第15話

 笹乃屋文左衛門との約束は、清江には言わないつもりでいた。舟にも話さなかった。ただ、それくらいで漏れないと思っていた東吾が甘かったのだ。



 舟から話を聞いた翌日。

 清江は、まだ家族に会いに行くと決めてはいなかった。けれど、迷いは手に取るようにわかる。いずれ顔を見せるつもりではあるのだろう。


 二度と会わぬと覚悟して出てきたはずだ。どんな顔をして会うべきなのか、それが躊躇われる。そうした気持ちもわからなくはなかった。


 清江は、許せないという怒りより、何か家族ではなくいつまでも自分を責めているような、そうした様子なのだ。貧しい家族を捨てたことを責めているのか。


 しかし、東吾が家まで付き添っていくのもおかしなことだから、ここは黙って見守るよりない。ただ、その場合、家族と和解すると清江は家に戻るのだろうか。そのまま清江が戻ってこなかったとしても、東吾は多分何も言えない。新たな女中を探すだけだ。


 東吾は、清江がここに戻らない場合も、清江の仕合せを願いたいと思う。笹乃屋文左衛門との約束は、清江が東吾のもとからいなくなっても続くけれど、恩に着せるつもりはない。東吾が勝手にしたことだ。


 ――雑念だらけで朝顔の手入れをしていたら、いつも以上にぼうっとしていたらしい。危うく、肥料をやりすぎては弱ってしまうさいざきや車咲の鉢にどっさりと肥料をやってしまうところだった。そんな間の抜けたことをしていたら、手入れはちっとも進まなかった。


 お天道様が真上に来て、今に昼かと、東吾は目を眩ませながら上を見上げた。

 夏の日差しは強い。東吾は滴る汗を手の甲で拭いつつ、縁側から家の中へ戻った。


 それから、清江が昼餉の支度を整える間、東吾は文机に向かって入谷の朝顔師、成田屋なりたやとめ次郎じろうの朝顔図譜である〈両地りょうちのあき〉を眺めた。まだここに描かれている二十六図のすべてを再現するには至らない。この極地にはまだ遠そうだと惚れ惚れする。


 そんな時、玄関先で声がした。


「誰かおらぬかっ」


 訪いを入れる、その声は正治郎ではない。正治郎はあれから顔を見せることが減った。

 若い男の声だ。それも口調からするに、侍である。


 清江が出たかと思ったが、その様子はなかった。侍の声はどうにも荒い。恐ろしくてすぐに出られなかったに違いない。東吾が向かった先にやはり清江はおらず、三和土の上に険しい顔をして立っている若侍がいただけであった。


 しかも、その若侍には見覚えがあった。いつか道端でぶつかったのではなかったか。

 鍛えられた体、精悍な顔つき、色あせた袴――。

 覚えている限り、きっとそうだと思えた。


「私がこの家の主だが、何か?」


 今さらになって、あの時ぶつかったせいで怪我をした、などと言ってくることはないと思うが。東吾はよくわからないなりにも若侍の話を聞くことにした。

 どうしたわけか、若侍は今にも斬りつけそうな勢いで東吾を睨みつけている。


「おぬしがか? 身共みどもは宮口克磨かつまと申す。妹を出してもらおう」


 宮口――。

 清江の家がそうした姓であった。ここへ来て妹というのなら、清江しかいない。舟が見かねて清江の居場所を教えたのだろう。


 無事と聞いたはよいものの、それを知ると今度は家を飛び出した妹の行いに腹が立ったのかもしれない。武家の娘ならば親や兄が決めたことには従えと、そう考えているように見えた。


 清江は、兄の声だとすぐに気づいたはずだ。だから出てこない。東吾は少々困った。


「私は久遠東吾と申す。克磨殿、落ち着かれよ。そういきり立っておられては、穏やかに話もできぬのではないか?」


 本当に、妹を前にしたら頬のひとつでも張りそうな勢いなのだ。宥めるつもりで言った東吾に、克磨はぎろりと血走った目を向けた。


「――が」

「うん?」


 克磨の声は怒りのあまりかすれていて、よく聞き取れなかった。軽く首をかしげた東吾に、克磨は口角泡を飛ばしながら改めて口を開く。


「清江がどんな女子か知ってかけにしたわけではなかろう?」

「て――いや、そうしたことはなく、私はだな――」


 男の一人住まいに若い娘が居つけば、あらぬ疑いを招く。それはわかっていたのだが、やはりこう、真っ向から言われてしまうと閉口する。それも、清江の身内からでは余計にだ。


