであったかもしれない。


 それとも、拮抗する力量だからこそ差が出るのか。最後の最後に勝負を左右するのは、気力である。東吾はそこで負けている。


 克磨ほどには熱くなれない。いつも世の中を冷めた目で見ている。

 そんな東吾だから、克磨には勝てない。


 しかし、それでは清江はどうするのか。

 東吾が負けても、清江が連れ帰られるだけだ。もしかすると、それでいいのかもしれない。


 そんなことを東吾が僅かにでも考えたことが、克磨には読めたのだろうか。張り詰めた気を発しながらも、唸るように吐き捨てた。


「連れ帰ったら、清江は吉原へやる」


 耳を疑うようなことを言った。

 瞠目する東吾を、克磨は汗を流しながら睨んだ。


 そのために連れ帰ると言うのか。妹を案じているのではないのか。どうあっても金のために妹を売るのか。

 カッと、血が沸き立つ。今まで、あまり感じてきたことのないような怒りが胸のうちに渦巻いた。

 やはり、決して負けてはならない戦いなのだ。


 克磨たちの暮らしが苦しく、そうでもせねば食っていけないのだとしても、だからといって清江を犠牲にするのではあんまりだ。そんな家から清江が逃げ出したのは当然といえる。舟が庇うのも無理はない。

 一気に心が冷えた。そのせいで、気が研ぎ澄まされる。


 東吾は下段に構え、それに応じて克磨が下段に備える動きを見せた刹那、踏み込んだ。裏打、正面、克磨は竹刀を器用に捌き、弾く。そこから素早く、東吾は右足を引き、半身になって克磨の一撃を躱すと、上段から打ち込む。克磨の竹刀はあと少しで追いついた。けれど、あと少しが遅かった。


 畳みかける剣戟は、僅かな速さ、力の差で勝敗が決まるものだ。

 あともう一度仕切り直した場合、勝負の行方は東吾にもわからない。


 けれど今は、東吾の握った竹刀の剣尖が克磨の肩を打った。すんでのところで止めた。打ったとはいえ、そうひどくはない。ぴしりと他愛のない音が鳴っただけだ。


 克磨は負けを認めるのが嫌だっただろう。一度強く歯噛みした。剥き出しの闘争心は、それでもため息ひとつで薄れた。


「勝てぬか」


 悔しそうではなかった。何故か、敗北を予期し、それを確かめたようなつぶやきに思えた。負けたことで清々しささえ滲ませる。そんな克磨の心が、東吾には到底わからない。

 今になって汗がどっと噴き出す。互いの息遣いが乱れたまま、川の水音と混ざる。そんな中で克磨は言った。


「吉原行きなどというのは嘘だ」

「なんだと?」

「そんなことをさせたい兄がいるものか」

「何故、そんな嘘を――」


 と言いかけたところ、克磨が東吾の目をまっすぐに見た。


「おぬしが本気を出さぬからだ」

「手心など加えたつもりはない。そう言われるのは心外だが」


 力量は五分だと、東吾は思っている。加減できるようなゆとりはなかった。

 それでも、克磨はかぶりを振った。


「気迫が足らぬ。身共を斬ってでも清江を欲するくらいの気概は見せるべきだろう」

「いや、それは」


 上手く言えずにいた東吾に、克磨はふと目元を和らげた。それは、初めて会った時、すれ違いざまに二、三言葉を交わした時に見せたものだった。


「まあいい。負けは負けだ。おぬしになら清江を託してもいいかという気にはなった」


 意外なひと言に、東吾はただ目を瞬かせた。

 託すというのは、このまま女中として身の回りの世話をさせるということだけには留まらないような、そんな響きがあったのだ。


「あの様子では、まだ手をつけておらぬのだろう? 跳ねっ返りで、運にも恵まれぬ妹だが、それでよいというのなら、末永く可愛がってやってほしい」


 末永く、と。それは、嫁に送り出すつもりで言っているのだろうか。

 東吾は慌てた。先ほどの試合よりも慌てたかもしれない。


「嫁に迎えろと申されているように聞こえるのだが、それは――」


 嬉しそうには見えなかっただろう。東吾の表情を見た途端、克磨の顔も曇った。


「貧しい御家人の家の娘で、その上、清江はああ・・だからな――。親類縁者に認められず、精々が妾止まりか。まあ、それも仕方のないことだろう。だとしても、大事にしてくれるのならあれも納得する」


