第10話
正治郎を実家まで送り届けようとしたが、正治郎は間違いなく帰るからと東吾の申し出を断った。
あの文は最初から東吾に見せるためだけに書いたものであり、久遠の両親は正治郎が家出をしたなどとは思っていないのだ。あの若党だけが手伝わされて困っていた。
――血の繋がり以前に、ずっと共に生きてきた家族でもわかり合えない。
それは東吾自身が間合いを取っているからだ。わかっていても間合いに人を入れられないのは、己の心の弱さだ。
本当に、正治郎にも罪悪感しかない。
なんとも晴れぬ心持ちで家に戻ると、不安げな面持ちで清江が迎え入れてくれた。
「正治郎は見つかった。家に戻ると言うから大事ない。騒がせて悪かったな」
愛想笑いで答えると、清江は僅かに何か言いたげな顔をしたけれど、何も言わなかった。
そんなことがあって、よく眠れぬまま朝を迎える。
もし清江に疲れた顔をしていると言われたら、暑さのせいだとか、蚊の羽音のせいだとか、もっともらしいことを言おうと思ったが、これと言って指摘されることはなかった。
まだ未明であるから、眠たそうな顔をしていて当然だったのかもしれない。
早朝、東吾の朝顔屋敷に、吊り台を両側にぶら下げた天秤棒を担いだ男がやってきた。すらりと
「朝顔師の旦那、おはようございやす」
朝っぱらから威勢がいい。時折、仙平はこうして仕入れに東吾のもとを訪れる。
振り売りで売るのは、ごく平凡な花をつけた朝顔の鉢だけである。廉価な朝顔はこうして朝顔売りが練り歩いて売りさばく。庭のない町家には鉢植えの朝顔が丁度良いのだ。
変化朝顔ほど大枚に化けたりはしないものの、二束三文でも買い取ってもらえるだけ助かる。
「朝早くから悪いが、ひとつ頼む」
吊り台に朝顔の鉢を並べ、それを天秤棒で担ぐのだ。落とせば鉢は割れてしまうし、数を持てばそれなりに重いので大変ではある。それから、朝顔は昼を回ればしおれてしまう。それまでに売りきらねばならない。
〈売れぬ日はしおれて帰る朝顔屋〉
などという狂句まである。とにかく、朝のうちが勝負なのだ。
「へい、売りきってみせやす。あっしの腕ならこれくらい楽勝で」
へへ、と笑ってみせる。男前で粋な朝顔売りは
仙平に鉢植えの朝顔を託した後、東吾は庭の片づけをする。土焼きの鉢は、大きめのものと小さめのものを使っており、今渡した鉢は小さな方である。小さな鉢に種を撒き、変化が見られれば大きめの鉢に移すが、変化が現れず平凡に咲いた花はああして朝顔売りに売る。
しかし――。
変化朝顔を作り出すというのは、茶碗の中の米粒をひとつつまみ出し、残りの茶碗の飯を捨てるような行為に似ている。育てられる数には限りがあり、そこに変化が見られなければ、やり直さなくてはならない。せっかく出た芽を摘み取り、花を刈り取って、空にした鉢に新たな種を撒く。
望む変化が現れるまでそれを繰り返すのだ。
本当は、平凡な朝顔など売れずとも金には困らない。捨てればいいだけなのだ。それでも、ひと鉢でも愛でてくれる相手がいるのなら、その朝顔が救われたような気になる。
せめて最後まで咲けて実を結べたのなら、まだましだろうと。
東吾は仙平が持ちきれなかった分の朝顔を、プツリ、とむしった。プツリ、プツリ、心が痛む。
そのうちに慣れるかと思ったが、やはりいつまでも嫌なものだ。せっかく芽吹いたというのに、種を撒いた己の手で引きちぎる。
それは、出来の悪い我が子を不要とする親のようだ。望んだように生まれなかった子は要らぬと。
そんなふうに考えるから苦しくなるのだが。
抜き去った朝顔を、庭の隅に置いてある石の前に並べた。この石は、墓石のようなものだ。何の墓かといえば、朝顔のだ。東吾の勝手で葬る朝顔に、東吾はここで度々手を合わせる。
すると、背後から清江が声をかけてきた。
「東吾様、それはお墓でしょうか?」
いつの間にそこにいたのか、まるで気がつかなかったので驚いた。気まずいながらにも東吾は振り返った。
清江はきっと、東吾が犬か猫でも飼っていたのではないかと思ったのだろう。その墓に朝顔を手向けているように見えたに違いない。
「これは――朝顔の墓だ」
「朝顔の、でございますか?」
きょとんとされたのも無理はない。自分でもおかしなことをしていると思う。
朝顔のためというよりも、自分の心を慰めるためにしているのかもしれない。
清江は静かに東吾の横に歩み寄る。東吾は言い訳のようにしてつぶやいた。
「変化しなかった朝顔のすべてまでは育てきれんのでな。間引いた朝顔の墓だ」
己の手で小さな命を終わらせる、その苦しさがこんなことをさせる。
嫌ならきっぱりと変化朝顔など作らなければよいものを、手を引くこともできない。どちらにせよ勝手なのだ。許してくれというのもおこがましい。
それでも、清江は
他人に
「仕方がないことと片づけてしまわれず、こうして手を合わせる東吾様のようなお気持ちを誰もが抱いていてくださったら、この世はもっと優しくなりますのに」
ぽつり、と清江が独り言つ。
褒められるようなことはしていない。むしろ、こんなことをしていて情けないとさえ思う。
けれど、清江がただひと言つぶやいただけで、東吾はほんの少し救われたような気がした。
正治郎は、己など生まれなければよかったのかと言った。そんなこと、あるはずがないと思う心に偽りはないが、東吾もまた、己などいなくてもよかったのだと考えていた。
それでどうして偉そうなことが言えただろう。説得力などあったはずもない。
いつも以上に、どうしようもない己に愛想を尽かしていた。
正治郎とのことも何も知らない清江の言葉だが、それでも今は誰かから許されたいような心持ちであったのだ。
東吾は、心の奥で清江に感謝した。
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