 東吾が何を言おうとも、頭に血が上っている克磨は聞く耳を持たないようだ。どうしたものかと思案していると、清江が出てきた。けれど、腰が引けている。兄がこう怒り心頭では仕方のないことではある。

 克磨は清江のことも鋭く睨みつけた。


「やはりここにいるのか。清江、あの・・は流れたぞ。喜べ」


 喜べと言っているわりに、克磨はにこりともしない。清江も蒼白で、今にも倒れそうだった。

 けれど、最後の最後、細い糸一本で己を保っているように見えた。


 清江は、弱々しかった表情を引き締め直し、兄に負けぬような厳しい目をした。そうした強気なところもあるのかと、意外にも思えた。


「兄上、言いがかりをつけるのはおやめください。わたしが無理を承知で置いて頂いただけですのに、東吾様を愚弄されるようなことを申されるのは、わたしも我慢なりません」


 怒っているのか。

 清江はまっすぐに兄を見ている。克磨もまた、清江を直視していた。間にいる東吾は自分が二人の目には入っていないような気になった。


「言いがかりとはよく言う。男のもとへ転がり込んだくせに、お前はこの男とはなんでもないと申すのかっ」


 克磨も我を忘れているらしく、東吾はこの男呼ばわりされたが、東吾が怒る前に清江が怒った。


「当たり前です。東吾様はご立派なお方です。困っている女子の弱みに付け込むようなことはなさいませんでしたっ」

「そんなもの、周りから固めているだけに決まっているだろうがっ」

「兄上が東吾様の何をご存じだと申されるのですかっ」


 先ほどまで青い顔をしていた清江は、今では頬を紅潮させて兄と口論している。逆らえずに家で小さくなっていたのかと思えば、案外口は達者なようだ。

 東吾は口を挟めず呆然としていたが、克磨が不意に東吾の方に顔を向け、そして吐き捨てるように言った。


「そういうつもりがなければ、わざわざ笹乃屋殿に話をつけたりするものか」


 ぎくり、と東吾が身じろぎしたのを、清江も気づいただろうか。克磨はこめかみに青筋を立てて言い放つ。


「頭を下げて、清江を諦めてくれと申したそうだな。いくつか裏で約束事もあったそうではないか。己がもらい受けるつもりでないのなら、何故そのようなことをする? 懐を痛めてまで清江のために尽くす意味が他にあるか?」

「あ、や、懐は痛めておらん。そこは笹乃屋殿が――」


 と弁明してしまい、東吾は途中で口をつぐんだ。

 そうっと振り返ると、清江はひどく傷ついた顔をした。


「東吾様――」


 その途端、克磨は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。


「ほれ、言った通りだろうが。笹乃屋殿がおぬしを諦めると告げに来た時、事情をお話しくだすった。おぬしのような娘は、ああした大きな力を持つ御仁のところへ行くのがよいと常々申しておったものを――」

「兄上っ。お帰りくださいっ。二度とこちらにはお見えにならないでくださいっ」


 清江の金切り声に克磨は顔をしかめた。苦々しい表情を浮かべつつ、目は東吾の方に向いていた。


「いいや、明日、もう一度来る。連れ帰るから、荷物はまとめておけ」


 まとめるほどの荷物もないだろう。今すぐに引っ張っていかないのは何故かと思うが、思えば清江は家を飛び出すほどの女子なのだ。無理やり連れて帰ろうとすると、帰った後でまた飛び出すというのがわかるからだろうか。


 盛大に足音を立て、克磨は帰った。とはいえ、明日また来るのだ。どう迎えようか、東吾は考えると頭が痛かった。

 しかし、そんなことを言う隙もなかった。恐る恐る見遣った時、清江は泣いていた。


 兄との喧嘩で気が昂ったせいかと思ったが、ここへ来た当初から涙は見せなかった女子だ。今になって泣くのかと、東吾はまた驚いた。


「清江殿?」


 呼びかけると、清江は腰が砕けたようにへたり込んだ。かと思えば、その場で手を突いて東吾に頭を下げた。兄の振る舞いに対する詫びかと思ったが、そうではなかった。


「申し訳ございません」

「いや――」


 清江は顔を上げなかった。下を向いたまま、震える声で続ける。


「東吾様が笹乃屋様にお話をつけてくださったというのは本当なのですか? そのせいで何か東吾様のご負担になってしまわれたのでしたら、わたしはどうお詫びしたらよろしいのでしょう――」