 そういうことではない。

 東吾なりに清江には仕合せであってほしいと思っている。だからこそ、東吾ではいけない。もっと相応しい相手がいるはずなのだ。

 東吾は――。


「私は生涯、妻を娶るつもりはないのだ。もちろん、妾を囲うつもりもない。連れ合いは持たぬと決めている。清江殿とそうした間柄になることはないつもりだ」


 ずっと前に、久遠の家を出た時にそれを決めた。

 出物の朝顔と同じ、種を結ばぬひと株のみの生でいいと。

 そこに誰かを巻き込むことは考えたくもない。

 克磨は、唖然とした。かと思うと、見る見るうちに顔色を変えた。


「それでは飼い殺しだ。半端な優しさや憐みでうちの妹に接するのはやめてもらおう。女中が必要ならばいくらでも探してきてやる」


 清江と共にいるのは心地よかった。けれど、清江はまだ先の長い身である。東吾のもとにいることで時を無駄にしてしまうのなら、それも仕方がない。


 ただし、克磨たちはまた笹乃屋文左衛門のような相手を探してきてしまうかもしれないので、そう思うと東吾もどうしていいのかわからなかった。


 まだ己のもとにいてほしいと思った。けれどそれは、男女の仲になるという意味ではない。共にいるのが心地よくはあった。それだけのことなのだ。


 責を負えぬのなら、関わるべきではない。そう考えると、腹の底に重たいものが溜まっていくような苦しさだった。


 娶るつもりがないのなら、思いきって関わらぬことが、もしかすると本当の優しさなのだろうか。それができない東吾は、克磨が言うように半端に接しているに過ぎない。


 克磨は怒りを隠さず、東吾の手から竹刀をもぎ取ると、二本を肩に担いで土手を上っていった。東吾はその背をぼうっと眺めていた。克磨はずっと見守っていた清江に何か声をかけていた。


 声までは聞こえないけれど、何を言っているのかはおおよそ察する。

 兄妹はやはり口論になり、克磨がつかもうとした手を、清江は素早く振り払った。ここで意外だったのは、克磨がそれ以上踏み込まなかったことだ。何か捨て台詞らしきものを発し、清江を残して去った。


 連れて帰らないのは、他の女中を探してきてから改めるとでも言ったのだろうか。

 清江は、そこでようやく土手に佇む東吾を見た。東吾はしばらくここで川の流れを見つめていたいような心境であったけれど、清江が待っているので放ってもおけなかった。


 動作が緩慢になる。清江に何をどう言おうかと考えてしまうせいだ。

 夫婦というのは、単に肉欲を満たすために連れ添うわけではない。互いの生涯に深く関わり、繋ぎ止め、魂にまで食い込むようなものに思える。東吾がつまずけば、共につまずく。そんな道連れは憐れにしか思えない。


 そんな東吾の思いなど、清江にはわからない。兄との口論で気も昂っているのか、もどかしそうに土手を数歩下りた。しかし、女物の着物の身幅では急な坂など踏み留まれない。危ない、と東吾の方が慌てた。

 急いで駆け出し、清江のもとへ急ぐ。


 やはり、清江は上手く下りることができず、よろめいた。東吾はその肩を押さえ、肩を抱きながら土手を上りきる。


「危ないので下りてはいかん」


 段を作ってあるところからなら下りられても、草の生えた急な坂道は滑る。上手く石のあるところに足を引っかけても、女子には難しい。


「す、すみません、つい――」


 清江は白い肌を赤く染めた。東吾はとっさに手を放す。

 克磨の言う半端な優しさで接してはいけないというのなら、今、清江が土手を滑り落ちてしまうとわかっていても手を差し伸べるべきではなかったのか。


 けれど、それでは清江は怪我をした。その生涯に責を持てぬからといって、そこで助けぬのは人としてどうかと思う。助けたことに後悔はない。それと同じだ。


 今まで清江にしてきたことは、それと同じで、助けなければ清江が崖っぷちから転がり落ちた。己にはそれを防ぐためにできることがあった。だから手を差し伸べた。

 そういうことなのだ。


 それとも、半端者の己は人を助けようなどと思わぬ方がよかったのだろうか。

 未だ人として足りないものが多い。どうしても、足りない。

 その欠片を、いつかは補えるだろうか。


「兄の無礼な振る舞いを、重ねてお詫び申し上げます」


 深々と頭を下げた清江に、東吾は昨日、いてくれて構わないと言ったばかりであることを思い出した。

 事実、いてくれて構わない。それでも、清江にとってそれが仕合せに繋がるのかと考えると複雑な心境だった。

 長く居つけば余計に、どこの家にも縁づけないままになりそうに思えた。


「克磨殿はよい兄御だな」


 本当にそう思う。ただ、男兄弟であるから、女とは違うものの考え方をする。財力のある者に囲われるのが当人のためだというのは違う。文左衛門も東吾も、清江にとって相応しい相手ではない。

 清江は苦笑した。


「無骨な兄です。わたしも素直な妹ではございません。喧嘩ばかりですが」


 それでも、血の繋がりは濃い。

 東吾は、正治郎を相手にどこまで兄としていられるものかと思う。何もかもが半端で、己がどうしようもなく愚かに思えた。

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