第12話

 東吾が向かった先は、植木屋〈吉八〉。

 ここの主である吉造きちぞうにはとても世話になっている。久遠の屋敷にいた頃に、夏に回ってきた朝顔売りから話を聞いたのが始まりだった。


 久遠の家にいた頃に朝顔を育ててみたいと言ったところ、その気のいい朝顔売りが話を通してくれたのがこの〈吉八〉であったのだ。最初はご冗談をとばかりに取り合ってくれなかった吉造も、東吾が本気であることを察してからは丁寧に教えてくれるようになった。身分など横に置いて、東吾の師と言える。


「邪魔をするぞ」


 ふらりと現れた東吾に、〈吉八〉の若い衆は頭を下げた。


「ああ、朝顔師の旦那。ようこそいらっしゃいやした」

「そろそろ何か持ってこられるんじゃねぇかって、皆で話していたところでございやす」


 植木屋が商うのは朝顔ばかりではない。季節にもよるが、菊や躑躅つつじなどの変化咲も人気がある。吉造はどちらかといえば朝顔贔屓びいきで、朝顔が多くはあるけれど、や他の鉢植えも扱っていた。


 余程の大店でもない限り、並の植木屋が、変化朝顔にだけかまけているゆとりがあるとはいえなかった。だから、東吾が変化朝顔を持ち込むことを吉造は喜んでくれていた。商いを抜きにしても眼福であると。


 藍地に白抜きの暖簾から、ひょっこりと吉造が顔を出す。気の張る会合でもない限り、奉公人と同じ仕着せを着ていて、一見して主とはわかりづらい。


「ああ、東吾様。東吾様がいらっしゃったってこたぁ、今度は何が咲いたんでござんしょう」


 吉造は、五十を過ぎた年頃だが、息子ほどの年の東吾にも丁寧に接してくれる。東吾が士分の出であるからかもしれないが、一応は同好の士として認めてくれているということもあろう。

 太めの眉を動かし、目を大きく見開いている。その目は楽しげで、いくつになっても童のようだ。


「うむ。今見せよう」


 そう言って笑うと、東吾は朝顔を収めてある箱を手に、店の奥へ踏み入る。上がり框に箱を置くと、店中の奉公人たちが集まってくる。皆に囲まれながらも勿体つけるでもなく、東吾はあっさりと変化朝顔を出した。ざわざわと、奉公人たちが変化朝顔を見て声を零した。


「ほぅ。雪白の――数切風鈴、それも度咲たぁ見事なもんで」


 と、吉造がため息にも似た息遣いで零した。


「葉を黄にしたかったのだが、青のままだ。少々残念ではあるが」

「それでも十分に難しいものでございやす」


 皆、朝顔を食い入るように見ていた。植木屋なのだから、興味のある者ばかりである。


「では、これを買ってくれる御仁を呼んでほしいのだが」

「それでしたら――」


 吉造は帳場の横にかけてあった帳面を手に取ると、それをめくりながらつぶやいた。


「今回はまず、笹乃屋ささのやぶん衛門えもん様にお知らせ致しやしょう」


 〈笹乃屋〉は、化粧油やびんつけ油などを扱う化粧店けしょうだなである。谷中やなかにある〈笹乃屋〉は、文左衛門の代に化粧油の〈せん里香りこう〉が大当たりし、それから身代が肥えて、今ではなかなかの大店である。


 文左衛門とは何度も会ったことがある。以前からいくつか買い取ってもらった。文左衛門自身も変化朝顔を咲かさんと栽培しているのだが、思うようには咲かないらしい。それでも手元には置きたいのだと、大枚を叩いて買い取ってくれるのだ。東吾にとってもよい客である。


「うむ。頼む」


 東吾がうなずくと、吉造は若い衆を使いに走らせた。そうして東吾を座敷に上げ、麦湯を振る舞ってくれた。そうして、苦笑しながら言うのだ。


「本当に東吾様は変わっておいでだ」


 それは東吾自身がよくわかっている。己もまた、変化朝顔と同じあだばなだ。

 

「まあ、変わってはおるだろうな」


 動じずに返す東吾に、吉造はどこか心配そうな目を向けた。


「珍しい花が咲けば、好事家たちはどんなに金を積まれても手放したがりやせん。見せびらかしたくて花合わせにも出しやす。番付の位に一喜一憂するもんでしょう? それが、東吾様はこれが活計とばかりに、苦労して育てられたはずの朝顔を、まるで執着せずに手放しちまいやす。そこが変わっているってぇんでございやすよ」


 吉造は、東吾が久遠の姓で呼ばれることを厭うのだと知り合ってすぐに察し、名で呼ぶようになった。機微のわかる男だからこそ、奉公人をまとめ上げられるのだろう。


「目立ちたいわけではない。しかし、生きてゆく以上、金は要るのでな」


 久遠の家にしても、武家は何かと物入りだ。今後正治郎が金に困ることがあった時も援助できるほどには溜め込んでおきたい。そういう形での恩の返し方でもいいかと思う。

 それでも、吉造は言った。


「金はいくらあっても足りねぇかもしれやせんが、それでもね、こう手塩にかけて育ててやっと出た珍しい花なら、愛着が湧くんじゃねぇんですか? あっしらは商売でござんすが、時折どうしても手放したくねぇと思うこともありやす。まるで我が子みてぇに愛しくって」

「そうだな。まあ――」


 苦労してやっと咲いて、ほっとすることはある。だから東吾はうなずいた。

 開け放った戸口から座敷にそよ風がフッと吹いた。その風が涼やかに風鈴を鳴らす。


「あっしらは植木屋でございやすから、これがどれくらい難しいものかを承知しておりやす。もう、あっしなんぞよりもずっと難しい掛け合わせをされるようになって、ここまで来るのにとんでもなく打ち込んでこられたってぇのに、その成果を手放しても東吾様はけろりとしておいでで。そこがわからねぇんでございやす」


 などと苦笑されてしまった。

 そうして――。


「東吾様は何かに執着することがねぇご様子で、それがよいところでもあるたぁ思いもするんですが、なんかこう、風に飛ばされちまいそうにも見える時があって――」


 風に飛ばされるとは、と複雑な心境であったが、吉造の言いたいことが東吾にはなんとなく伝わった。

 家まで捨てて、気の向くままの暮らしを選んだ東吾だ。嫁ももらわず、子も作らず、武士とも呼べないような暮らしをしている。


 捨てられないものなどなく、風の吹くまま気の向くまま、ふわりとなんとなく生きてゆく。へし折られたとしても、それもさだめかと諦める。己自身のことでさえ、東吾にはどこか他人事のようなところがある、と吉造は気になるのだろう。


 正治郎も同じことを思っていたのだ。きっと、久遠の両親も。

 何かに執着するのは人として当然であり、それが人らしさであるのだから。

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