 己のせいでさらなる迷惑をかけてしまったと、そう思って清江は心を痛めているのだ。己の不遇を嘆いて涙することはなかったのに、東吾に負担をかけたと、そこを申し訳なく思って涙が堪えられなくなるのだとしたら、そんなことで泣かなくていい。


「俺が勝手にしたことだから、清江殿が責を感じることはない。たまたま笹乃屋殿とは知り合いであったから、上手く話がつけられただけなのだ」


 東吾がそう告げると、清江は勢いよく顔を上げた。涙に濡れた眼と赤い目元のせいで落ち着かない心持ちになる。胸がざわざわと騒いだ。


「それでも、頭までお下げになったと。わたしごときのために、東吾様にそのようなことまでさせてしまって――」


 また、ほろりと涙が零れる。東吾はそんな清江の涙にどう答えていいのかわからなかった。こんなふうに女子に泣かれたことなどない。


「できれば、泣かずにいてもらえぬだろうか」


 率直に、願いを口にした。本当に、他にどう言えばいいのかがわからない。心の臓がもう無理だと、休ませてくれと訴えかけるほどには疲れた。

 すると、清江はハッとして手の甲で涙を拭った。


「すみません。見苦しいものをお見せしました」

「いや、そういうわけではなく――」


 女子の涙には慣れていない。泣かせたくない。笑っていてくれた方が嬉しい。それだけのことである。

 涙を拭った清江は、深く息を吸って気持ちを落ち着かせている様子だった。そうして、言う。


「明日、兄がまた来ると申しておりました。これでは東吾様に度重ねてご迷惑をおかけすることになりますので、わたしはお暇させて頂くしかございません」


 どきり、とまた心の臓が跳ねた。平穏な毎日の中、こんなにも目まぐるしく感情が動いた日があっただろうか。そう思えるほど、今日は異質であった。


 それは、もしかすると清江たちのせいというよりも、己のせいなのだろうか。こんなことでいちいち動揺してしまうのは、己の鍛錬が足らぬからなのか。


 清江が出ていくと言う。

 これで静かになる。女手がなくなって困るから、次が見つかるまで舟に頼んで、そうして、口入れに行って――。

 それでことが済む。済むはずなのだ。何故、どこに引っかかる。


 目を瞬かせ、何も言えずにいると、清江はふと寂しげに目を細めた。


「――けれど、それではわたしは東吾様に何もご恩をお返しすることができません。東吾様、正直に仰って頂けますか。わたしが煩わしくお思いでしたら素直に出てゆきます。でも、もし、わたしが東吾様のために何かできることがあれば――」


 正直に言えと言うのなら、思うことを告げてもよいだろうか。

 東吾も深く息を吸い込み、それをゆっくりと吐き出すと、目の縁を赤く染めた清江に向け、そっと答えた。


「これまで、清江殿に恩を感じてほしいと思って何かをしたことはない。だから、清江殿がここにいるのが嫌で出てゆくのならば、それは仕方のないことだ。その時は引き留めぬが、そうでないのならばもう少しいてくれると助かる」


 引き留めない。違う、引き留められないのだ。

 諦めがよく、何事にも執着せずに生きてきた己だから、何かを求めるのは苦手だ。失って嘆くとしても、いつも我を通せない。そんな性質はきっと生涯変わらない。


 清江は、東吾の言葉を呆然と聞いていたかと思うと、すっかり拭い去ったはずの涙がまた一筋零れた。東吾がそのことに慌てても、清江は静かに指先で涙を隠した。そして、そのまま花が綻ぶように微笑んだ。


「すみません、ほっとしてしまっただけで――」


 ほっとしたと言う。その言葉は嘘ではないのだろう。同じ泣き顔でも、先ほどとはまるで違う。見ていても苦しくはならない。


「わたしがまだここにいてもよいと仰ってくださるのですね」

「ああ、清江殿がよければ」


 たったそれだけのことで、清江は笑った。その笑顔には素直な心が現れていたように見えた。

 そうして笑ってくれたことが、東吾も嬉しかった。――嬉しいと思った。それは、必要以上に。


 感情がひどく揺さぶられて疲れたのに、何故だかこの後、珍しく木刀の素振りなどしてしまったのは、なかなかいつもの自分に戻れなかったからである。あまりにも浮ついている。それでいて時折胸のうちが重たくなるような、落ち着かない心を持て余した。

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